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「なかよし」〜コンドームちゃんと奇妙な職場〜  作者: 片山アツシ
なかよしルーム最終章へようこそ!
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庭師の恋と、開けられない箱

季節は巡りなかよしルームの窓から見える景色も、生命力あふれる濃い夏の色に染まっていた。

『特殊コンサルティング部門・心の庭』が設立されてから、私の日常は穏やかでそして満ち足りたものになっていた。

室長という役職にはまだ少しサイズの合わない上着のような居心地の悪さを感じるけれど、信頼できる仲間たちと日々様々な「関係性」という名の庭に向き合う仕事は、私にとってかけがえのない天職となっていた。


そして私のプライベートな庭にも、美しい花が咲き始めていた。インテリアデザイナーの橘蒼太さん。彼との関係はゆっくりとしかし着実に育まれていた。休日に二人で美術館を巡ったり、路地裏の小さなカフェで何時間も語り合ったり。そんな穏やかな時間が仕事で張り詰めた私の心を優しく解きほぐしてくれる。


彼は私の仕事を心から理解し尊重してくれた。

「眠夢さんの仕事はただ人を見ているだけじゃない。その人の心の一番大切な場所に光を当てる仕事なんだね」

そう言って微笑む彼の隣は、世界で一番安全で温かい場所だと感じられた。彼の前では、私はただの近藤眠夢でいられた。就活に惨敗し、社会に怯えていたかつての自分が嘘のようだ。


その日私たちは初めて彼の部屋を訪れていた。デザイナーである彼の部屋は彼自身を映したかのように、シンプルで機能的でそして温かみに満ちていた。無垢材のフローリング、ミニマルな家具、そして壁に飾られた彼自身が撮影したという美しい風景写真。その全てが彼の繊細な美意識を物語っていた。

彼が作ってくれた手作りの夕食は、驚くほど美味しかった。少しだけ良いというワインを飲みながら、他愛もない会話を交わす。心地よい沈黙さえも、私たちの間では豊かな対話になった。時間はあっという間に過ぎていき、窓の外は深い夜の色に染まっていた。


ソファで寄り添い古いフランス映画を見ていた時、ふと橘さんが私の髪に優しく触れた。その指先の熱に私の心臓がとくんと跳ねる。私たちは自然と見つめ合いそして唇が重なった。それはワインの香りがする甘くて優しいキスだった。彼の大きな手が私の背中をゆっくりと撫でる。私も彼の首に腕を回した。もう言葉はいらなかった。私たちの心は確かに同じ未来を望んでいた。


「……眠夢さん」

彼が少しだけ体を離し私の目をまっすぐに見つめた。その眼鏡の奥の瞳は真剣な愛情とそして確かな情熱で濡れていた。

「……ベッドに行こうか」

私は赤くなりながらもこくりと頷いた。怖くはなかった。彼となら大丈夫。心の底からそう信じていた。彼が私を傷つけることなど決してないとわかっていたから。


彼が寝室のサイドテーブルの引き出しから小さな箱を取り出すまでは。


それはどこにでもあるごく普通のコンドームの箱だった。彼が私を気遣い大切に思ってくれている証。本来なら感謝すべきその行為。その四角い箱が私の目に入った瞬間、私の世界から音が消えた。


――コンドームちゃん。


脳内で忌まわしい声が響く。中学時代の教室の風景が、色褪せた悪夢のように蘇る。滑舌の悪い教師の声、くすくすと漏れるクラスメイトたちの嘲笑。男子生徒たちの下卑た視線、女子生徒たちの残酷な好奇心。


『おいコンドーム、教科書見せろよ』

『コンドームちゃん、今日の体育見学?』


屈辱、羞恥、自己嫌悪。心の奥底に鍵をかけて固く封じ込めていたはずの黒い感情が、濁流となって私の思考を飲み込んでいく。息ができない。体が石のように固まって動かない。目の前がぐにゃりと歪み、橘さんの心配そうな顔が遠ざかっていく。


「眠夢さん!? どうしたの、顔色が……!」


彼の声が聞こえる。でも私の耳には届かない。頭の中はあの頃の嘲笑で満たされている。私は汚れている。私は笑いものだ。私の名前は私の存在はただの笑いの種なのだ。そうに違いない。そうでなければ、あんな風にみんなが笑うはずがない。


