初仕事
「じゃあ眠夢ちゃん、行こっか! 私たちの初仕事だよ!」
宮野さんの明るい声に背中を押され、私はコントロールームを後にした。
向かう先は、お客様が待っているというエントランスホール。長い廊下を歩きながら、私の心臓は、面接の時とはまた違う種類の緊張で、早鐘のように鳴り響いていた。
これから始まるのは「なかよし確認業務」
その言葉の響きとは裏腹に、私はとんでもない世界の入り口に立っている。そんな予感がひしひしと伝わってくる。
「大丈夫だよ、眠夢ちゃん。最初は誰でも緊張するから」
隣を歩く宮野さんが、私の不安を見透かしたように、にっこりと微笑む。
「基本はマニュアル通り。でも、一番大事なのは、お客様をリラックスさせてあげること。私たちは、あくまで黒子なんだからね」
黒子、という言葉に私は少しだけ違和感を覚えた。
これから行われることは監禁に近い行為のはずだ。それなのに、彼女の口調はまるで高級エステのセラピストか何かのように、どこまでも軽やかだった。
やがて、重厚な観音開きの扉の前にたどり着く。
宮野さんが、深呼吸を一つすると、完璧な営業スマイルを顔に貼り付けた。そして、ゆっくりと扉を開ける。
「大変お待たせいたしました。担当の宮野でございます」
そこにいたのは、モニターで見た通りの一組の男女だった。
男性は、年の頃20代半ば。少し気弱そうな、人の好さそうな顔立ちをしている。高そうなジャケットを着ているが、どこか着慣れない様子で、そわそわと落ち着きがない。
一方、女性は、私とさほど変わらないくらいの年齢に見えた。綺麗な顔立ちをしているが、その表情は硬く、腕を組んで、明らかに不機嫌オーラを撒き散らしている。
「本日は、『なかよしルーム』へようこそおいでくださいました。わたくし、お二人の『愛の確認』をサポートさせていただきます、コンシェルジュの宮野と申します。そしてこちらが、本日より研修に入ります、新人の近藤です」
宮野さんが流れるような口調で自己紹介をする。
私も慌ててぎこちなく頭を下げた。
「こ、近藤眠夢です。よろしくお願いいたします」
男性――田中様、というらしい――は、「あ、どうも……」と会釈を返してくれたが、女性の方は、私を一瞥しただけで、ぷいっと顔をそむけてしまった。
その敵意のこもった視線に、私の心は早くもくじけそうになる。
「それでは、早速ですが、ご利用にあたっての最終確認をさせていただきます」
宮野さんは、そんな険悪なムードをものともせず、手にしたタブレット端末を操作し始めた。
「今回、田中様がご希望されたプランは、『プロポーズ大作戦・スイートプラン』でございますね。ルーム内で、田中様から鈴木様へ、真心のこもったプロポーズを行っていただき、鈴木様がそれをお受けになりましたら、ミッションコンプリート、となります」
プロポーズ大作戦……?
なんだその、ふざけたプラン名は。
しかし、宮野さんの説明は澱みなく続く。
「ミッションコンプリートの定義ですが、今回は『鈴木様が、田中様のプロポーズに対し、明確な同意の言葉を口頭で述べ、お二人が愛情のこもった口づけを交わす』ことと規定させていただいております。よろしいでしょうか?」
「は、はい! 大丈夫です!」
田中様が顔を赤らめながら、力強く頷く。
しかし、女性――鈴木様は黙り込んだままだ。
その表情は能面のように固まっている。
「鈴木様」
宮野さんはあくまで優しい、しかし有無を言わさぬ口調で彼女に問いかけた。
「こちらのプランをご利用になるにあたり、事前に田中様からご説明を受け、その内容に同意されている、ということで、お間違いございませんでしょうか?」
これは、ただの確認ではない。
法律でいうところの「意思確認」だ。私が大学で学んだ知識が不意に頭をよぎる。契約において、当事者の真意に基づく同意は絶対不可欠の要件だ。
鈴木様はしばらく沈黙していたが、やがて蚊の鳴くような声で、ぽつりと言った。
「……はい」
その一言はあまりにも弱々しく、感情がこもっていなかった。
本当に同意しているのだろうか。
私の胸に疑念が芽生える。
だが、宮野さんはその一言で十分だと判断したらしい。
「ありがとうございます。それでは、こちらの同意書にそれぞれご署名をお願いいたします」
タブレットに表示された電子署名欄に、二人がサインをする。
