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「なかよし」〜コンドームちゃんと奇妙な職場〜  作者: 片山アツシ
なかよしルーム最終章へようこそ!
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女王の処方箋と、裸の告白

ママからの業務命令という名の強制休暇。私は自分のワンルームアパートで抜け殻のように時間を過ごしていた。窓の外の夏の日差しは眩しいくらいなのに私の部屋だけが色を失ったモノクロの世界のようだった。食べ物の味は砂を噛むようで好きだった音楽もただの耳障りな騒音にしか聞こえない。私は完全に立ち止まってしまっていた。橘さんのあの温かい腕の感触を思い出すたびに、彼を傷つけてしまった罪悪感で胸が張り裂けそうになる。もう彼の顔をまっすぐに見られないかもしれない。そう思うとただ涙が溢れた。


そんな絶望の淵にいた私の部屋のインターフォンが鳴ったのは休暇三日目の昼下がりのことだった。画面に映し出されたその姿に私は息を呑んだ。そこにいたのは私の知っている「ママ」ではなかった。派手なドレスも巨大なウィッグもそこにはない。シンプルな黒いタートルネックのセーターと細身のパンツ。化粧を落としたその素顔は知的でそしてどこか疲れたような影を宿していた。臨床心理士、真行寺信吾としての彼がそこにいた。


ドアを開けると彼は何も言わずに部屋に入り、当たり前のようにキッチンに立つと二人分のコーヒーを淹れ始めた。その手慣れた仕草に私は何も言えなかった。部屋に広がる香ばしい匂いだけが、止まっていた私の世界の時間を少しだけ動かした。


「……ひどい顔ね」

テーブルの向かいに座った彼がぽつりと言った。

「まあ当然かしら。あんたは今自分の心の一番見たくない暗闇と向き合っているんだから」

彼の声はママの時とは違う静かで落ち着いたバリトンだった。


私は俯いたままぽつりぽつりとあの夜のことを話し始めた。橘さんのこと、コンドームの箱、そしてフラッシュバックした過去の記憶。言葉にするたびにあの日の屈辱が蘇り声が震える。

「……私のせいです。私のくだらないトラウマが全部台無しにしたんです」

「くだらなくないわ」

彼は私の言葉を静かにしかしきっぱりと否定した。

「あんたにとってコンドームはただの道具じゃない。あんたの尊厳を傷つけ自己肯定感を根こそぎ奪っていった呪いの象徴なのよ。その呪いに触れれば魂が拒絶反応を起こすのは当然のことよ」


呪いの象徴。彼のその言葉は私の心の靄を切り裂く一筋の光のようだった。そうだ、私はずっと呪われていたのだ。あの教室であの瞬間から。


「呪いを解く方法は二つ」

彼は人差し指と中指を立てた。

「一つはその象徴をあんたの人生から完全に消し去り破壊すること。もう一つは……その象徴の意味をあんた自身の手で全く別のものに書き換えることよ」

「……意味を書き換える?」

「そう。呪いを祝福に変えるの。まあ、とてつもなく骨の折れる作業だけどね」


彼はそう言うとジャケットの内ポケットから一枚の折り畳まれたメモを取り出しテーブルの上に置いた。

「処方箋よ。あんたがもし後者を選ぶ覚悟があるのならここへ行ってみなさい」

メモに書かれていたのは都心から少し離れた工業地帯の住所だった。


彼が帰った後も私はしばらくそのメモを見つめていた。私にそんな覚悟があるのだろうか。怖くてたまらなかった。


その夜スマホが震えた。宮野さんからのメッセージだった。

『眠夢ちゃん生きてるー? あんたがいないとコントロールーム静かすぎて調子狂うんだけど!』

そのいつもと変わらない明るい文面に少しだけ救われる。

『無理してない? 大丈夫じゃなくても大丈夫だよ。私も昔完璧な自分でいなきゃ誰にも愛されないって思い込んでた時期あったからさ。……わかるよその気持ち』

彼女の不器用な優しさが私の心の固い殻を少しだけ溶かした。


翌日アパートのドアポストに一通の封筒が入っていた。差出人の名前はない。中には一枚のスケッチだけが入っていた。そこに描かれていたのは分厚く固い種子の殻を自らの力で突き破り、小さな双葉を天に向かって伸ばしている植物の絵だった。その緻密で力強いタッチは間違いなく蛇田さんのものだった。言葉はない。でもそこにはどんな激励の言葉よりも雄弁なメッセージが込められていた。『お前ならできる』そう言われた気がした。


