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元社畜の俺が転生したら、美しいご主人様に首輪を握られた犬だった ~才色兼備な貴族令嬢に溺愛されて、『お仕置き』と『ご褒美』がないと生きていけなくなりました~

作者: AKINA

眩暈(めまい)がするほどの熱気と、(あぶら)()けるような悪臭(あくしゅう)。ざわ、ざわ、と不快な喧噪(けんそう)鼓膜(こまく)を揺らす。


「(あ……れ……? おれ、今、どこに……)」


朦朧(もうろう)とする意識の中、俺――ミチルは、自分が薄汚れた円台(えんだい)の上に立たされていることを、朧気(おぼろげ)に理解した。手足は(かせ)で拘束され、首には冷たい金属の感触がまとわりついている。


「(……ああ、そうだ。おれは、また……プレゼンに、失敗して……)」


焼き付いた蛍光灯の光。鳴り止まない上司の怒声(どせい)


『お前の代わりはいくらでもいるんだぞ!』


『すみません、すみません、作り直します、今すぐ……!』


「(違う、あれは……あれは、前世(まえ)の記憶だ)」


そうだ。俺、桜井充(さくらいみちる)(三十歳)は、ブラック企業で身を()にして働いた結果、たぶん死んだのだ。過労死だったか、呆然(ぼうぜん)と歩いていた帰り道でトラックにでも()かれたのか。もう、よく思い出せない。


そして気づけば、この訳の分からない世界にいた。森の中で目を覚まし、数日さまよった末に野盗に捕まり、奴隷商人に売り飛ばされた。


壇上(だんじょう)から見下ごす客席には、けばけばしい衣装をまとった貴族らしき連中が座り、品定めするような下品な視線をこちらへ向けている。その視線が、俺の頭にぴくぴくと動く耳や、不安げに揺れる尻尾(しっぽ)に集中しているのが分かる。


おれは、犬の獣人になっていた。


「さあ、ご覧ください! これぞ稀少(きしょう)な犬系獣人、齢は十六、七といったところ! 頑健(がんけん)な肉体、そして何よりこの従順(じゅうじゅん)そうな顔つき! (しつけ)次第(しだい)で、(ねや)の慰み者にも、忠実な番犬にもなりましょうぞ!」


オークショニアの甲高い声が響き渡る。やめろ、と叫びたかったが、喉はカラカラに乾き、声も出ない。栄養失調と絶望で、意識が明滅(めいめつ)する。


首に巻かれた「隷属(れいぞく)の首輪」。その冷たい金属の感触だけが、やけにリアルだった。


「(ああ、首輪か……)」


奇妙なことに、その物理的な拘束感は、前世で毎日締めていたネクタイよりも、なぜか『しっくりくる』。あの息苦しいだけの布切れよりも、この絶対的な束縛の方が、よほど自分には似合いだとさえ思えた。


競りの声が飛び交う。値段が()り上がっていく。誰かに買われる。誰かの「所有物」になる。その事実が、ゆっくりとミチルの心を絶望に塗りつぶしていく。


もう、何も考えたくない。意識を失ってしまいたい。そう願った、その時だった。


「――その倍を出しますわ」


鈴が鳴るような、凛とした女性の声が響いた。あれほど騒がしかった会場が、水を打ったように静まり返る。


ミチルは最後の力を()(しぼ)り、声のした方を見た。貴賓席。そこに座る一人の女性は、顔を仮面で隠していた。だが、仮面の(のぞ)き穴から見える黄金色の瞳は、まっすぐにミチルを射抜いていた。


その瞳を見た瞬間、ミチルの心に不可解な感情が(よぎ)った。恐怖ではない。絶望でもない。それは――絶対的な、安堵感だった。


「(ああ……この人に、買われるんだ)」


もう、自分で何も考えなくていい。自分の人生のハンドルを、他人に握ってもらえる。社畜時代のプレッシャーからの解放感にも似た奇妙な陶酔(とうすい)の中、ミチルの意識は、ついにぷつりと途切れた。