「……っ、は……ぁ……っ」

過呼吸。体がガタガタと震え始めた。怖い怖い怖い。このまま消えてしまいたい。彼の前から、この世界から。


その時だった。ふわりと温かい何かに体が包まれた。橘さんが私を強く抱きしめてくれていた。彼は何も聞かなかった。ただ私の背中をゆっくりと優しくさすりながら静かに囁いた。

「大丈夫。大丈夫だよ眠夢さん。……ごめんね僕が気づかなくて。もう大丈夫だから。何も心配しなくていい」


その温かさと優しい声に私のパニックの嵐は少しずつ勢いを弱めていった。どれくらいの時間が経っただろうか。気づけば私は彼の腕の中で子供のように声を殺して泣いていた。しゃくりあげる私の背中を、彼はただ黙ってさすり続けてくれた。


その夜私たちは何もしなかった。ただ服を着たまま一つのベッドで寄り添って眠った。橘さんは私が眠りにつくまでずっと私の頭を撫で続けてくれた。彼の深い愛情に救われた。でもそれと同時に私の心は鋭い罪悪感で切り裂かれていた。私のせいだ。私のくだらない過去のせいで私たちは大切な一歩を踏み出せなかった。私のトラウマが彼との間に分厚い壁を作ってしまった。その事実が鉛のように重く私の心にのしかかっていた。



翌日なかよしルームに出勤しても私の心は晴れなかった。目の下の隈を化粧で隠し、無理に笑顔を作ってみるが、それは薄いガラスの仮面のように脆かった。目の前の仕事に集中できない。そんな私の状態を見透かしたかのように、その日の担当案件はあまりにも残酷な鏡となって私の前に現れた。


クライアントは三十代の夫婦。妻の方が過去に受けた性的なトラウマから夫に心と体を完全に開くことができずに悩んでいた。夫は妻を深く愛している。でも妻の心の壁をどうすれば取り払えるのかわからない。その姿が昨日の私と橘さんに痛いほど重なった。


私は冷静ではいられなかった。庭師としての客観的な視点を完全に失っていた。モニターの向こうで苦しむ妻に私は自分の感情を投影してしまっていたのだ。『わかるよその気持ち』『怖いよね苦しいよね』。マイクを通さずにただ心の中で呟き続ける。それはもはやコンサルティングではなかった。ただの感傷的な自己満足だった。彼女の痛みが私の痛みとして流れ込んでくる。私はただ唇を噛み締めることしかできなかった。


「……眠夢ちゃん、ちょっといい?」

見かねた宮野さんが私の肩を叩いた。

「今日のあんた、ちょっとおかしいよ。何かあった?」

「……ううん、何でもない」

私は力なく首を横に振るのが精一杯だった。彼女の心配そうな顔をまっすぐに見ることができない。


蛇田さんは何も言わなかった。でもいつの間にか私のデスクの隅にカモミールのハーブティーがそっと置かれていた。その温かい湯気が私の冷え切った心をほんの少しだけ温めてくれた。仲間たちの優しさが今は逆に辛かった。こんなプロ失格の私に優しくしてくれる資格なんてない。


結局その日の案件は何の進展もないまま時間切れとなった。私のせいだ。私がプロとして失格だったからだ。お客様に申し訳ない気持ちで胸が張り裂けそうだった。


業務が終わった後、私は一人コントロールームで呆然としていた。その時内線が鳴った。ママからだった。

「眠夢。あんた少し休みさない」

その声は静かだったが有無を言わさぬ響きを持っていた。

「……でも仕事が」

「今のあんたは庭師じゃないわ。ただの傷ついた迷子よ。そんな状態で他人の庭を手入れできると思ってるの?」

ママの言葉は的確に私の核心を突いていた。

「……まずあんた自身の荒れ果てた庭をどうにかしなさい。これは業務命令よ」


電話は一方的に切れた。私は受話器を置いたまま動けなかった。自分の庭。そこは今過去のトラウマという固い雑草に覆い尽くされている。私はそこから逃げ続けてきた。でももう逃げられない。大切な人をそして自分自身をこれ以上傷つけないために。私はこの呪いと向き合わなければならないのだ。

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