元社畜の俺が転生したら、美しいご主人様に首輪を握られた犬だった ~才色兼備な貴族令嬢に溺愛されて、『お仕置き』と『ご褒美』がないと生きていけなくなりました~
眩暈がするほどの熱気と、脂の灼けるような悪臭。ざわ、ざわ、と不快な喧噪が鼓膜を揺らす。
「(あ……れ……? おれ、今、どこに……)」
朦朧とする意識の中、俺――ミチルは、自分が薄汚れた円台の上に立たされていることを、朧気に理解した。手足は枷で拘束され、首には冷たい金属の感触がまとわりついている。
「(……ああ、そうだ。おれは、また……プレゼンに、失敗して……)」
焼き付いた蛍光灯の光。鳴り止まない上司の怒声。
『お前の代わりはいくらでもいるんだぞ!』
『すみません、すみません、作り直します、今すぐ……!』
「(違う、あれは……あれは、前世の記憶だ)」
そうだ。俺、桜井充(三十歳)は、ブラック企業で身を粉にして働いた結果、たぶん死んだのだ。過労死だったか、呆然と歩いていた帰り道でトラックにでも轢かれたのか。もう、よく思い出せない。
そして気づけば、この訳の分からない世界にいた。森の中で目を覚まし、数日さまよった末に野盗に捕まり、奴隷商人に売り飛ばされた。
壇上から見下ごす客席には、けばけばしい衣装をまとった貴族らしき連中が座り、品定めするような下品な視線をこちらへ向けている。その視線が、俺の頭にぴくぴくと動く耳や、不安げに揺れる尻尾に集中しているのが分かる。
おれは、犬の獣人になっていた。
「さあ、ご覧ください! これぞ稀少な犬系獣人、齢は十六、七といったところ! 頑健な肉体、そして何よりこの従順そうな顔つき! 躾次第で、閨の慰み者にも、忠実な番犬にもなりましょうぞ!」
オークショニアの甲高い声が響き渡る。やめろ、と叫びたかったが、喉はカラカラに乾き、声も出ない。栄養失調と絶望で、意識が明滅する。
首に巻かれた「隷属の首輪」。その冷たい金属の感触だけが、やけにリアルだった。
「(ああ、首輪か……)」
奇妙なことに、その物理的な拘束感は、前世で毎日締めていたネクタイよりも、なぜか『しっくりくる』。あの息苦しいだけの布切れよりも、この絶対的な束縛の方が、よほど自分には似合いだとさえ思えた。
競りの声が飛び交う。値段が吊り上がっていく。誰かに買われる。誰かの「所有物」になる。その事実が、ゆっくりとミチルの心を絶望に塗りつぶしていく。
もう、何も考えたくない。意識を失ってしまいたい。そう願った、その時だった。
「――その倍を出しますわ」
鈴が鳴るような、凛とした女性の声が響いた。あれほど騒がしかった会場が、水を打ったように静まり返る。
ミチルは最後の力を振り絞り、声のした方を見た。貴賓席。そこに座る一人の女性は、顔を仮面で隠していた。だが、仮面の覗き穴から見える黄金色の瞳は、まっすぐにミチルを射抜いていた。
その瞳を見た瞬間、ミチルの心に不可解な感情が過った。恐怖ではない。絶望でもない。それは――絶対的な、安堵感だった。
「(ああ……この人に、買われるんだ)」
もう、自分で何も考えなくていい。自分の人生のハンドルを、他人に握ってもらえる。社畜時代のプレッシャーからの解放感にも似た奇妙な陶酔の中、ミチルの意識は、ついにぷつりと途切れた。
***
意識が浮上する。
最初に感じたのは、ふわりとした爽やかでいて微かに甘い花の蜜の匂いと、背中を包む柔らかな感触だった。
「(……ここ、は?)」
ミチルはゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見たこともない豪華な天蓋付きのベッド。オークション会場の薄汚れた円台とも、奴隷商の檻とも違う。
「(夢、か……?)」
身体を起こそうとして、ミチルは自分が清潔な服に着替えさせられていることに気づいた。手足の枷は外されている。だが――。
カチャリ。
首には、あの冷たい金属の感触が残っていた。
「(……隷属の首輪。夢じゃない)」
状況が理解できず、混乱が心を支配する。
その時、静かに扉が開く音がした。
「あら。目覚めましたか」
凛とした、あの声。さきほど意識が戻った時に感じた、あの爽やかで甘い香りが強くなる。
入ってきたのは、絶世の美女だった。
絹のように滑らかな銀色の髪をきっちりと結い上げ、黄金色の切長な瞳が、まっすぐにミチルを見据えている。豊満な胸。引き締まった腰。まるで完璧な芸術品だ。
