2, 忍び寄る脅威
次第に青い草は減ってきて、代わりに辺りには大小様々な大きさの岩が見え始めている。あれから朝を迎えた一行は出立の準備を整えると更に歩みを進め、少しずつハイラ山脈に近づいてきていた。昨日はシャルの涙に驚いていたヤイノやチェナであったが、朝起きた時には元気そうにソラに刷毛掛けをしている彼を見て安心したのか、特に昨晩について言及することは無く、皆きさくに接してくれていた。そんな旅路の夕暮れ、一行はその日初めての休憩を取り、二度目の野宿の用意を始めていた。
「あれ。旦那!スイです!スイだけが戻って来ました!」
荷を括り付ける縄を締め直しながらヤイノが、少し離れた丘を越えて一人でこちらに駆けてくるスイを見つけた。シャル達が野宿の準備をしている間、チェナはスイを連れて狩りに出かけていた。ゴウに遠くには行くなと言われている為、そこまで離れることはないはずだがそれでも出かけてからそれなりの時間が経っており、皆戻りが遅いと思い始めていた。
そんな中、何故かスイだけが戻ってきたのだ。加えて、戻ってきたスイの様子も何かおかしい。普段は大人しいはずのスイが今は人間達の周りをせわしなく歩き回り、耳を真後ろに絞りながらしきりに戻ってきた丘のほうに顔を動かしている。まるで彼らに何かを伝えようとしているかのようだ。
「…ムツイ。俺はシャルと一緒にチェナを探してくる。直ぐ戻るからそれまで荷と二人を頼む」
「…分かりました」
「シャル。お前の姉さんの馬を少し借りるぞ。お前もソラに乗ってついてこい」
ゴウはそう言ってスイをなだめると、荷車から細長い包みを引っ張り出して肩にかけ、スイの背中に乗る。ただならぬその佇まいに、シャルの全身に一瞬で緊張が走った。
(チェナに何かあったんだ…。そうじゃなきゃスイが一人で帰って来るなんてありえない…)
シャルは急いであぶみを直し、ソラの背に跨る。
「行くぞ」
「はい…!」
そして二人は沈みゆく太陽に照らされながら、丘に向かって走り出した。全力で走る馬になど乗ったことのないシャルは途中で何度もソラの背から落ちそうになる。そのおかげで、チェナよりもずっと体重の重いゴウを乗せているにもかかわらず、スイのほうが少し先を走っていた。
走り出してから数分後、一足先にゴウとスイが丘の上に辿り着いた。スイの背から下りたゴウは丘の向こう側を見つめながらシャルに何を伝えるでもなく、手にしていた包みをゆっくりと解く。そして革で出来たその包みの中からあらわれたもの、それが両刃の剣であることは背後にいるシャルの目からも明らかであった。ゴウが得物を持ち出してきていた、それが分かった途端背に嫌な汗がぶわっと溢れ出てくるのを感じた。
(あれは剣だ…!向こうで一体何が起こっているんだ…?)
その時、シャルが登る丘の頂上から強い風が吹いてきた。吹き降ろしてきた風が顔に当たった時、シャルの鼻は、その風の中に確かに血の臭いが混じっているのを感じた。ソラもそれを感じ取ったのか小さく嘶くと顔を上下に大きく振る。
「ソラ急いでくれ!お願いだ!」
シャルは嫌がるソラを半ば無理やり前に進ませ、やがてゴウの直ぐ後ろに辿り着いた。
「ゴウさん、一体何が…」
そう言いかけたシャルはゴウの視線の先にあるものを見て戦慄した。
丘の下には数十の死体が転がっていたのだ。腹や首から血を流しながら横たわる骸達は皆あちこちが破れた薄汚い布服を着ており、手には刀や剣、弓が握られていた。何者かに殺されたそれらが盗賊であることはシャルでも理解出来た。
そして丘に登った二人の目に飛び込んで来た光景はもう一つ、死体が転がる少し離れたところで小さな人影ともう一回り大きい人影が刀で戦っていた。
「チェナだ!ゴウさん、助けにいかないと…!」
しかし慌てるシャルとは正反対に、丘の下を見つめるゴウの目はいたって冷静だった。
「いや、助太刀は不要だ」
「でも、あのままじゃ…!」
「心配するな。お前の姉さんは負けやしない。それよりもすまない。お前を連れてくるべきじゃなかった」
キンッ、という小さな音が響く。その音を聞き、シャルはチェナのほうに急いで顔を向ける。響いた金属音、それは勢いよく振り上げたチェナの刀が賊の持つ刀を弾き飛ばした音であった。そしてチェナは武器を失い無防備になった男に容赦無く切っ先を突き立てる。
「がはっ…」
腹を深く貫かれた男は最期にそう漏らすとうなだれるように力なく倒れる。その動きに合わせてチェナは体ごと背後に動いて刀身を引き抜いた。体から刀が抜けた男は勢いよくその場に倒れ、他の死体と同じように草と砂が混じる地面に、赤い染みを作り始めた。
「あ…あぁ…」
無意識の内にソラの手綱を握るシャルの手は小刻みに震えていた。自分の目で見る殺し合い。その生々しさは想像以上のものであった。目から伝わってくる情報だけではない、立ち込める血と金属の臭い、そこにいるだけで、内臓が石になったと錯覚してしまう程の重々しい空気は、彼を怖気させるには十分過ぎた。
そんなシャルを見たゴウは小さくため息をつくと彼と二頭をその場に残してチェナのもとに向かって一人で丘を降り始める。それをシャルはただ黙ってみているしかなかった。だが、
「うわっ!?」
急に肩に軽い衝撃を受けたシャルは転びそうになる。横を向くと先程までソラが彼の目をじっと見つめていた。今受けた衝撃もソラが彼の肩を鼻で押したからであった。
