1, あってはならない出会い
城壁の上に立った時、シャルの目の前に最初に飛び込んできたものは、白目をむいて倒れている兵士だった。恐らく王宮に入ってきた際にチェナが「眠らせた」見張りだろう。
(俺も山でチェナに絞め落とされた時、こんな顔になっていたんだろうか…)
そんなことを考えていると、壁の陰に隠れていたチェナが顔を出した。
「ちょっと、遅いじゃない」
「悪い、ちょっとね。でももう大丈夫」
少し怪訝そうな顔をしたチェナだったが、状況が状況のためそれ以上言及は無かった。垂らしていた縄を回収すると、二人は自分達が登ってきた城壁の反対側、つまり堀に面した側に移動した。そこには眼下の暗い堀に向かってもう一本、今度は鉤が付いた縄が垂れていた。
「ここからじゃ暗くてよく見えないけど、この縄の下には小舟が浮かんでいるわ。それで堀を渡るの」
東ノ国の堀は海と繋がっており、東街道に沿うように作られた人口の川が王宮を囲う堀と大港が面する海とを結んでおり、王宮へ送られる品はこの川と堀を使って直接王宮に届けられるようになっている。加えて、この堀と川は物流及び人が移動する際の水道としても一役買っており、日中は活発に小舟が行き来している。チェナはそんな小舟の一つを拝借して堀まで漕ぎつけたのだ。
普段は監視の為に夜間でも兵士が乗る小舟が数隻巡回しているのだが、幸い今夜はチェナが推測した通り、王宮内部の警備に兵が多く割かれていたため巡回が少なく、城壁の真下にたどり着くことが出来たようだ。
「私が先に降りるから、シャルは後に続いて」
チェナは彼の返答を待たずに縄を掴み、するすると城壁を降りて壁の下の暗闇に消えていってしまった。しかし少しすると真下から微かにポチャンッという音が聞こえた。目視では確認出来ないが、どうやら留めてある小舟にたどり着いたようだった。
その音を合図にシャルも縄に体重を預け、静かに城壁を降り始める。下に降りれば降りる程、真下から漂って来る磯臭さが強くなってゆく。そしてシャルの下に暗い水の上に浮かぶ小舟が現れた。チェナは舟頭に立ち、縄を握り何時でも小舟を動かせるように準備している。
シャルが慎重に小舟に足を下したことを確認したチェナは
「乗ったわね。それじゃ、行くわよ」
と短く告げ、垂れた縄を切るとそのままに城壁を離れ始める。
「ちょっと!縄を放っておくのは不味いんじゃないか!?」
「上に誰もいないのにどう回収するって言うのよ。それに私達が忍び込んだってことそのものがばれなければ縄が見つかったって別に何ともないわよ」
二人は堀を慎重に進み、城壁の反対側にある船着き場の一つにたどり着いた。舟というものに初めて乗るシャルだったが、水を切って揺れながら進む独特の感覚を楽しむ暇等は勿論無かった。
船着き場に着いた二人は小舟を結び付けるとそそくさとその場を離れ、再び東街道に出た。夜のとばりが下りた東街道は昼間の活気は既になく、一部の酒場を除いてほぼ全ての家屋の明かりは落ちている。またこういう酒場では普段なら酔っ払い同士の喧嘩や大騒ぎする声が時折漏れてくるが、今日に至ってはそんなことはなかった。
「昼間の賑やかさが嘘みたいだ…」
「昼間の御触れのせいね。普段ならこの辺は夜でも行商や用心棒達の宴でそれなりに賑やかなんだけど」
「御触れ?」
「そう。ケハノ村が襲撃を受けたことで東ノ国は当面の間ケハノ村への立ち入りと新道の使用を禁じたの。そのおかげで山越えを予定していた沢山の行商が意気消沈してしまって。ここが今日静かなのもそれが理由よ」
「でも、それじゃ昼間雇ってもらった行商達は…」
「大丈夫。旧道なら問題なく使えるから、私達を雇ってくれた人達は予定通り山越えをするみたいだわ。でも、これでケハノ村が襲われたっていうことが本当にはっきりしたわね。わざわざ皇帝が封鎖を命じるくらいだもの、嘘な訳ない。それにかえって助かったわ、どの道私達は新道を使えないから」
チェナのその言葉に、シャルはこれまでの目まぐるしい出来事の中でつい忘れてしまっていた一つの疑問を思い出した。
「チェナ。一つ気になっていたことがあるんだけど、チェナは俺を山で拾った時に西ノ国からの山越えをしてきたんだよね?」
「えぇ、そうよ」
「あの日の夜に山を歩いていて、村の襲撃を知らないっていうことは、チェナは村が跨っている新道じゃなくて、旧道を歩いていたってことだよね?けどそれは何故?」
新道が完成してからというもの、これまで使われていた旧道を使う行商や旅人は激減した。それは新道のほうがより整備され安全な山越えが出来ることはさることながら、旅の疲れを癒すことの出来るケハノ村の存在が大きかったためである。そのため新道を使わずにわざわざ旧道を通っていたチェナの行動にシャルは疑問を持ったのだ。
シャルの問を受け、チェナの顔には躊躇いの色が浮かんだ。
「…さっきシャルが王宮に走っていった時に、私は『村の人達に会ってはいけない』って叫んだわよね?」
「えっと、そんなこと言っていたっけ?ごめん、夢中になっていて分からなかった」
本当は聞こえていたが、シャルはあえて聞こえていなかったふりをした。
「まぁ、あんだけ夢中になっていれば仕方ないか。けど、本当だったら私は力づくでもあの場でシャルを止めるべきだったの」
「けどそれは何故?」
チェナは一度何かを言いかけたが、その言葉を一度飲み込み、しばらくの間迷いの色を顔に浮かばせていたが、やがてもったいぶった様子でまた言葉を繋いだ。
「本当はね、私達地導使いは決してケハノ村に近づいてはいけないし、その村人に出会ってはいけないからよ」
「…え」
シャルは目を白黒させる。
「ば、馬鹿なこと言わないでくれよ…。もし地導使いがケハノの人間に近づいちゃいけないなら、チェナはなんで今でも俺と一緒にいるんだ?」
彼女の言うことが本当ならチェナは決して出会ってはならない人間と行動を共に取っていることになるし、何故地導使いが決して出会ってはならない人間がその力に選ばれるのか。これまでの出来事に多くの矛盾が生まれることになったシャルの頭に再び多量のはてなが浮かび、彼はついチェナが冗談を言っているのだと思った。しかし、チェナは決して冗談などを言っているようには見えなかった。
「いいえ、これは決して馬鹿なことではなく本当のことよ。私達はケハノ村に絶対に近づいてはならない。小さい頃から教えられている里でも最も重要な教えの一つなの」
「でも…だったら…」
ここ数日間で何度戸惑ったか分からないシャルを、チェナは静かに宥める。
「落ち着いてシャル。悪いけど今はこれ以上何も話せない。でも地導の隠れ里とあなたの村にはあなたの知らない、いえ、決して知ってはいけない歴史があるの。あなたがこの道を選んだ以上、里に着いたら必ず全てを話すわ。だから、今はどうかこらえて」
そう短く告げたチェナは、固く口を結ぶと既に早い足取りを更に早めた。その速度に遅れないよう、シャルも慌てて彼女と足並みを合わせる。
(どうやら、本当に戻れない道に俺は足を踏み入れたみたいだ…)