***


意識が浮上(ふじょう)する。


最初に感じたのは、ふわりとした爽やかでいて微かに甘い花の蜜の匂いと、背中を包む柔らかな感触だった。


「(……ここ、は?)」


ミチルはゆっくりと目を開けた。


視界に飛び込んできたのは、見たこともない豪華な天蓋(てんがい)付きのベッド。オークション会場の薄汚れた円台(えんだい)とも、奴隷商の(おり)とも違う。


「(夢、か……?)」


身体を起こそうとして、ミチルは自分が清潔な服に着替えさせられていることに気づいた。手足の(かせ)は外されている。だが――。


カチャリ。


首には、あの冷たい金属の感触が残っていた。


「(……隷属(れいぞく)の首輪。夢じゃない)」


状況が理解できず、混乱が心を支配(しはい)する。


その時、静かに扉が開く音がした。


「あら。目覚めましたか」


凛とした、あの声。さきほど意識が戻った時に感じた、あの爽やかで甘い香りが強くなる。


入ってきたのは、絶世の美女だった。


絹のように滑らかな銀色の髪をきっちりと結い上げ、黄金色の切長な瞳が、まっすぐにミチルを見据えている。豊満な胸。引き締まった腰。まるで完璧な芸術品だ。


オークション会場で仮面をつけていた令嬢だと、すぐに分かった。


「あなたのご主人様、レベッカ・フォン・ウォルフォルトです」


彼女――レベッカは、(おび)えるミチルのそばまで来ると、無感情(むかんじょう)に告げた。


「あなた、お名前は?」


「あ……えっと……ミチル、です」


前世の、桜井充(さくらいみちる)から取った名前。咄嗟(とっさ)に出たのは、それだけだった。


「ミチル。……そうですか」


レベッカはミチルをじっと観察する。その黄金色の瞳は、まるで値踏(ねぶ)みするかのように、ミチルの痩せ細った身体や、不安げに揺れる犬耳を検分(けんぶん)していく。


「(あ……また、品定めされてる……)」


ミチルが恐怖で身を縮めた、その時。


――きゅるるるるるぅ。


盛大に、腹の音が鳴った。


ミチルの顔が、羞恥(しゅうじ)で一気に赤くなる。


「(い、今のは……!)」


「ふふ……」


レベッカは、そこで初めて小さく笑った。


「お腹が空いているのですね。当然ですわ」


彼女は振り返り、メイドに何かを命じた。


すぐに、豪華な食事がワゴンで運ばれてくる。湯気の立つ温かいシチューと、焼きたてのパン。


「さあ、お食べなさい。毒など入っていませんわ」


ミチルは(おそ)(おそ)るスプーンを手に取り、シチューを口に運んだ。


「(……あ、うまい……)」


滋味(じみ)(ゆた)かな味が、カラカラの体に染み渡っていく。もう何も考えられず、ミチルは夢中で食事に食らいついた。


「ゆっくりで構いませんわ。……ああ、こちらもお飲みなさい。精神を安定させるハーブティーです。あなたはひどいストレスに(さら)されていたようですから」


レベッカはそう言って、そっとミチルの頭を撫でた。


「(え……?)」


ミチルは食べる手を止めた。頭を撫でられる。前世の社畜時代には、あり得なかった行為。


「(あ……あったかい……)」


近づいたレベッカから、あの「爽やかで甘い花の蜜」の香りが、ふわりとミチルの鼻をくすぐる。その手つきは驚くほど優しく、ミチルの張り詰めていた緊張が、ふっと(ゆる)んでいく。レベッカは、その様子を愛おしそうに見つめていた。


***


数日が過ぎた。


ミチルは、レベッカの屋敷でペットのように扱われた。豪華な主寝室の隣にある、清潔だが簡素な「控室」を与えられ、食事は完璧、風呂にも入れてもらえる。前世の社畜時代よりも、あるいは奴隷商の(おり)の中よりも、はるかに人道的な扱いだった。


だが、ミチルは(あせ)っていた。


レベッカはミチルに「私の許可なく、この部屋から出てはいけません」とだけ命じ、それ以外の「仕事」を一切与えなかったのだ。


「(どういうことだ……? おれは、何も『仕事』をしていない。ただ飯を食わされて、寝てるだけじゃないか……)」


ミチルは、控室のベッドの上で膝を抱えていた。心身ともに急速に回復しているのは分かったが、それに比例(ひれい)して不安が募る。


前世の社畜根性が、警鐘(けいしょう)を鳴らし続けていた。

『お前の代わりはいくらでもいる』

『役に立たない奴は、必要ない』


「(このままじゃ、捨てられる……!)」


あのレベッカという人は、恐ろしい額の金で自分を買ったのだ。それなのに、自分は何の価値(かち)も提供していない。このままでは、稀少(きしょう)な獣人としての「(なぐさ)み者」にされるか、それすら()きられて、また奴隷市場に売り飛ばされるに違いない。


