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1-1 真夜中のクリームダウン

 眼下を鉄の塊が潜り抜けていく。パンドラの箱の蓋を開いたように、涙袋がまばゆく照らされる。耳をつんざく金属の擦れる音が、まるで誰かの悲鳴のようだった。私の行き先は地獄なのか。……なんて、それは寂しがりやな人がする迷妄に過ぎない。待っているのは無、薬にも毒にもならない虚空。遅かれ早かれ到達する極致。


 言うまでもなく私は今、跨線橋から飛び降りようとしている。まあその選択に対して、入れたい茶々は皆それぞれ色々あるだろう。しかし安心するがいい。自他共に認める尊くない命、さっさと絶った方が賢明な命というのは存在する。絶望的に生きるのに向いていない、自殺を選んで当然、だから、無駄に後ろめたさを作ってまで藻掻くより、もっと早くこうするべきだった。


 蓋が閉じて、辺りには宵闇と闃寂が帰ってくる。いつでも行けるように欄干を握る手に力を込めて、微かに押し寄せる高揚感をなぞってみたりしながら、自分の足元の蓋が開くのを待った。……お迎えが向かいからやって来た。若々しさと瑞々しさを最期まで活用して、軽快な身のこなしで手すりに足をかける。命を散らすことに夢中になっていた。


「やっ、自殺なんて思い直してっ」


 女性の声と共に、腰からお腹の辺り一帯をぎゅっと押さえ付けられる。痛くはないが生温かくて湿っぽさもあって、自分が結構汗をかいていることを自覚させられて、気持ち悪い。じゃなくて、思わず流し目に自分の足元を見ると、違う学校の夏服を纏った、全く知らない女子高生が、がっしりどっしりコアラの赤ちゃんのように抱き付いていた。


「何するの、辞めてよっ。離して、私はっ……」

「ここで離れたら、もう一回飛び降りようとするよね。だから辞めない、辞められない」

「お願いだから、死なせてよ……。分かってるよ、甘えてるだけなことぐらい。沢山の人に迷惑をかけたことも自覚してる。だから、だからこそ消えてしまいたい、これ以上誰かを傷付けないために」

「死にたいなんて、視野が狭くなってることの証左でしかない。そうだ、深呼吸しよう、頭を冷やそう。衝動に身を任せて人生をめちゃくちゃにしないで」

「別にこれは、衝動なんかじゃないよ。ずっと前から死にたいって思い続けてきた。これは一時の気の迷いなんかじゃない。宿命みたいなものだから。それがやっと叶いそうなのに……」


 ゴゴォーっという音と共に、電車が足元へ潜り込んでいく。あれに轢かれるはずだったの

 に。思わず吐いた弛んだ溜息は、吹きすさぶ電車に巻き込まれて消えていった。


「かっ、考えてみてよ。車両一両当たりの定員を150人だとした時に、今はラッシュの時間だから乗車率150%で、一両当たり225人が乗っていて、それが10両だから2250人。あなたが今飛び込もうとした電車には実に約2250人が乗ってると概算できる。その人たちが危険にさらされるんだよ。それに、電車が止まれば何十万人に影響が波及して、しかもこの時間だから、みんな一刻も早く家に帰って、家族に会いたいとか寝床に入りたいとか思っているはず。あなた一人のせいで、その思いが全部粉みじんになる。分かる?自殺なんてしちゃいけないって、理解できた?」


 私を蹴散らしてくれるはずの電車と同じくらいの迫力と勢いで、彼女はすらすらと理屈を展開した。タナトスと口八丁で交渉しようだなんて、それはあまりにも無謀な話だと思うけど……。一つ言えるのはこの子が、今までに消えてしまいたいなんて感情を抱いたことのない、ある意味でおめでたい子だってことである。それは悪いことじゃない。だからこそ、私のような薄汚れた人間に近付くべきではない。


 彼女の理屈は電車の音にかき消されて、ほとんど何を言っていたのか聞こえなかった。説明が終わるのと同時にお迎えの電車は通過しおおせて、すぐに音もしなくなった。まるで、自分に手を振られたと思って振り返したら、自分の背後にいる人に振っていて気まずくなる古典的で陳腐なすれ違いみたいだった。


 電車が行ってしまった……と無意識に脱力した途端、その子は思いっきり地上に引きずり込もうと引っ張ってきた。寂寞が空気に浸透する前に、私たちの慌てふためく情けない声が夜空へ打ち上がった。


「ちょっ、おっととっとっと、うわぁっ!」

「あぶなぐわっ……」


 通りすがりの優等生は私を支えきれず、そのまま二人して尻餅をついた。彼女は腰を擦りながらすぐに立ち上がった。いいなぁ、七転八倒する気力があって。私は橋の中でも、一休さんの邪魔にならない場所に、へばりつくように座りこけていた。


「とっとにかく、電車に飛び込むなんて、良くないよっ。肉片が砕け散っていくのを目撃してしまった人とか、それを拾う人の苦労とか……。そういうのをきちんと考えられるようにならないと多分、いけない年齢だから」

「言ってることは、すごく正論だと思うけどさ、私だって正論は知ってるけどさ……。万能ではないんじゃないかな……」

「正論とか、そういうんじゃなくて、これは私があなたの自殺を止める根拠だから。もちろん、自殺することが損だと思う根拠でもあるけど」

「根拠……かぁ。こんなことを言うのも意地悪だと思うけど、自殺を止めて表彰でもされたいの」

「別に、そんな野望はないけど。でも、自殺は止めなきゃいけない事だから」


 彼女は後ろの一つ結びを一切揺らすことなく、ただひたすらにまっすぐで純粋な瞳で私を見下していた。暗がりの中でも、彼女の引き締められた表情ははっきり分かった。一つ思ったのは、住んでいる世界が違うんだということ。お互いに理解し合えるはずが無い。不慮の事故だったんだ。