オークション会場で仮面をつけていた令嬢だと、すぐに分かった。
「あなたのご主人様、レベッカ・フォン・ウォルフォルトです」
彼女――レベッカは、怯えるミチルのそばまで来ると、無感情に告げた。
「あなた、お名前は?」
「あ……えっと……ミチル、です」
前世の、桜井充から取った名前。咄嗟に出たのは、それだけだった。
「ミチル。……そうですか」
レベッカはミチルをじっと観察する。その黄金色の瞳は、まるで値踏みするかのように、ミチルの痩せ細った身体や、不安げに揺れる犬耳を検分していく。
「(あ……また、品定めされてる……)」
ミチルが恐怖で身を縮めた、その時。
――きゅるるるるるぅ。
盛大に、腹の音が鳴った。
ミチルの顔が、羞恥で一気に赤くなる。
「(い、今のは……!)」
「ふふ……」
レベッカは、そこで初めて小さく笑った。
「お腹が空いているのですね。当然ですわ」
彼女は振り返り、メイドに何かを命じた。
すぐに、豪華な食事がワゴンで運ばれてくる。湯気の立つ温かいシチューと、焼きたてのパン。
「さあ、お食べなさい。毒など入っていませんわ」
ミチルは恐る恐るスプーンを手に取り、シチューを口に運んだ。
「(……あ、うまい……)」
滋味豊かな味が、カラカラの体に染み渡っていく。もう何も考えられず、ミチルは夢中で食事に食らいついた。
「ゆっくりで構いませんわ。……ああ、こちらもお飲みなさい。精神を安定させるハーブティーです。あなたはひどいストレスに晒されていたようですから」
レベッカはそう言って、そっとミチルの頭を撫でた。
「(え……?)」
ミチルは食べる手を止めた。頭を撫でられる。前世の社畜時代には、あり得なかった行為。
「(あ……あったかい……)」
近づいたレベッカから、あの「爽やかで甘い花の蜜」の香りが、ふわりとミチルの鼻をくすぐる。その手つきは驚くほど優しく、ミチルの張り詰めていた緊張が、ふっと弛んでいく。レベッカは、その様子を愛おしそうに見つめていた。
***
数日が過ぎた。
ミチルは、レベッカの屋敷でペットのように扱われた。豪華な主寝室の隣にある、清潔だが簡素な「控室」を与えられ、食事は完璧、風呂にも入れてもらえる。前世の社畜時代よりも、あるいは奴隷商の檻の中よりも、はるかに人道的な扱いだった。
だが、ミチルは焦っていた。
レベッカはミチルに「私の許可なく、この部屋から出てはいけません」とだけ命じ、それ以外の「仕事」を一切与えなかったのだ。
「(どういうことだ……? おれは、何も『仕事』をしていない。ただ飯を食わされて、寝てるだけじゃないか……)」
ミチルは、控室のベッドの上で膝を抱えていた。心身ともに急速に回復しているのは分かったが、それに比例して不安が募る。
前世の社畜根性が、警鐘を鳴らし続けていた。
『お前の代わりはいくらでもいる』
『役に立たない奴は、必要ない』
「(このままじゃ、捨てられる……!)」
あのレベッカという人は、恐ろしい額の金で自分を買ったのだ。それなのに、自分は何の価値も提供していない。このままでは、稀少な獣人としての「慰み者」にされるか、それすら飽きられて、また奴隷市場に売り飛ばされるに違いない。
「(何か、何かできることを……!)」
ミチルは意を決して、レベッカに尋ねてみた。
「あの、レベッカさん……! おれ、何か手伝います! 掃除でも、書類の整理でも……!」
だが、レベッカの答えは冷徹なほど優しかった。
「あら、ミチル。その必要はありませんわ。あなたは、ただ私のそばにいて、おとなしくしていればいいのです」
「(そんなわけが……!)」
ミチルは絶望した。このままではダメだ。自分の「有用性」を示さなければ。
***
その日、ミチルはついに、言いつけを破った。レベッカが書斎で仕事をしている隙を見て、そっと控室を抜け出したのだ。
「(書庫の整理くらいなら、おれにもできるはずだ……!)」
前世の雑務スキルを思い出し、廊下を忍び足で進む。
その時だった。
「――ミチル」
氷のように冷たい声が、背後から響いた。爽やかな花の蜜の香りが、すぐ後ろからする。
「(ひっ……!)」
振り返ると、そこには黄金色の瞳を冷たく細めたレベッカが立っていた。
「お部屋から出てはいけないと、言いましたよね?」
その声が響いた瞬間。
ギュンッ!!