「(何か、何かできることを……!)」


ミチルは()を決して、レベッカに尋ねてみた。


「あの、レベッカさん……! おれ、何か手伝います! 掃除でも、書類の整理でも……!」


だが、レベッカの答えは冷徹なほど優しかった。


「あら、ミチル。その必要はありませんわ。あなたは、ただ私のそばにいて、おとなしくしていればいいのです」


「(そんなわけが……!)」


ミチルは絶望(ぜつぼう)した。このままではダメだ。自分の「有用性」を示さなければ。


***


その日、ミチルはついに、言いつけを破った。レベッカが書斎で仕事をしている(すき)を見て、そっと控室を抜け出したのだ。


「(書庫の整理くらいなら、おれにもできるはずだ……!)」


前世の雑務スキルを思い出し、廊下を(しの)び足で進む。


その時だった。


「――ミチル」


氷のように冷たい声が、背後から響いた。爽やかな花の蜜の香りが、すぐ後ろからする。


「(ひっ……!)」


振り返ると、そこには黄金色の瞳を冷たく(ほそ)めたレベッカが立っていた。


「お部屋から出てはいけないと、言いましたよね?」


その声が響いた瞬間。


ギュンッ!!


首輪が強烈な力で締まり、ミチルの全身に電気が走ったような束縛感が(ほとばし)った。


「がっ……!?」


動けない。体が言うことを聞かない。ミチルは、その場に崩れ落ちた。


「あ……あ……」


見上げると、冷然とミチルを見下ろすレベッカの姿があった。


「なぜ、私の命令を破ったのですか?」


「(こ、こわい……!)」


ミチルは恐怖で震えた。だが、それ以上に「捨てられる」恐怖が勝った。


「あ……あのっ……! おれ、役に立たないと……!」


「役に立たないと?」


「な、何もしてないと……捨てられる、かと……思って……! すみません、何か、仕事、を……!」


必死(ひっし)(うった)えるミチルを、レベッカは数秒、無言(むごん)で見つめていた。そして、深い深いため息をついた。


「……あなたは、本当に馬鹿な子ですね」


ふっ、と首輪の束縛が解ける。


「え……?」


レベッカはゆっくりとミチルの前にしゃがみ込むと、震えるミチルを、そっと抱きしめた。


「(あ……あったかい……!)」


あの微かに甘い花の蜜の匂いが、今度はミチルを包み込む。恐怖よりも先に、安心感がこみ上げてくるのを、ミチルは感じていた。


「よくお聞きなさい、ミチル」


耳元で、レベッカの声が静かに響く。


「あなたは『役に立つ』必要など、一切ありません」


「(え……? でも……)」


「あなたは私の『所有物』なのです。ただ私のそばにいて、私に愛でられていれば、それでいいのです。あなたの価値(かち)は、私が決めます」


「(おれの、価値は……この人が、決める……?)」


前世の価値観が、音を立てて崩れていく。役に立たなくていい。ただ、所有されていればいい。


「分かりましたか?」


理不尽な上司の怒声(どせい)とは違う。絶対的な力を持つ主人が、明確なルールで自分を縛る。


その絶対的な支配は恐ろしかった。だが同時に、すべての責任(役に立たねばというプレッシャー)を放棄できるという甘美な「楽さ」が、ミチルの心を(むしば)み始めていた。


「……はい……」


ミチルがか(ぼそ)い声で返事をすると、レベッカは満足そうに微笑んだ。


「いい子です。お仕置きはこれでおしまい」


彼女はミチルの頭を優しく撫でる。


「さあ、おやつの時間ですわよ。あなたは私のそばで、私が焼かせたクッキーを食べていればいいのです」


厳しいお仕置きと、甘いご褒美。ミチルは、この「ご主人様」が自分に何を求めているのか、その底知(そこし)れなさに恐怖を感じながらも、抗う術をまだ知らなかった。


***


お仕置きされた日から、さらに数日が過ぎた。


ミチルは、レベッカの定めたルール――「役に立たなくていい」「許可なく部屋から出てはいけない」「ただ愛でられていればいい」――という生活に、戸惑(とまど)いながらも順応し始めていた。


前世で背負っていた「責任」や「プレッシャー」のすべてを剥ぎ取られ、ただ「所有物」として存在する「楽さ」。その甘美な感覚は、ミチルの社畜根性をゆっくりと麻痺(まひ)させるには十分だった。