その手続きはあまりにも事務的で、これから行われる「愛の確認」という行為とのギャップに私はめまいを感じた。
「では、お部屋へご案内いたします。どうぞごゆっくり『なかよし』の時間をお楽しみくださいませ」
宮野さんは完璧な笑顔でそう締めくくると、私たちに背を向けコントロールームへと戻るよう促した。
◇
コントロールームに戻ると、ママが腕を組んで、私たちを待ち構えていた。
壁の巨大モニターには、先ほどのカップルが入室したであろう、豪華な部屋が映し出されている。白いグランドピアノが置かれた、ロマンチックな雰囲気の部屋だ。
「ご苦労様、結。上出来よ」
「ありがとうございます、ママ。でも、あのお嬢さん、かなりご機嫌斜めでしたねー」
「でしょうね。無理やり連れてこられたのが、見え見えだわ」
ママは鼻で笑う。
その言葉に私は思わず声を上げた。
「む、無理やりって……! でも、彼女、同意書にサインを……」
「形だけの同意なんて、いくらでも取れるわよ」
ママは、私の言葉を遮るように言った。
「大事なのは、その裏にある『真意』を見抜くこと。それが、私たちの仕事の肝よ。よく見てなさい、新入り。あんたの初仕事が、始まるわよ」
ママが顎でしゃくったモニターの中では、田中様が、落ち着きなく部屋の中をうろうろしていた。一方の鈴木様はソファに深く腰掛け、腕を組んだまま、窓の外を眺めている。二人の間には、気まずい沈黙が流れていた。
「……すごいね、この部屋」
沈黙を破ったのは、田中様だった。
「僕、頑張って、一番良い部屋を予約したんだ。君、ピアノ好きだって言ってたから……」
「……別に、頼んでない」
鈴木様の返事は、氷のように冷たい。
「そ、そんなこと言わずにさ。ほら、見てよ、夜景も綺麗だよ」
「……」
気まずい。
見ているこっちが胃が痛くなるような光景だ。
他人の気まずいデートを、高画質のモニターで、しかも複数のアングルから覗き見る。これは想像以上に精神にくる仕事かもしれなかった。
「眠夢ちゃん、どう思う? この二人」
隣に座る宮野さんが、私に小声で尋ねてきた。
「え……?」
「この二人の関係性。どっちが上で、どっちが下か。どっちが相手に依存していて、どっちがそれを負担に感じているか。分析してみて」
分析。
まるで実験動物を観察する研究者のような口ぶりだ。
私はモニターの中の二人に、改めて意識を集中させた。
田中様は絶えず鈴木様の顔色を窺っている。彼女の機嫌を取ろうと、必死に話題を探しているのが見て取れた。
一方、鈴木様はそんな彼を完全に無視している。その態度はもはや怒りを通り越して諦めに近いように見えた。
「……田中様が鈴木様に依存している……ように見えます。鈴木様は、それをもう、うんざりしている、というか……」
「正解」
宮野さんはあっさりと頷いた。
「田中様は典型的な『尽くすことでしか自分の価値を見いだせない』タイプ。鈴木様は最初は彼の優しさに惹かれたんだろうけど、次第にそれが重荷になってきた。愛情がいつの間にか罪悪感にすり替わっちゃったのね」
宮野さんの分析は的確で、そして容赦がなかった。
まるで二人の心を丸裸にしていくようだ。
「じゃあ、なんで鈴木様は、こんな場所に来ることに同意したんだと思う?」
「それは……断り切れなかった、とか……」
「それもある。でも、もっと深い理由があるはずよ。彼女の非言語的なサインを読み取って」
非言語的なサイン。
私は鈴木様の様子を食い入るように見つめた。
腕を組む、という行為は、心理学では「防御姿勢」の表れだと習ったことがある。彼女は田中様から、そしてこの状況から自分を守ろうとしている。
しかし、その視線はずっと窓の外に向けられている。彼女は何を見ているのだろうか。
その時、私はあることに気がついた。
彼女はただ窓の外を眺めているわけではなかった。
窓ガラスに映る自分の姿をじっと見つめているのだ。
そして、その指先が自分の着ているワンピースの裾をきゅっと固く握りしめている。
「……彼女、不安なんじゃないでしょうか」
「不安?」
「はい。田中様と別れたい。でも、別れた後の一人の自分が怖い。だから結論を出すのを先延ばしにしている……。この場所に連れてこられたのも、彼に流されたフリをして、本当は彼に最後の決断を委ねようとしているんじゃ……」