 地面に手を突いてさっさと立ち上がる。眼閃なのか星なのか分からない白の点が、視界の節々に映り込む。私は少し安心していた。全く死ぬ気が失せていない。この憎き意識を、さっさと引き裂いてしまいたい。このまま家に帰るより、死ぬ方が何億倍もマシだ。


「じゃあ、行くから。んん……、助けてくれたことは、ありが……」

「ま、待って!」


 顎を引いて頭を下げた気になった雑なお礼だけ、呼吸のように済ませて立ち去ろうとすると、命の恩人さんは腕を掴んできた。小さくてすべすべで柔らかくて頼りなくて、正義に打ち震えているのが伝わってくる。


 後ろを振り向いて、繋ぎ目をこの目で確認してから、顔を上げて握られた手の先の様子をうかがった。そこには私へ出荷待ちの希望があった。永遠に受け取られることのない、すぐに在庫処分される希望が。


「あぁ、そういう感じ……」

「そんな希死念慮を抱えたまま行かせられない。絶対、他の場所か時間を改めて死のうとするよね」

「そりゃあ、まあ」

「ねえ、どうして、飛び込もうだなんて考えたの……?」

「自殺して当然の人間だから。結局、それ以上に理由なんてないよ」


 それを口にする時、私は少しばかり喜悦を感じた。僅かに口元が綻ばせてしまったような気がする。少なくとも、涙なんてものは流れそうになかった。


「そんなこと無いよ。それはただ、周囲の人間に環境に世界にそう思わされてるだけ。人間関係に詰んで、家族とも上手くいかなくて、頼れる大人もいなくて、世界の全てから見捨てられた気になって。でも実際は、手の届く範囲の世界から見捨てられただけ。その外にだって世界は続いてる。それだけの事なのに、惑わされて自分を歪めるのは良くない」


 彼女は時々腕に力をこめながら、恐らく彼女なりに必死に生への誘い文句を読み上げた。それだけって勝手に決め付けて……。そんなところだけれども、どうでもいいけどさぁ……。元から頷く気なんてなかったけど、頷くのが憚られた。


「これは……紛れもない自分の意思、だから」

「自分の意思だなんて、どうして言い切れるの?周りの影響を受けたり、周りの目を気にしたり、誰かの言った言葉に共感して、それを自分の言葉だと勘違いしたりしてないって、断言、できないよね」

「それでも、他人に責任転嫁できない程になるまで、自分を堕落させたのは他でもない自分なんだ。嘆いたって叫んだって、それは天に唾するようなもの。お願いだから、死なせて……」


 他人の死生観を批判するつもりも折伏するつもりもないけど、ともかく私は死んだらその先には無しかないと思っている。あるいは、そうであって欲しいと願っている。死がそういうものであれば、現在進行形の辛いことから逃げて、いつか降りかかるであろう自分の犯した罪の報いからも逃げられる。私は今、唯一の救いを取り上げられそうになっている。


「だから、そう思い込まされてるだけだって。生きていれば死ぬこともできるけど、死んだら生き返ることはできない。選択肢は多いに越したことはないよね」

「別にいいよ」

「いや、全部から逃げよう。ここから逃げよう、親も先生も友達も付いてこれないほど遠くに」


 彼女は二人分の妄執を断ち切るように、そう宣言した。そこには決して輝かしさなどは無く、ただただ激しい清流が物理的に私を動かす。心はそれに引きずり回される。


「どうせ、一人の人間が背負える責任なんてたかが知れてる。だから自己破産みたいなシステムがあるわけだし。無理に同じ場所にいたら鬱病になっちゃう。一度鬱病になってしまったら、そう簡単には治らないんだよ。そうなる前に、動けるうちに動いた方が良いよね、論理的に考えて」

「逃げて、それで何が変わるの……?」

「そういう思考が危険信号なんだよ、多分。とにかく逃げようっ。誰も追ってこれない程、とことん遠い場所に。ありがたいことに、日本国憲法には移動の自由が定められてるんだし!」


 慣性の法則で首ががくんとなる。ブラウスの袖も巻き込みながら腕を乱雑に引かれて、強引に夜の闇を押しのけさせられる。私は……特に何も考えていなかった。驚くほど頭の中が空っぽだった。あまり真剣に話を聞いていなかったので、彼女が動き出すまで、これから何が起こるのか理解してすらいなかった。まあ、明日引っ越すのに、部屋がすっからかんじゃない人はいない。


 ただの通りすがりの、見覚えすらない制服を纏う女子高生は、矢面に立って、夜と怪訝な視線をかき分けていく。息をする価値もない私を逃避行に引きずり込む。結んだ髪がばっさばっさと左右に振れている。どこまで本気なのか、あるいはどこまでも本気なのか。前者であったらいいなとは思いつつ、恐らく悪い人ではないんだろうと信じ込んで、転ばない程度に足を動かした。解放感も罪悪感もなく、ときめきも胸騒ぎもなく、例えるならば竜巻に巻き込まれたような、いや、経済不況のあおりを受けてリストラされたみたいな、そんな気分だった。


 こんな出会いはきっと奇跡で、彼女は天使なのだろう。本来ならば、その眩しさと行動力に焼かれつつも、早まる鼓動と呼吸に合わせて、全能感と無敵感と一体感に心を奪われるところなのに。それができない私は、もはや死んでいると言っていい。彼女がしていることは、死体を引きずり回すようなものだった。


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