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「なかよし」〜コンドームちゃんと奇妙な職場〜  作者: 片山アツシ
「愛って何?人間観察って地獄」
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人間観察って地獄

コントロールームの片隅で、私は蹲ったまま、動けなかった。

床の冷たい感触だけが、ここが現実であることを嫌というほど私に伝えてくる。

涙は、とっくに枯れ果てていた。後に残ったのは燃えカスのような、空っぽの感情と頭の芯がじんじんと痺れるような、鈍い痛みだけだった。


「眠夢ちゃん、大丈夫……?」


心配そうに私の顔を覗き込んできたのは宮野さんだった。

その完璧に整えられた顔には普段の明るい笑顔はなく、心からの気遣いの色が浮かんでいる。

私は彼女にうまく言葉を返すことができなかった。

大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃない。

私の心は、今、バラバラに砕けてしまっている。


「……これ、どうぞ」


不意に目の前に湯気の立つマグカップがすっと差し出された。

見上げると、そこに立っていたのは蛇田さんだった。

彼は相変わらずの無表情で私から視線を少し逸らしながら、ぶっきらぼうに言った。

「……カモミールティーだ。落ち着く」


そのあまりにも不器用な優しさに枯れたはずの涙腺がまた、じわりと熱くなった。

私は震える手でそのマグカップを受け取った。

「……ありがとう、ございます」

か細い声でそう言うのが精一杯だった。


コントロールームには気まずい沈黙が流れていた。

私のせいで職場の空気を最悪なものにしてしまっている。

その罪悪感がさらに私の心を重くした。


ママはそんな私を一瞥すると、ふぅ、と長い煙を吐き出し何も言わずに自分の執務室へと消えていった。

その背中は私を責めているようでもあり、あるいはただ無関心なようにも見えた。


結局、その日の午後の業務を私はほとんどこなすことができなかった。

宮野さんが私の分の仕事も黙って肩代わりしてくれた。

ただ時間が過ぎるのを死んだように待つ。

時計の針が定時の18時を指した時、私は逃げるように職場を飛び出した。


「お疲れ様」という誰かの声が背中に聞こえた気がしたけれど、振り返る余裕はなかった。


向かったのは会社の屋上だった。

関係者以外立ち入り禁止の古びた扉を開けると、ひやりとした夜風が火照った私の頬を撫でた。

金網のフェンスの向こうには宝石箱をひっくり返したような都会の夜景が広がっている。

数週間前、就活に惨敗して公園でやけ酒を飲んでいた夜とは比べ物にならないくらい、美しい景色。


なのに私の心は、あの夜よりもずっとずっと暗く冷え切っていた。


フェンスに寄りかかり眼下の光の海を見下ろす。

あの光の一つ一つの下に人々の暮らしがある。

笑い合い、愛し合い、時には傷つけ合う無数の人生。

私はそんな他人の人生のほんの些細な、しかし、最もデリケートな部分を切り取って覗き見る仕事をしている。


『お見事だったわね、眠夢』

『すごかったよ、眠夢ちゃん!』


ママと宮野さんの賞賛の声が耳に蘇る。

私は褒められたのだ。

人の嘘を暴き、欺瞞を白日の下に晒したその手腕を。


でも、それは本当に誇れることなのだろうか。

あの時、私は確かに興奮していた。

相手の心の綻びを見つけそこを執拗に突き、追い詰めていく過程に一種の倒錯した快感を覚えていた。

自分の嫌な部分。

人として持っていてはいけない、冷たくて残酷な部分。

それがあの瞬間、確かに、目を覚ましたのだ。


私は、怪物になってしまうのだろうか。

他人の心を弄び、それを仕事の成果として喜ぶような。

そんな人間にだけは、絶対になりたくなかった。


「……うっ」


込み上げてくる吐き気に私はその場にうずくまった。


怖い。

自分が自分でなくなっていくのが、怖い。


「こんなところで油を売ってるんじゃないわよ」


不意に背後から低い声がした。

振り返るまでもない。この声の主は一人しかいない。


ママだった。

彼女はいつの間に来たのか、私から数歩離れた場所に立ちタバコをふかしていた。その紫色の煙が夜風にゆらりと溶けていく。


「……ママ」

「感傷に浸ってる暇があるならとっとと家に帰って、明日の仕事に備えなさい。プロでしょ、あんた」


プロ。

その言葉が、引き金になった。

私の内側で抑え込んでいた感情が堰を切ったように溢れ出した。


「プロなんかじゃありません!」


私は叫んでいた。

「私、こんなことするためにここに来たんじゃありません! 人の心を試して、暴いて、それで、褒められて……! そんなの、おかしいじゃないですか!」


涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、私はママに食ってかかった。

もうどうなってもよかった。

クビになるならそれでもいい。こんな、地獄のような場所にこれ以上いたくなかった。


「人の心を覗くのが、どれだけ怖いことか、わかってるんですか!? 愛って何なのか、わからなくなります! 人間が、信じられなくなります!」

「……」