「(……今日も、レベッカさんはきれいだ……)」


ミチルは控室のベッドに座り、主寝室で身支度を整えるレベッカの姿を、(あな)()くほど見つめていた。


その夜、レベッカは皇宮で開かれる夜会に出席する予定だった。メイドたちが、彼女の銀色の髪を結い上げ、豪奢(ごうしゃ)なドレスに着せ替えていく。


「ミチル」


不意に、レベッカがミチルを呼んだ。


「は、はい!」


「私は今夜、出かけます。あなたはここで『お留守番』ですわ。いい子で、待っていられますね?」


レベッカはミチルの前に(かが)み、その目をまっすぐに見つめた。


「分かりました。……レベッカさん」


ミチルがこくりと(うなず)くと、レベッカは満足そうに微笑み、そっとミチルの頭を撫でた。犬耳が、彼女の優しい手つきにぴくぴくと反応する。


「(あ……甘い花の蜜の匂い……)」


ミチルの尻尾が、無意識(むいしき)のうちに小さく揺れてしまう。


「(……いかん、いかん)」


ミチルは慌てて尻尾を(おさ)えようとするが、本能的な反応は止まらない。


「ふふ……本当に、あなたは分かりやすい子。すぐ戻りますから、誰かが来ても、決して部屋から出てはいけませんよ」


「は、はい!」


レベッカはミチルに優しいキスを(ひたい)に一つ落とすと、メイドたちを連れて部屋を出て行った。


「(……行っちゃった)」


ぱたん、と扉が閉まる。レベッカの残り香だけが、かすかに漂っていた。


広い部屋に一人きりになると、急に心細さがこみ上げてくる。ミチルはベッドに(もぐ)り込み、枕に顔を(うず)めた。


「(おれは、あの人の『所有物』……)」


その事実は、まだ恐怖と紙一重だ。だが、少なくとも理不尽に怒鳴(どな)り散らす上司がいた前世より、(おり)に閉じ込められていた奴隷商人の元より、今の生活は「マシ」だった。今は、ここにしか居場所がない。


「(疲れたら、寝よう。あの人が、そうしろって言ってた)」


言いつけを守ること。それが今のミチルの唯一の「仕事」だった。ミチルの意識は、安心感の中でゆっくりと沈んでいった。


***


――どれくらいの時間が過ぎたか。


カサッ。


「(ん……?)」


(かす)かな物音に、ミチルの意識が覚醒(かくせい)した。獣人としての鋭敏な聴覚が、(とら)えた音。


「(気のせいか……? いや、でも……)」


ミチルはベッドから()い出し、耳を澄ませる。レベッカの言いつけが頭を(よぎ)る。


だが、その時。


「(……匂いがする)」


獣人の嗅覚が、レベッカの香りとは違う、不快(ふかい)な「異物(いぶつ)」の匂いを感知した。汗と、安物の酒と、鉄錆の匂い。


「(……誰か、いる!)」


咄嗟(とっさ)に、ミチルは部屋の明かりを消した。暗闇の中、彼の瞳が、夜行性動物のように光を(あつ)める。


ガチャリ。


静かに、控室の扉が開けられた。廊下の明かりを背に、複数の人影が侵入(しんにゅう)してくる。


「(……! この部屋に? まさか……!)」


ミチルは息を殺し、ベッドの陰に身を(ひそ)めた。


「おい、こっちだ。あの女は夜会で留守のはずだ」


稀少(きしょう)な犬っころは、こっちの控室にいるって()いてるぞ」


「子爵様も人が悪い。女に競り負けた腹いせで、奴隷を盗んでこい、だなんてよ」


下品な男たちの(ささや)き声。


「(……おれを、盗みに……!?)」


ミチルの全身の毛が逆立(さかだ)った。血の気が引いていく。こいつらに捕まれば、またあのオークションに、あの薄汚い(おり)に戻されるかもしれない。


「(嫌だ……! もう、あんなところに、戻ってたまるか……!)」


恐怖がミチルの心を支配(しはい)する。だが、それと同時に。


「(こいつら……レベッカさんの屋敷に、土足で……!)」


怒りが()み上げてきた。あの人は、自分を買い、食事を与え、安全な寝床をくれた。(わけ)のわからないルールで自分を縛るが、それでも、あの冷たい(おり)から救い出してくれた恩人だ。