そこまで言って私はハッとした。
他人の心の内を勝手に憶測して分析する。
なんておこがましい行為だろう。
しかし、宮野さんは満足そうに微笑んでいた。
「上出来だよ、眠夢ちゃん。あんたやっぱりすごい才能持ってる」
「え……」
「人の行動の裏にある、矛盾した感情を読み取る力。それは、この仕事で一番重要なスキルだからね」
その時だった。
モニターの中で動きがあった。
意を決したように、田中様が鈴木様の前に跪いたのだ。
そして、ポケットから取り出したのは小さなベルベットの箱。
「……ミカさん」
田中様が震える声で彼女の名前を呼んだ。
「僕と、結婚してください」
ついに始まってしまった。
プロポーズ。
この部屋のメインイベント。
鈴木様――ミカさんは、目を見開いて固まっている。
その表情は、驚きと戸惑いと、そしてほんの少しの恐怖が入り混じっているように見えた。
「僕、君がいないとダメなんだ。一生、君を大切にする。幸せにするから。だから、お願いだ」
田中様は必死に言葉を続ける。
その目は涙で潤んでいた。
見ているのがつらかった。
これは愛の告白なんかじゃない。
ただの、自己満足の押し付けだ。
「君がいないとダメなんだ」という言葉は「君を幸せにする」という誓いとは似て非なるものだ。それは相手を縛り付ける、呪いの言葉だ。
「……やめて」
ミカさんが、か細い声で呟いた。
「もう、やめてよ……」
「どうして!? 僕は、こんなに君のことが好きなのに!」
「好き……? それは、好きなんかじゃないわよ! あなたはただ私がいないと不安なだけでしょ! 私を自分のためのアクセサリーか何かだと思ってる!」
ミカさんの感情がついに爆発した。
彼女の瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「私だって……私だって、あなたのこと好きだった! でも、あなたのその重すぎる愛情が、私をどんどん苦しめていったの! もう、疲れたのよ……!」
修羅場だ。
完全なる、修羅場だ。
私は息を飲むことしかできなかった。
他人のこんな生々しい感情のぶつかり合いを、目の当たりにしたのは初めてだった。
頭がクラクラする。吐き気さえ催してきた。
「……どう、するんですか、これ」
私が尋ねると、宮野さんは冷静な声で答えた。
「見守るだけよ。私たちは手を出せない。これは二人の問題なんだから」
その目はモニターを冷静に見据えている。
まるで感情のない機械のようだ。
「でも……!」
「眠夢ちゃん」
宮野さんは私の目をまっすぐに見た。
「私たちは医者じゃない。カウンセラーでもない。ただの『確認者』よ。彼らが、分たちで答えを出すのを待つしかないの」
その言葉は正論だった。
でも私の心は納得できなかった。
苦しんでいる人が目の前にいるのに、何もしない。
それは私の正義感が許さなかった。
その時、ふと、コントロールームの隅で、黙々と床を磨いていた蛇田さんが、ぽつりと呟いたのが聞こえた。
「……ピアノ」
「え?」
「あのピアノは、飾りじゃない。本物の、スタインウェイだ」
蛇田さんは、モニターをちらりとも見ずに、そう言った。
その言葉に私はハッとした。
そうだ、ピアノ。
田中様は言っていた。「君、ピアノ好きだって言ってたから」と。
ミカさんはピアノが好きだった。
私はモニターの中の、白いグランドピアノに目を向けた。
もし、もしも、彼女が自分の気持ちを言葉にできないのなら。
音楽がその代わりになるかもしれない。
「……あの」
私は意を決して口を開いた。
「マイク、貸してください」
宮野さんとママが驚いたように私を見る。
「新入り、あんた、何を……」
「お願いします! 一言だけ!」
私はママの制止を振り切って、コンソールに置かれていたマイクを掴んだ。
そして、スイッチを入れる。
私の声がルーム内に設置されたスピーカーを通して、二人の元へ届くはずだ。
心臓が口から飛び出しそうだった。
「――鈴木様」
マイクを通して自分の声が響く。
モニターの中の二人が、驚いて声のする方――天井のスピーカー――を見上げた。
「もし、言葉で伝えられない想いがあるのでしたら……そちらのピアノを使ってみてはいかがでしょうか」
言った。
言ってしまった。
マニュアルには絶対に書いていない行動。