「……」
ソラはじっとシャルを見つめる。今朝ゴウと話していた時、ソラはいち早くシャルに寄り添ってくれた。今朝のソラの行動がゴウの言う通りの意味があるなら、今のソラはまさに尻込みしているシャルを前に進めるように励ましているかのようだった。
(力を求めるならその意味を常に考えろ)
ソラの澄んだ黒い瞳を見てシャルはゴウの教えを思い出し、そこでゆっくりと丘の下に視線を移した。そして生唾を飲み込むとソラに
「ありがとうソラ。そうだね、こんなことで怖気づいている訳にはいかない」
と告げ、意を決し自分も丘を下り始めた。
丘を降り切った時、下から漂ってきていた血の臭いの強さはすえた汗の臭いが混じり、最高潮に達していた。シャルは吐き気を催すその臭いを出来るだけ吸い込まぬよう時折袖で鼻を覆い、死体を避けてゴウとチェナに小走りで近づいていった。
ゴウの気配に気づき、こちらに振り向くチェナは全身を汗と返り血で濡らしていた。一人で数十人を相手していたせいだろう、息もかなり上がっている。
「こいつらが昨日、チェナが弓を向けた奴らか…」
死体が転がる一帯を見渡しながらゴウが呟く。
「いえ違います」
「何だと?」
血で濡れた刀を清めながら、チェナはゴウの言葉を否定する。
「昨日私が感じた視線は一つでした。それに、あれは針で刺すかのような、鋭い殺気…少なくともこの程度の奴らが発せるようなものではありません」
「お前さん、一体何者なんだ…」
そこでチェナはシャルがこちらに近づいてくるのに気づいた。彼の姿を一目見た途端、チェナは顔を険しくする。
「シャルを連れて来たんですか?」
その声には明らかにゴウを非難する意思が含まれていた。
「すまない。姉貴が心配だろうと思って連れてきちまった。だが、あいつにこれを見せるべきじゃなかった」
ゴウはチェナに深く頭を下げる。
「…大丈夫です。私がこんなに汚れていたら、どの道隠し通すことなんてできません。それに私のほうこそ勝手なことをしてごめんなさい。皆から離れれば視線の正体を釣り出せると思って…」
そこでシャルが二人のもとに辿り着いた。
「大丈夫?」
「チェナのほうこそ大丈夫なの!?体中血塗れじゃないか!」
「これは返り血よ。私は無傷。それよりもあんなに沢山の死体を見ておいてよくここまで来られたわね。本当に大丈夫?気分が悪いなら直ぐに戻りなさい。ちょっとあんたには刺激が強すぎるわ」
「本当にすまない。お前が見ちゃいけないものを俺は見せてしまった」
ゴウはシャルにも頭を下げる。
「僕は大丈夫です。姉さんがこれだけ強いんです。弟の僕もこれくらいでへこたれる訳にはいきません」
「しかし…」
「それよりもあの盗賊達です。もしかしてあいつらが商隊を襲った…」
シャルは背後に倒れる盗賊達の死体を振り返る。
「チェナ、あいつらはゴウさん達を狙っていたんだろ?」
「それは分からない。ここから向こうに少し行くと天幕が張ってあった。それに近づいて少し調べていたら急に奴らに襲われたの。野営地を装い、不用意に近づいた旅人や行商を襲う。本来これは西ノ国の兵が用いる戦法の一つだけど、最近は盗賊がそれを真似ているの。でも一つ不可解な点がある。罠に使われていた天幕は東ノ国の刻印が入った、とても豪華なものだった。この規模の盗賊がそんなものを持っているとは考えにくいし、それに初めから私達を狙っていたのならそもそも罠なんて張らなくても…」
チェナはそこまで言うと、突然、目を見開いて天幕があったという方向を睨みつける。
その視線の先を良く見ると、夕日を背にしながら一つの人影がゆっくりとこちらに近づいてきているのが分かった。最初は良く見えなかったそれは、こちらに歩みを進める毎にその仔細が分かるようになってきた。それはシャルよりも少し背が高い位で灰色の外套を身に着け、その外套についた頭巾を目深に被っていた。
「…ゴウさん。シャルを連れて急いで荷車に戻って下さい。それと、あそこで野宿はもう出来ません。とにかく急いでここから逃げて下さい」
その影を一目見るや否や、チェナは声を低くし、二人に直ぐにここから立ち去るように促す。
「嘘だろ…。俺の目がおかしくなっちまったのか…?だってあれはもう…」
ゴウは震える声でこちらに近づく人影を凝視している。シャルはそんな二人をどうすることも出来ず、自分もただ人影を見ていた。
「早く行って下さい。あれが恐らく“視線“の正体、そしてあなたが思っている通りのものです」
「いやダメだ。二人は荷車に戻るんだ。俺は“あれ”と戦っている。だから…」
ゴウは声の震えを懸命に抑えつつ、手に持つ剣を引き抜こうとする。しかしそれをチェナが止めた。
「あなたが戻らないなら誰が荷車を動かすんですか?それに私は用心棒です。あなた達に迫る脅威を排除する。それが私の務めです」
「しかし……クソッ!死ぬんじゃないぞチェナ!行くぞシャル!ムツイ達のところまで戻るんだ!」
そしてゴウはシャルの肩を掴んでソラとスイのところまで戻ろうとする。
「待って下さい!あいつは一体なんですか!?それに、死ぬなって…」
「あれは…あいつは滅んだはずの『灰の風』だ…。何故だ、何故奴らが生きているんだ!?俺の二年間は一体何だったんだ!?」
ゴウの声の震えはシャルにもその恐怖が伝わる程に大きくなっていた。