「(おれは、あの人にまだ、何の『借り』も返せてないのに……!)」


恐怖と、恩人を裏切られることへの怒り。それが、ミチルの(うち)爆発(ばくはつ)した。


「(おれの居場所も、あの人への『借り』も、てめえらに奪われてたまるか!)」


レベッカに与えられた完璧な食事とケア。それは、ミチル本来の獣人としての能力を、完全に覚醒(かくせい)させていた。


「あ? なんだ、いたぞ」


男の一人が、暗闇に(ひか)る二つのミチルに気づいた。


(とら)えろ! (さわ)がれる前に――」


「ガアアアァァッ!!」


男の言葉は、最後まで続かなかった。


ミチルは、床を蹴った。前世の三十路の体では考えられない、(けもの)のような瞬発力。ミチルは(ゆか)にあった椅子を蹴り倒し、男たちの進路を塞ぐ。一人がそれに(ひる)んだ(すき)を見逃さず、死角から(たい)当たりを仕掛け、体勢(たいせい)を崩させた。


「ぐあっ!?」


「どこだ、どこにいやがる!」

「こっちだ! (かこ)め!」


男たちは無様(ぶざま)に剣を振り回すが、暗闇の中ではミチルを(とら)えられない。


「(このまま、時間を稼げば……!)」


ミチルはそう判断し、ベッドの陰に身を(ひそ)め、次の動きを(うかが)った。だが、侵入者たちもプロだった。


「チッ……! 散開しろ! (やつ)はそこにいる!」


リーダー格の男が、ミチルの潜むベッドの方向を正確に指し示す。男たちは連携(れんけい)し、徐々にミチルを追い詰めてくる。


「(まずい……!)」


ミチルは咄嗟(とっさ)にベッドから飛び出し、別の暗がりへ逃れようとした。その瞬間。


「そこだ!」


リーダー格の男が闇雲(やみくも)に振るった短剣の(きっ)(さき)が、ミチルの腕を浅く(かす)めた。


「(いっ……!?)」


()けるような痛みに、ミチルの動きが一瞬、(にぶ)る。その(すき)を、男たちが見逃すはずがなかった。


(とら)えろ!」「今だ!」


三方から、ミチルに男たちが(おそ)いかかる。


「(しまった……! ここまで、か……!)」


ミチルが絶体絶命(ぜったいぜつめい)を覚悟した、その時だった。


バン!


背後で、控室と主寝室を(つな)ぐ扉が、勢いよく開け放たれた。


主寝室の眩い明かりが逆光(ぎゃっこう)となり、ミチルに(おそ)いかかろうとしていた男たちの姿を白日(はくじつ)(もと)(さら)す。そこに立っていたのは、夜会用のドレスを着たレベッカだった。


「あら……」


レベッカが、部屋の惨状――血腥(ちなまぐさ)い匂い、武器を構える男たち、そして腕から血を流すミチル――を見て、目を(ほそ)めた。


「レ、レベッカさん……!?」


ミチルが呆然(ぼうぜん)と彼女の名を呼んだ。


「チッ……! 女一人だ、構うな! さっさと捕まえ――」


「――私のミチルに、その汚い手で触れないでくださる?」


氷のように冷たい声が響いた。


ミチルが目を見開くと、男たちはミチルの寸前(すんぜん)で、奇妙(きみょう)な体勢のまま凍り付いていた。レベッカの首元で、ネックレスの魔石が(あわ)い光を放っている。


