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「なかよし」〜コンドームちゃんと奇妙な職場〜  作者: 片山アツシ
「セッ〇スしないと出られない部屋って何!?」
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『なかよしルーム』の本質


『業務マニュアル【極秘・レベル5案件対応編】』


目の前に置かれた、漆黒のファイル。その禍々しいタイトルは、私の覚悟を試すかのように、重々しいオーラを放っていた。

セックスをしないと出られない部屋。

その運営マニュアル。

これから私はこの禁断の書物を、頭に叩き込まなければならない。


「……」


ゴクリ、と喉が鳴る。

隣に座る宮野さんは「まあ、最初は気楽にね」なんて微笑んでいるが、気楽になれるわけがない。

私は震える手でそっとファイルの表紙を開いた。


ページをめくった瞬間、私は再び己の浅はかさを思い知らされることになった。

私が想像していたような、いかがわしい写真や官能小説まがいの扇情的な文章は、そこには一切なかった。

そこに記されていたのは、およそ性的な事柄を扱うとは思えないほど、冷静で、緻密で、学術的ですらある情報の奔流だった。


第一部:精神分析的アプローチ


第一章:同意形成における言語的・非言語的シグナルの識別


1-1. 強要された同意(Acquiescence)と真の合意(Consent)の差異


1-2. 微表情分析:恐怖、嫌悪、苦痛を示すサイン


1-3. 声紋分析:ストレスレベルの測定と心理状態の推定


第二部:環境構築理論


第一章:感覚刺激による心理誘導


2-1. 照明(照度・色温度)が心理に与える影響


2-2. 音楽(BPM・調性)と性的興奮の相関関係


2-3. アロマコロジー(芳香心理学)の応用と実践


第三部:生理学的観察


第一章:性的興奮の客観的指標


3-1. 心拍数、呼吸数の変化パターン


3-2. 皮膚電気反応(GSR)のモニタリング


3-3. 発汗、紅潮、瞳孔散大の観察ポイント


「……な、なんですか、これ……」

まるで大学の専門論文を読んでいるかのようだ。

心理学、脳科学、人間工学。


あらゆる学問が、ただ一つの目的――『最高のセックスを演出する』という目的のために総動員されている。


「すごいでしょ?」

宮野さんが、私の驚きを察して、得意げに胸を張る。

「ママは元々、大学で心理学の研究をしてたんだって。だから、こういうのはお手の物なの。私たちの仕事は経験と勘だけじゃない。科学的根拠に基づいた、ロジカルなオペレーションなんだよ」


ロジカルなオペレーション。

その言葉の響きは、この職場の異常性を、より一層際立たせていた。


さらにページをめくると、今度は衛生管理に関する、恐ろしく詳細な記述が現れた。


第四部:衛生管理プロトコル(レベル5特則)


第一章:使用後ルームの完全滅菌手順


4-1. 医療用高圧蒸気滅菌器オートクレーブによるリネン類の処理


4-2. オゾン発生器及び紫外線(UV-C)殺菌灯による空間・表面殺菌


4-3. 排水溝、換気扇に至るまでの分解洗浄マニュアル


4-4. ブラックライト照射による体液痕跡の最終確認


「……ひっ」

思わず小さな悲鳴が漏れた。

ブラックライト。体液痕跡。

その生々しい単語に頭がクラクラする。


「蛇田さんの仕事は、ここがメインなんだ」

宮野さんが、部屋の隅で黙々と床を拭いている蛇田さんを顎でしゃくった。

「彼の清掃はもはやアートの領域だよ。病院のオペ室より清潔だってママがいつも自慢してる」


言われてみれば、蛇田さんの動きは、ただの掃除ではない。

床を拭くモップの角度、壁を拭くクロスの動線、そのすべてに、一切の無駄も迷いもない。まるで、精密機械がプログラム通りに作動しているかのようだ。元警察官、という経歴が、こんなところで活かされているのだろうか。