首輪が強烈な力で締まり、ミチルの全身に電気が走ったような束縛感が迸った。
「がっ……!?」
動けない。体が言うことを聞かない。ミチルは、その場に崩れ落ちた。
「あ……あ……」
見上げると、冷然とミチルを見下ろすレベッカの姿があった。
「なぜ、私の命令を破ったのですか?」
「(こ、こわい……!)」
ミチルは恐怖で震えた。だが、それ以上に「捨てられる」恐怖が勝った。
「あ……あのっ……! おれ、役に立たないと……!」
「役に立たないと?」
「な、何もしてないと……捨てられる、かと……思って……! すみません、何か、仕事、を……!」
必死に訴えるミチルを、レベッカは数秒、無言で見つめていた。そして、深い深いため息をついた。
「……あなたは、本当に馬鹿な子ですね」
ふっ、と首輪の束縛が解ける。
「え……?」
レベッカはゆっくりとミチルの前にしゃがみ込むと、震えるミチルを、そっと抱きしめた。
「(あ……あったかい……!)」
あの微かに甘い花の蜜の匂いが、今度はミチルを包み込む。恐怖よりも先に、安心感がこみ上げてくるのを、ミチルは感じていた。
「よくお聞きなさい、ミチル」
耳元で、レベッカの声が静かに響く。
「あなたは『役に立つ』必要など、一切ありません」
「(え……? でも……)」
「あなたは私の『所有物』なのです。ただ私のそばにいて、私に愛でられていれば、それでいいのです。あなたの価値は、私が決めます」
「(おれの、価値は……この人が、決める……?)」
前世の価値観が、音を立てて崩れていく。役に立たなくていい。ただ、所有されていればいい。
「分かりましたか?」
理不尽な上司の怒声とは違う。絶対的な力を持つ主人が、明確なルールで自分を縛る。
その絶対的な支配は恐ろしかった。だが同時に、すべての責任(役に立たねばというプレッシャー)を放棄できるという甘美な「楽さ」が、ミチルの心を蝕み始めていた。
「……はい……」
ミチルがか細い声で返事をすると、レベッカは満足そうに微笑んだ。
「いい子です。お仕置きはこれでおしまい」
彼女はミチルの頭を優しく撫でる。
「さあ、おやつの時間ですわよ。あなたは私のそばで、私が焼かせたクッキーを食べていればいいのです」
厳しいお仕置きと、甘いご褒美。ミチルは、この「ご主人様」が自分に何を求めているのか、その底知れなさに恐怖を感じながらも、抗う術をまだ知らなかった。
***
お仕置きされた日から、さらに数日が過ぎた。
ミチルは、レベッカの定めたルール――「役に立たなくていい」「許可なく部屋から出てはいけない」「ただ愛でられていればいい」――という生活に、戸惑いながらも順応し始めていた。
前世で背負っていた「責任」や「プレッシャー」のすべてを剥ぎ取られ、ただ「所有物」として存在する「楽さ」。その甘美な感覚は、ミチルの社畜根性をゆっくりと麻痺させるには十分だった。
「(……今日も、レベッカさんはきれいだ……)」
ミチルは控室のベッドに座り、主寝室で身支度を整えるレベッカの姿を、穴が開くほど見つめていた。
その夜、レベッカは皇宮で開かれる夜会に出席する予定だった。メイドたちが、彼女の銀色の髪を結い上げ、豪奢なドレスに着せ替えていく。
「ミチル」
不意に、レベッカがミチルを呼んだ。
「は、はい!」
「私は今夜、出かけます。あなたはここで『お留守番』ですわ。いい子で、待っていられますね?」
レベッカはミチルの前に屈み、その目をまっすぐに見つめた。
「分かりました。……レベッカさん」