完全な越権行為だ。
コントロールームが、シン、と静まり返る。
ママの冷たい視線が私の背中に突き刺さるのがわかった。
終わった。
初日で、クビだ。
そう思った、その時。
モニターの中のミカさんが、ふらふらとピアノの方へ歩み寄った。
そして、ゆっくりと椅子に座ると、震える指で鍵盤に触れた。
ポロロン……
鳴らされたのは不協和音だった。
彼女の混乱した心が、そのまま音になったかのようだった。
でも彼女は弾くのをやめなかった。
一音、また一音と、確かめるように鍵盤を叩いていく。
やがて、それは拙いながらも、一つのメロディーを形作り始めた。
それは、悲しい、旋律だった。
切なくて、苦しくて、でも、どこかにほんの少しだけ温かい光が感じられるような。
彼女が田中様と過ごした日々の楽しかった記憶と、今の苦しい気持ちが、全部その音に込められているようだった。
田中様は、ただ立ち尽くして、その音色に耳を傾けていた。
彼の顔から焦りの色がすうっと消えていくのがわかった。
やがて曲が終わる。
ミカさんは鍵盤の上に突っ伏してしまった。
その肩が、小さく震えている。
長い、長い沈黙。
先に口を開いたのは田中様だった。
「……ごめん」
その一言は今までのどんな言葉よりも誠実に響いた。
「僕、全然わかってなかった。君がそんなに苦しんでるなんて。自分の気持ちばっかり、押し付けてた」
彼はゆっくりとミカさんに近づくと、その震える肩にそっと自分のジャケットをかけた。
「……帰ろうミカ。もう、いいから」
「……うん」
ミカさんが、小さく頷く。
その顔は涙でぐしゃぐしゃだったけれど、どこか吹っ切れたような、穏やかな表情をしていた。
プロポーズは失敗に終わった。
でも二人は初めて、本当の意味で向き合えたのかもしれない。
「……ロック、解除してあげなさい」
ママが低い声で言った。
宮野さんが頷いて、コンソールを操作する。
モニターの隅に『ロック解除』という文字が表示された。
やがて二人は手を取り合うでもなく、ただ静かに部屋を出て行った。
コントロールームには、重い沈黙が流れていた。
私は、自分の犯したことの重大さに、今更ながら、全身から血の気が引くのを感じていた。
「……申し訳、ありませんでした」
私は床に頭がつくほど深く頭を下げた。
「勝手なことを、して……」
クビを覚悟した。
しかし、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「……顔を上げなさい」
ママの声は不思議なほど穏やかだった。
おそるおそる顔を上げると、ママは私の目をじっと見つめていた。
「あんた、自分が何をしたかわかってる?」
「……はい。マニュアルを無視して業務に私情を挟みました」
「そうね。本来なら即刻クビよ」
ごくり、と喉が鳴る。
「でもね」
ママは、ふぅ、と長い煙を吐き出した。
「あんたのやったことは『コンサルティング』だったわ。あんたはお客様の『相互理解』を確かに『促進』させた。……結果的に、ね」
「……え?」
「あんた、もうプロよ」
その言葉はあまりにも重かった。
プロ。
この私が?
「勘違いするんじゃないわよ。今回はたまたまうまくいっただけ。一歩間違えれば最悪の事態になってた。二度とこんな無茶は許さないわ」
ママは厳しい口調で付け加える。
「でも、あんたのその『正義感』と『お節介』は、時としてマニュアルを超える力を発揮することもある。……覚えときなさい」
私はただ呆然とママの顔を見つめることしかできなかった。
その日の業務が終わった後も、私の心は、ずっとざわついていた。
疲労困憊だった。
他人の生々しい感情に、真正面から向き合うことが、これほどまでに心を消耗させるなんて、思ってもみなかった。
私は一体何をしているんだろう。
何のためにここにいるんだろう。
答えはまだ見つかりそうになかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
私の就職先は、とんでもなく“変な部屋”だった。
でも、そこで行われているのは人生でいちばん人間というものを、深く、濃く、知ることができる仕事なのかもしれない。
近藤眠夢、社会人一日目。
私の奇妙でそしてとてつもなくハードな毎日が、今始まった。