「ぎ……あ……足が、足がぁ!?」


男たちの足元から這い上がった分厚(ぶあつ)い氷が、彼らの膝までを完全に床と一体化させていた。


「(すごい……!)」


レベッカは、控室の入口(いりぐち)にドレス姿のまま優雅(ゆうが)に立つと、その氷のように冷たい黄金色の瞳で、リーダー格の男を見下ろした。


「さて。どなたの差し金ですの?」


「ひっ……! し、知らねえ! 俺たちはただ……」


「そうですか」


レベッカは無感情(むかんじょう)(つぶや)くと、男を拘束する氷の温度を、さらに数度下げた。


「ぎゃあああああっ!? 冷たい! 痛い! (こご)える!」


「もう一度だけ、お聞きします。誰の命令で、私の『所有物』を盗みに来たのですか?」


「(こ、こわい……)」


ミチルは震えた。自分に向けられる優しさとはまるで違う、敵対者への一切(いっさい)容赦(ようしゃ)がない姿。


「は、()きます! ()きますから! 子爵(ししゃく)様です! あなたにオークションで競り負けた、子爵様の命令で……!」


「……そう。分かりました」


レベッカは、その答えを聞くと、興味(きょうみ)を失ったように男から視線を外し、メイドに命じた。


「衛兵を呼びなさい。この者たちを()き渡して」


後日、ミチルを盗もうとした子爵家が、皇国の歴史から忽然(こつぜん)として姿を消したことを、ミチルはまだ知らない。


***


騒ぎが収まった後。侵入者たちが衛兵に引き渡され、部屋には静寂が戻った。


ミチルは、自分が控室から一歩も出ずに戦い抜いたことに安堵しつつも、腕の傷と、レベッカを騒がせてしまった事実に、悄然(しょうぜん)としていた。


「(……おれ、結局、怪我しちゃったな……)」


その時。


「ミチル!」


衛兵への指示を終えたレベッカが、控室に足を踏み入れ、ミチルのもとへ駆け寄ってきた。さきほどまで侵入者たちに向けていた、氷のように冷たい表情は欠片(かけら)もなく、ただただ心配そうに顔を(ゆが)めている。


「(あ……)」


レベッカはミチルの傷ついた腕を見るなり、その華奢(きゃしゃ)な体で、ミチルを強く抱きしめた。


「(え……?)」


「(あったかい……。爽やかで、甘い花の蜜の匂い……)」


ミチルの鼻腔(びこう)を、庇護(ひご)の香りが満たす。その匂いに、張り詰めていた糸が切れ、ミチルの全身から力が抜けていく。


レベッカはそっと体を離すと、ミチルの両頬に手を()え、心配そうにその顔を(のぞ)き込んだ。


「(……あ、怒って、ない……?)」


「あ、あの……!」


ミチルは混乱(こんらん)しながらも、咄嗟(とっさ)に謝罪の言葉を口にした。


「おれ、戦って……でも、怪我しちゃって……騒ぎを起こして、すみません……!」


その言葉を聞いたレベッカは、きょとんとした顔で数回まばたきをした後、ふふっ、と悪戯(いたずら)っぽく微笑んだ。そして、ミチルの頬を優しく、ぷに、とつねった。


「いいえ。勇敢に戦ったのは、とても『いい子』ですわ」


「え……?」


「ですが」


レベッカは、ミチルの血の(にじ)む腕を、そっと(いつく)しむように撫でる。


「私の大切な『所有物(ミチル)』が、私の許可なく傷つくのは……感心しませんわね?」


「(あ……)」


「それに、私をこんなに心配させたのですから」


ミチルは、そこでようやく理解した。レベッカが怒っている(?)のは、「怪我をした(失敗した)」ことではなく、「ご主人様を心配させた」ことに対してなのだ、と。


「(おれが……この人を、心配させた……?)」


レベッカは、ミチルの傷にそっと手をかざした。(あわ)い光が溢れ、切り傷が(うそ)のように(ふさ)がっていく。


「(あ……すごい……)」


呆然(ぼうぜん)とするミチルに、レベッカは少し楽しそうに、悪戯(いたずら)っぽく片目(かため)()じた。


「……あとで、たーっぷり、『お仕置き』と『ご褒美』が必要なようですね?」


「(……!)」


ミチルは、混乱(こんらん)した。


「(戦ったことへの『ご褒美』と、心配させたことへの『お仕置き』……どっちも、くれるのか……)」


失敗も、無茶も、戦った功績も、すべてを受け入れた上で、この人は「お仕置き」と「ご褒美」という形で自分を支配しようとしている。


「(……なんだ、それ……)」


理不尽(りふじん)叱責(しっせき)も、無意味(むいみ)なプレッシャーもない。ただ、絶対的な主人のために牙を剥き、その働きを認められ、そして心配させた罰という名の愛情を与えられる。


「(……最高、じゃないか)」


ミチルは、自分の尻尾が、今度は羞恥(しゅうじ)遠慮(えんりょ)もなく、ちぎれんばかりに振られているのを自覚した。レベッカは、その様子を実に愛おしそうに見つめている。


ミチルは、目の前の絶世の美女に向かい、心の底からこみ上げてくる感情のままに、(つぶや)いた。


「(ああ……この人こそが、おれの……)」


「(……ご主人様だ)」


(了)


最後までお読みいただき、ありがとうございます!


現代社会で疲弊した元社畜が、美女にペットとして飼われてしまうお話でした。

スパダリに溺愛される女性主人公の話はよくあるけど、逆ってあんまり無いよなと思い筆を取った次第です。


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評判良さそうでしたら、『連載版』で続きを執筆しようと思います。是非評価お願いします!

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