ミチルがこくりと頷くと、レベッカは満足そうに微笑み、そっとミチルの頭を撫でた。犬耳が、彼女の優しい手つきにぴくぴくと反応する。
「(あ……甘い花の蜜の匂い……)」
ミチルの尻尾が、無意識のうちに小さく揺れてしまう。
「(……いかん、いかん)」
ミチルは慌てて尻尾を抑えようとするが、本能的な反応は止まらない。
「ふふ……本当に、あなたは分かりやすい子。すぐ戻りますから、誰かが来ても、決して部屋から出てはいけませんよ」
「は、はい!」
レベッカはミチルに優しいキスを額に一つ落とすと、メイドたちを連れて部屋を出て行った。
「(……行っちゃった)」
ぱたん、と扉が閉まる。レベッカの残り香だけが、かすかに漂っていた。
広い部屋に一人きりになると、急に心細さがこみ上げてくる。ミチルはベッドに潜り込み、枕に顔を埋めた。
「(おれは、あの人の『所有物』……)」
その事実は、まだ恐怖と紙一重だ。だが、少なくとも理不尽に怒鳴り散らす上司がいた前世より、檻に閉じ込められていた奴隷商人の元より、今の生活は「マシ」だった。今は、ここにしか居場所がない。
「(疲れたら、寝よう。あの人が、そうしろって言ってた)」
言いつけを守ること。それが今のミチルの唯一の「仕事」だった。ミチルの意識は、安心感の中でゆっくりと沈んでいった。
***
――どれくらいの時間が過ぎたか。
カサッ。
「(ん……?)」
微かな物音に、ミチルの意識が覚醒した。獣人としての鋭敏な聴覚が、捉えた音。
「(気のせいか……? いや、でも……)」
ミチルはベッドから這い出し、耳を澄ませる。レベッカの言いつけが頭を過る。
だが、その時。
「(……匂いがする)」
獣人の嗅覚が、レベッカの香りとは違う、不快な「異物」の匂いを感知した。汗と、安物の酒と、鉄錆の匂い。
「(……誰か、いる!)」
咄嗟に、ミチルは部屋の明かりを消した。暗闇の中、彼の瞳が、夜行性動物のように光を集める。
ガチャリ。
静かに、控室の扉が開けられた。廊下の明かりを背に、複数の人影が侵入してくる。
「(……! この部屋に? まさか……!)」
ミチルは息を殺し、ベッドの陰に身を潜めた。
「おい、こっちだ。あの女は夜会で留守のはずだ」
「稀少な犬っころは、こっちの控室にいるって聞いてるぞ」
「子爵様も人が悪い。女に競り負けた腹いせで、奴隷を盗んでこい、だなんてよ」
下品な男たちの囁き声。
「(……おれを、盗みに……!?)」
ミチルの全身の毛が逆立った。血の気が引いていく。こいつらに捕まれば、またあのオークションに、あの薄汚い檻に戻されるかもしれない。
「(嫌だ……! もう、あんなところに、戻ってたまるか……!)」
恐怖がミチルの心を支配する。だが、それと同時に。
「(こいつら……レベッカさんの屋敷に、土足で……!)」
怒りが込み上げてきた。あの人は、自分を買い、食事を与え、安全な寝床をくれた。訳のわからないルールで自分を縛るが、それでも、あの冷たい檻から救い出してくれた恩人だ。
「(おれは、あの人にまだ、何の『借り』も返せてないのに……!)」
恐怖と、恩人を裏切られることへの怒り。それが、ミチルの内で爆発した。
「(おれの居場所も、あの人への『借り』も、てめえらに奪われてたまるか!)」
レベッカに与えられた完璧な食事とケア。それは、ミチル本来の獣人としての能力を、完全に覚醒させていた。
「あ? なんだ、いたぞ」
男の一人が、暗闇に光る二つの瞳に気づいた。
「捕えろ! 騒がれる前に――」
「ガアアアァァッ!!」
男の言葉は、最後まで続かなかった。