仲間たちがいる。私は一人じゃない。私は意を決して立ち上がりママのくれた「処方箋」を強く握りしめた。



バスを乗り継いでたどり着いたのは古びたしかし清潔な町工場だった。看板には『相模ラバー工業』と書かれている。中から出てきたのは人の良さそうな初老の男性だった。彼はママの古い友人らしく話は通っていた。


「ようこそ近藤さん。真行寺先生から伺っていますよ。さあどうぞ」

彼に案内されて工場の中に足を踏み入れた瞬間、私は独特のゴムの匂いに包まれた。しかしそこは私のトラウマが喚起するような不潔な場所ではなかった。徹底的に管理された衛生的な空間。白衣を着た従業員たちが真剣な眼差しで機械と向き合っている。


「うちはもう五十年ここでコンドームを作り続けています」

工場長は誇らしげに言った。

「これはただのゴム製品じゃない。命を守る道具なんです」


彼は私を製造ラインへと案内してくれた。最初に目に飛び込んできたのは、何百本ものガラス製の型が、ゆっくりと回転しながら並んでいる光景だった。それは私のトラウマの根源にある形。しかし、ここで見るそれは、清潔で、どこか無機質で、ただの工業製品の一部として整然と存在していた。

「まずはこの型を、温めた天然ゴムラテックスのプールに浸します。ゆっくりと、均一な厚さになるようにね」

彼の言葉通り、ガラスの型が乳白色の液体の中に沈んでいく。液体が純白の膜となって型にまとわりつき、引き上げられる時には薄く美しい層を形成していた。それはまるで、何かを優しく包み込むための、最初の儀式のようだった。


次に私たちは乾燥と加硫の工程へと進んだ。熱風が吹き付ける巨大なオーブンの中を、型がゆっくりと通過していく。

「ここで熱を加えることで、ゴムは強く、しなやかになるんです。人の肌のようにね。優しくなければいけない。でも、同時に、絶対に破れてはいけない。その絶妙なバランスが、私たちの技術の粋なんですよ」

工場長の言葉には、職人としての確かな誇りが滲んでいた。


そして、品質検査室。その光景に私は息を呑んだ。

「私たちが作っているのは安心です」

彼は一つの製品を手に取り、私に見せた。

「望まない妊娠や恐ろしい性病から大切なパートナーを守る。安心して愛を育むための手助けをする。私たちの製品はそのための『お守り』なんですよ」

検査室では、完成した製品の一つ一つに、水が注入されていた。それは驚くほどの量で、薄いゴムは信じられないほど大きく膨らんでいく。まるで巨大な水風船だ。

「これは破裂強度試験。規定の圧力をクリアしないものは、もちろん出荷しません」

隣の機械では、製品に微弱な電流を流し、目に見えないほどの微細な穴、ピンホールがないかをチェックしていた。

「人の命と人生がかかっている。だから、私たちは、0.01ミリの妥協も許さない。恥ずかしいものなんかじゃ決してない。むしろ相手を深く思いやっているという愛情の証なんです」


お守り。愛情の証。私の頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。私を傷つけ辱めた呪いの象徴。それが本当は誰かを守り救うためのものだったなんて。世界の見え方が反転する。私の心の庭を覆っていた固い雑草が根元から崩れていくのがわかった。


その帰り道、私は震える指で橘さんに電話をかけた。

「……橘さん。今から会えませんか。……私たちの庭で」



夜の『余白の庭』は静寂に満ちていた。そこに立っている橘さんの姿を見つけた瞬間、私は駆け寄りたい衝動を必死で抑えた。


「……来てくれてありがとう」

「ううん。僕の方こそ会いたかった」

彼は優しく微笑んだ。


私は全てを話した。中学時代のこと、「コンドームちゃん」というあだ名のこと。私の心の奥底にこびりついていた醜い傷跡を全て彼の前にさらけ出した。それは私にとって生まれて初めての裸の告白だった。


彼は黙って私の話を最後まで聞いてくれた。そして私が話し終えると静かに私を抱きしめた。その腕はあの夜よりもずっと力強かった。


「……話してくれてありがとう、眠夢さん」

彼は初めて私を下の名前で呼んだ。

「辛かったね。ずっと一人で抱えてきたんだね」

その優しい声に私の涙腺が決壊した。


「君の痛みも弱さも全部僕が受け止める。だからもう一人で泣かないで」

彼は私の涙を指で優しく拭うと、まっすぐに私の目を見つめて言った。


「僕が君のお守りになる」


その一言が私の心の呪いを完全に解き放った。コンドームはもう私を傷つける象徴ではない。それは彼の深い愛情を思い出させてくれる温かいお守りになったのだ。意味は書き換えられた。私の手で。そして彼と仲間たちの愛によって。


私は彼の胸に顔をうずめた。長い長い冬が終わり私の心の庭にようやく本当の春が訪れようとしていた。

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