「私、もう無理です……。こんな、こんな仕事、続けられません……!」


私は自分のすべての弱さを、醜さを、ママの前にさらけ出した。

軽蔑されるだろう。

呆れられるだろう。

「使えない子ね」と吐き捨てられるだろう。

それで終わりだ。



しかし。

ママの反応は、私の予想とはまったく違うものだった。

彼女はただ静かに私の言葉を最後まで聞いていた。

そして私が、ぜえぜえと肩で息をするのを見届けると、ゆっくりとタバコの火を足元で消した。


「……甘ったれるんじゃないわよ」


その声は氷のように冷たかった。


「あんた、自分が特別な悲劇のヒロインにでもなったつもり? 笑わせんじゃないわよ」

ママは、一歩、私に近づいた。

その巨大な影が私を完全に覆い尽くす。


「人の心を覗くのが怖い? 当たり前じゃない。地獄に決まってるわよ、そんなもん。あんたは、自分の意思で、その地獄に足を踏み入れたの。違う?」

「……っ!」

「金をもらって仕事をする。それがプロよ。怖いだの、辛いだの、そんなガキみたいな言い訳が通用すると思ってんの?」


ママの言葉が一つ、また一つと容赦なく私の心を抉っていく。

正論だ。

あまりにも完璧な正論。

私はぐうの音も出なかった。


「あんたがやったことは正しい仕事よ。クライアントの依頼に応え、会社の利益を守った。それ以上でも、それ以下でもない。そこにあんた個人の感情が入り込む隙間なんて、本来一ミリもないのよ」


「……でも」

「でも、何?」

「でも、あの女の人は……莉奈さんは……ただ、利用されて、お金を投げつけられて……あまりにも、可哀想じゃ……」


「可哀想?」

ママは、フンと鼻で鳴らした。

「あの女も同罪よ。金のために愛を演じ心を売った。自分の価値を自分で貶めたのよ。同情の余地なんてないわね」


そのあまりにも現実的で冷徹な言葉に、私は絶句した。

この人には血も涙もないのだろうか。


「いいこと、眠夢」

ママは私の目の前にその化粧の濃い顔をぐいっと近づけた。

強烈な香水の匂いが、私の思考を麻痺させる。


「この仕事はね、感傷や同情じゃ務まらないのよ。必要なのはどこまでも冷静な観察眼。そして、どんな醜い現実でも受け入れる覚悟。あんたにはそれがない。ただお人好しで、正義感が強くて、涙もろいだけのお嬢ちゃんよ」


その言葉は私という人間を根底から否定するものだった。

ああ、やっぱりそうか。

私はこの仕事に向いていないんだ。

ママは私に愛想を尽かしたんだ。


「……嫌なら辞めなさい」


ついに、宣告された。

最後通牒。

私の短い社会人生活はここで終わりを告げる。


絶望が私の心を完全に支配した。

その時だった。


「――ただし」

ママはそこで一度言葉を切った。

そして私の瞳を射抜くようにまっすぐに見つめた。


「もしあんたが、それでもこの地獄でやっていくって言うんなら……。その、クソみたいな『お人好し』と『正義感』を武器に変える方法を考えなさい」

「……え?」


武器に、変える?

私のこの何の役にも立たない欠点だらけの性格を?


「あんたのやったことは確かにマニュアル違反のオンパレードだったわ。でも結果として真実を暴いた。それはあんたの、そのクソ真面目な性格が嘘や欺瞞を許せなかったからでしょ?」

「……」

「だったらそれを貫き通しなさいよ。中途半端にプロのフリなんてするんじゃないわよ。あんたは、あんたのやり方で、この仕事と向き合うしかないの。不器用で遠回りで傷だらけになる、そんないばらの道だけどね」


ママの言葉は矛盾していた。

冷たく突き放しているようで、でもその奥には確かな熱がこもっている。

それは叱咤でありそして激励でもあった。


彼女は私を見捨ててはいなかった。

それどころか、私という人間の本質を誰よりも深く理解してくれていた。


「さあ、どうする? 眠夢」

ママは私からすっと身を引いた。

「ここで全部投げ出して、またあの薄暗いアパートでお祈りメールを待つ日々に戻るか。それとも、腹を括ってこのどうしようもない地獄で、あんただけの『正義』を探してみるか」


選択肢はまたしても、二つ。

でもその意味は数週間前とはまったく違って聞こえた。


私は何も答えられなかった。

頭がぐちゃぐちゃで心がバラバラで。

どうすればいいのか、まったくわからなかった。


「……ま、せいぜいゆっくり考えることね」

ママはそれだけ言うと私に背を向けた。

そして屋上の出口に向かって歩き出す。


その去り際に彼女は一度だけ足を止めて、振り返らずに言った。


「言っとくけど、あんたもうプロよ」

「……え?」

「人の心を覗く、この最高に楽しくて、最低な地獄へようこそ」


その言葉を残して、ママの姿は扉の向こうへと消えていった。

一人、屋上に残された私。

夜風がやけに冷たかった。


突き放された、絶望。

でも心のどこかで感じてしまう奇妙な高揚感。

「お前は、ここで終わる人間じゃない」

そう、言われたような気がして。


私は一体どうしたいんだろう。

この地獄のような職場で、私は何を探しているんだろう。


答えはまだ闇の中。

ただ一つだけ確かなこと。

私の本当の戦いは今まさに始まろうとしていた。

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