ミチルは、床を蹴った。前世の三十路の体では考えられない、獣のような瞬発力。ミチルは床にあった椅子を蹴り倒し、男たちの進路を塞ぐ。一人がそれに怯んだ隙を見逃さず、死角から体当たりを仕掛け、体勢を崩させた。
「ぐあっ!?」
「どこだ、どこにいやがる!」
「こっちだ! 囲め!」
男たちは無様に剣を振り回すが、暗闇の中ではミチルを捉えられない。
「(このまま、時間を稼げば……!)」
ミチルはそう判断し、ベッドの陰に身を潜め、次の動きを窺った。だが、侵入者たちもプロだった。
「チッ……! 散開しろ! 奴はそこにいる!」
リーダー格の男が、ミチルの潜むベッドの方向を正確に指し示す。男たちは連携し、徐々にミチルを追い詰めてくる。
「(まずい……!)」
ミチルは咄嗟にベッドから飛び出し、別の暗がりへ逃れようとした。その瞬間。
「そこだ!」
リーダー格の男が闇雲に振るった短剣の切先が、ミチルの腕を浅く掠めた。
「(いっ……!?)」
灼けるような痛みに、ミチルの動きが一瞬、鈍る。その隙を、男たちが見逃すはずがなかった。
「捕えろ!」「今だ!」
三方から、ミチルに男たちが襲いかかる。
「(しまった……! ここまで、か……!)」
ミチルが絶体絶命を覚悟した、その時だった。
バン!
背後で、控室と主寝室を繋ぐ扉が、勢いよく開け放たれた。
主寝室の眩い明かりが逆光となり、ミチルに襲いかかろうとしていた男たちの姿を白日の下に晒す。そこに立っていたのは、夜会用のドレスを着たレベッカだった。
「あら……」
レベッカが、部屋の惨状――血腥い匂い、武器を構える男たち、そして腕から血を流すミチル――を見て、目を細めた。
「レ、レベッカさん……!?」
ミチルが呆然と彼女の名を呼んだ。
「チッ……! 女一人だ、構うな! さっさと捕まえ――」
「――私のミチルに、その汚い手で触れないでくださる?」
氷のように冷たい声が響いた。
ミチルが目を見開くと、男たちはミチルの寸前で、奇妙な体勢のまま凍り付いていた。レベッカの首元で、ネックレスの魔石が淡い光を放っている。
「ぎ……あ……足が、足がぁ!?」
男たちの足元から這い上がった分厚い氷が、彼らの膝までを完全に床と一体化させていた。
「(すごい……!)」
レベッカは、控室の入口にドレス姿のまま優雅に立つと、その氷のように冷たい黄金色の瞳で、リーダー格の男を見下ろした。
「さて。どなたの差し金ですの?」
「ひっ……! し、知らねえ! 俺たちはただ……」
「そうですか」
レベッカは無感情に呟くと、男を拘束する氷の温度を、さらに数度下げた。
「ぎゃあああああっ!? 冷たい! 痛い! 凍える!」
「もう一度だけ、お聞きします。誰の命令で、私の『所有物』を盗みに来たのですか?」
「(こ、こわい……)」
ミチルは震えた。自分に向けられる優しさとはまるで違う、敵対者への一切の容赦がない姿。
「は、吐きます! 吐きますから! 子爵様です! あなたにオークションで競り負けた、子爵様の命令で……!」
「……そう。分かりました」
レベッカは、その答えを聞くと、興味を失ったように男から視線を外し、メイドに命じた。
「衛兵を呼びなさい。この者たちを引き渡して」
後日、ミチルを盗もうとした子爵家が、皇国の歴史から忽然として姿を消したことを、ミチルはまだ知らない。
***
騒ぎが収まった後。侵入者たちが衛兵に引き渡され、部屋には静寂が戻った。
ミチルは、自分が控室から一歩も出ずに戦い抜いたことに安堵しつつも、腕の傷と、レベッカを騒がせてしまった事実に、悄然としていた。