私は改めてこの職場の異様さに震えた。

やっていることは限りなく非人道的で、反倫理的。

しかしその業務を支える哲学と技術は、どこまでもプロフェッショナルで、真摯ですらあった。

この倒錯した真面目さ。

それこそが「なかよしルーム」の本質なのかもしれない。


その日は幸いにも(と言うべきだろう)、レベル5の予約は入っていなかった。

私は午前中いっぱいをかけて、分厚いマニュアルを頭に叩き込む作業に費やした。

昼休憩になると宮野さんが「眠夢ちゃん、お昼にしよっか! 社員食堂案内するね!」と明るく声をかけてきた。


「社員食堂……?」

こんな場所にそんなものまであるのか。


宮野さんに連れられて向かったのは、コントロールームの奥にある、もう一つの扉の向こうだった。

そこは日当たりの良い、カフェテリアのような空間になっていた。

数種類のランチセットが用意されており、サラダバーやドリンクバーまで完備されている。福利厚生が、無駄に充実している。


私が日替わりパスタセットをトレーに乗せていると、宮野さんが淹れたてのコーヒーを二つ持ってきてくれた。

「はい、眠夢ちゃんの分。ここのコーヒー豆から挽いてて美味しいんだよ」

「あ、ありがとうございます……」


二人で窓際の席に座る。

窓の外には手入れの行き届いたハーブ園が見えた。

こんな場所で普通のOLみたいにランチを食べていることがなんだか不思議な気分だった。


「……あの、宮野さんは」

私は意を決して尋ねてみた。

「どうしてこの会社で働こうと思ったんですか?」


私の問いに宮野さんは、きょとん、と目を丸くした。

そして次の瞬間、悪戯っぽく笑った。

「んー、なんだと思う?」

「え……」

「ヒント。私、大学では社会学部でジェンダー論を専攻してたの」


ジェンダー論。

ますます、わからなくなった。

社会における性差やその構造的な問題を研究する学問と、この仕事がどう結びつくというのだろう。


「私ね、知りたかったんだ」

宮野さんはコーヒーカップを両手で包み込みながら、遠い目をした。

「教科書に書いてある小難しい理論じゃなくて。人間が、男と女がもっとも無防備で本能的になる瞬間。その時、二人の間に一体何が生まれるのか。権力関係はどう変化するのか。それをこの目で見てみたかったの」


彼女の瞳は好奇心と探究心でキラキラと輝いていた。

それは私が今まで出会ったことのない、強烈な知的好奇心だった。


「だからね、私にとってこの仕事は最高のフィールドワークなんだ。毎日新しい発見がある。人間の複雑さ、面白さ、そして愚かさに飽きることがない」

「……愚かさ」

「そうよ。愛って時々すごく人を愚かにさせるから。でも、それが、たまらなく愛おしいんじゃない」


宮野さんはそう言うとパスタを美味しそうに頬張った。


私は彼女のことが少しだけわからなくなった。

彼女はただの「あざと系女子」でも「フィールドワークに勤しむ研究者」でもない。

もっと複雑で多面的な何か。

この職場にいる人間は、ママも、蛇田さんも、そして宮野さんもみんな一筋縄ではいかないということだけは確かだった。


午後からは実践的なトレーニングが始まった。

と言っても、いきなりレベル5の案件を任されるわけではない。

私の初仕事は『過去案件のログデータ入力』だった。


「これは、過去のモニタリング記録を指定のフォーマットに入力していく作業だよ。地味だけどすごく大事な仕事だからね」

宮野さんに教えられながら私はパソコンに向かった。

画面に表示されたのは過去のカップルたちの詳細な観察記録だった。


『ケースNo.237:レベル3案件』

『対象者A(男性・32歳)、対象者B(女性・30歳)』

『14:05 入室。A、緊張した面持ちでBの手を握る。B、はにかみながら応じる』

『14:17 A、Bの髪を撫でる。B、心地よさそうに目を閉じる。心拍数、軽度の上昇を記録』

『14:25 A、Bに口づけ。接触時間15秒。Bの瞳孔、2mmの散大を確認。相互の同意に基づく、愛情深い行為と判断。ミッションコンプリート』


そこには感情を排した客観的な事実だけが淡々と記録されていた。

愛情深い行為。

その判断基準は、マニュアルに詳細に定められている。接触時間、瞳孔の開き具合、その後の会話の内容。あらゆるデータがその一言を裏付けている。


愛でさえもここではデータ化され分析される。

その事実に私は少しだけ寒気を覚えた。


黙々とキーボードを叩き続けていると、不意にコントロールームのメインモニターの一つが、フッ、と暗くなった。


「おや?」

ママが眉をひそめる。

「7番モニターまた接触不良かい。蛇田、ちょっと見ておやり」

「……ウス」


蛇田さんが掃除の手を止め、モニターの裏側へと回る。

彼は慣れた手つきで壁のパネルを開けると、複雑に絡み合ったケーブルの中から一本のコードを抜き出した。そして懐から取り出した小さな工具で、コネクタの先端を、ちょい、と調整する。

再びコードを差し込むと、モニターは何事もなかったかのようにパッと明るくなった。


その間、わずか30秒。

あまりにも鮮やかな手際に私は思わず見とれてしまった。


「……ありがとうございます」

私が言うと蛇田さんはこちらを一瞥しただけで、また無言のまま掃除用具の元へと戻っていった。


この人は一体何者なんだろう。

元警察官で清掃のプロで機械の修理までこなす。

その無口な横顔の裏に一体どんな過去が隠されているのか。

私の興味は尽きなかった。


そうこうしているうちに、定時の18時を迎えた。

「はい、今日はここまで! お疲れ様、眠夢ちゃん!」

宮野さんの声に私は凝り固まった体を伸ばした。

たった一日パソコンに向かっていただけなのに、どっと疲労感が押し寄せる。


「明日はいよいよ眠夢ちゃんにもリアルタイムのモニタリング、やってもらおうかな」

ママがにやりと笑いながら言った。

「もちろん、レベルの低いやつからだけどね。結がしっかりサポートするから心配しなさんな」


リアルタイムのモニタリング。

その言葉に私の心臓がまた、どきりと跳ねた。

過去のログを眺めるのと、今まさに目の前で繰り広げられている他人のプライベートを覗き見るのとでは、意味がまったく違う。


私はこの仕事に本当に慣れることができるのだろうか。

他人の心を感情をデータとして処理する、冷徹なプロフェッショナルになれるのだろうか。


答えはまだ出ない。

ただ一歩ずつ、この異常な世界の深みへと足を踏み入れていることだけは確かだった。

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