「(……おれ、結局、怪我しちゃったな……)」
その時。
「ミチル!」
衛兵への指示を終えたレベッカが、控室に足を踏み入れ、ミチルのもとへ駆け寄ってきた。さきほどまで侵入者たちに向けていた、氷のように冷たい表情は欠片もなく、ただただ心配そうに顔を歪めている。
「(あ……)」
レベッカはミチルの傷ついた腕を見るなり、その華奢な体で、ミチルを強く抱きしめた。
「(え……?)」
「(あったかい……。爽やかで、甘い花の蜜の匂い……)」
ミチルの鼻腔を、庇護の香りが満たす。その匂いに、張り詰めていた糸が切れ、ミチルの全身から力が抜けていく。
レベッカはそっと体を離すと、ミチルの両頬に手を添え、心配そうにその顔を覗き込んだ。
「(……あ、怒って、ない……?)」
「あ、あの……!」
ミチルは混乱しながらも、咄嗟に謝罪の言葉を口にした。
「おれ、戦って……でも、怪我しちゃって……騒ぎを起こして、すみません……!」
その言葉を聞いたレベッカは、きょとんとした顔で数回まばたきをした後、ふふっ、と悪戯っぽく微笑んだ。そして、ミチルの頬を優しく、ぷに、とつねった。
「いいえ。勇敢に戦ったのは、とても『いい子』ですわ」
「え……?」
「ですが」
レベッカは、ミチルの血の滲む腕を、そっと慈しむように撫でる。
「私の大切な『所有物』が、私の許可なく傷つくのは……感心しませんわね?」
「(あ……)」
「それに、私をこんなに心配させたのですから」
ミチルは、そこでようやく理解した。レベッカが怒っている(?)のは、「怪我をした(失敗した)」ことではなく、「ご主人様を心配させた」ことに対してなのだ、と。
「(おれが……この人を、心配させた……?)」
レベッカは、ミチルの傷にそっと手をかざした。淡い光が溢れ、切り傷が嘘のように塞がっていく。
「(あ……すごい……)」
呆然とするミチルに、レベッカは少し楽しそうに、悪戯っぽく片目を閉じた。
「……あとで、たーっぷり、『お仕置き』と『ご褒美』が必要なようですね?」
「(……!)」
ミチルは、混乱した。
「(戦ったことへの『ご褒美』と、心配させたことへの『お仕置き』……どっちも、くれるのか……)」
失敗も、無茶も、戦った功績も、すべてを受け入れた上で、この人は「お仕置き」と「ご褒美」という形で自分を支配しようとしている。
「(……なんだ、それ……)」
理不尽な叱責も、無意味なプレッシャーもない。ただ、絶対的な主人のために牙を剥き、その働きを認められ、そして心配させた罰という名の愛情を与えられる。
「(……最高、じゃないか)」
ミチルは、自分の尻尾が、今度は羞恥も遠慮もなく、ちぎれんばかりに振られているのを自覚した。レベッカは、その様子を実に愛おしそうに見つめている。
ミチルは、目の前の絶世の美女に向かい、心の底からこみ上げてくる感情のままに、呟いた。
「(ああ……この人こそが、おれの……)」
「(……ご主人様だ)」
(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
現代社会で疲弊した元社畜が、美女にペットとして飼われてしまうお話でした。
スパダリに溺愛される女性主人公の話はよくあるけど、逆ってあんまり無いよなと思い筆を取った次第です。
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評判良さそうでしたら、『連載版』で続きを執筆しようと思います。是非評価お願いします!




