記憶をなくした恋人たち
室長という肩書きはサイズの合わない上着のようにまだ私の体に馴染んでいなかったが、『特殊コンサルティング部門・心の庭』が本格始動して以来、私の日常は以前とは比べ物にならないほど複雑で確かな手応えに満ちていた。
その日の依頼は一件のあまりにも切ない恋の物語だった。
依頼者である小野寺美咲さんはコントロールームの応接ソファで自分の手をぎゅっと握りしめていた。その瞳は深い悲しみと、それでも諦めきれない一縷の望みで揺れている。
「彼、倉田翔平は三ヶ月前の事故でここ数年間の記憶を失ってしまったんです」
彼女の隣にはその倉田翔平さんが座っていた。彼は誠実そうな好青年だったが、その表情には常に戸惑いと申し訳なさそうな色が浮かんでいる。
「医者からは思い出す可能性は低いと言われました。今の彼にとって私はただの『はじめまして』の他人なんです」
美咲さんの声が震える。
「でも私は信じたい。私たちが確かに愛し合っていた時間を。そして今の彼が、記憶のない今の彼が、もう一度私を愛してくれる可能性はあるのかどうか。それを知りたくて……」
愛は記憶の集積なのだろうか。共に過ごした時間、交わした言葉、分かち合った思い出。それら全てが失われた時、そこに愛は残るのだろうか。あまりにも重く哲学的な問い。私は室長としてではなく一人の庭師としてこの難解な庭と向き合う覚悟を決めた。
「……わかりました。お引き受けします」
私のその言葉に美咲さんの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。
ブリーフィングのためチームメンバーが中央テーブルに集まる。
「今回の案件、テーマは『魂の記憶』です」
私がそう切り出すと宮野さんは神妙な顔で頷いた。
「記憶喪失か。ドラマみたいだけど現実となるとかなりヘビーだね。どうアプローチするの? 室長」
「無理に過去を思い出させることはしません。それは彼を追い詰めるだけです。代わりに彼の五感に訴えかける『きっかけ』を用意します。言葉や理屈じゃない。彼の魂が直接何かを感じ取ってくれることに賭けたいんです」
私のその方針にチームの皆がそれぞれのやり方で応えてくれた。
「面白いじゃない。宮野、あんたは二人のSNSを徹底的に洗いなさい。彼らがよく聴いていた音楽、行っていた場所。どんな些細な情報でもいいわ。かき集めるのよ」
ママの指令に宮野さんは「お任せください!」と力強く頷く。
「蛇田さん」
私が声をかけると彼は黙ってこちらを見た。
「依頼者のプロフィールに二人が初めてデートしたカフェの名前があります。そこのコーヒー豆を手に入れてほしいんです。同じ銘柄、同じ焙煎度のものを」
「……承知した」
彼は短くそう答えると音もなく部屋を出ていった。彼のその静かな実行力は私たちの作戦の確かな土台だった。
そして私は橘さんにメッセージを送った。
『橘さん、急な申し訳ありません。お客様の思い出の品を『余白の庭』に置きたいんです。でもその空間の静寂を乱したくない。何かいいアイデアはありませんか?』
すぐに返信が来た。
『面白いですね。それなら部屋の一部の壁を透過スクリーンに切り替えるのはどうでしょう。そこにその品物の映像を風景のように投影するんです。実物を置くよりも自然に空間に溶け込むはずです』
『……さすがです。ありがとうございます』
『僕たちは最高のチームですから』
その言葉に私の胸が温かくなる。
こうして各分野のプロフェッショナルたちの知恵と技術が結集し、私たちのささやかで壮大な実験の準備は整った。
◇
モニタリングが始まった。舞台は『余白の庭』。
真っ白な空間に翔平さんと美咲さんがぽつんと座っている。二人の間には見えない壁があった。翔平さんは自分の無力さに唇を噛み締め、美咲さんは彼のそんな姿を痛ましげに見つめている。
「ごめん……。何も思い出せなくて」
「ううん、謝らないで。翔平くんは何も悪くないよ」
優しい言葉を交わしながらも二人の心は決して交わらない。記憶という共通の土台を失った関係はあまりにも脆く不安定だった。
私は静かにコンソールを操作した。最初のきっかけは「香り」。蛇田さんが手に入れてくれたコーヒー豆を使ってルーム内に挽きたてのコーヒーの香りを微かに漂わせる。
くんと翔平さんの鼻が動いた。
「……あれ? この匂い……」
彼は戸惑ったように辺りを見回す。
「……なんだろう。すごく懐かしいっていうか……心が落ち着く……」
その言葉に美咲さんの目が潤んだ。それは二人が初めて心を通わせたあの小さなカフェの香りだったのだ。
次に私は「音」のスイッチを入れた。宮野さんが探し出してくれたプレイリスト。翔平さんが美咲さんの誕生日に作ったという思い出の曲たち。その中の一曲、美咲さんが一番好きだと言っていたインディーズバンドのアコースティックなバラードを、壁のスピーカーからごく微かな音量で流す。
翔平さんは最初気づかない様子だった。しかし曲がサビに差し掛かった時、彼は無意識にそのメロディーを口ずさんでいたのだ。
「……あれ? なんで俺この歌知ってるんだ……?」
彼は自分の口から出た歌に自分で驚いている。美咲さんは両手で口を覆い声を殺して泣いていた。
そして最後のきっかけ、「手触り」。
私は橘さんのアイデア通り部屋の一部の壁を透過スクリーンに切り替えた。そこに風景のように映し出されたのは一本のセーターの映像だった。美咲さんが翔平さんに初めてプレゼントした少しごわごわした手触りの素朴なウールのセーター。
翔平さんはその映像に吸い寄せられるように壁に近づいた。そしておそるおそるそのスクリーンに手を触れる。もちろんそこにセーターの感触はない。ただ冷たいガラスの感触があるだけだ。
「……違う」
彼は呟いた。
「……こんな冷たい感じじゃない。もっと温かくて少しだけチクチクして……俺の手はその手触りを憶えてる……」
その言葉を聞いた瞬間、美咲さんはもう感情を抑えることができなかった。彼女は翔平さんの元へ駆け寄ると彼の背中に泣きながら抱きついた。
「……翔平くんっ……!」
翔平さんは驚いて体を硬直させた。しかし彼は彼女を振り払わなかった。それどころかゆっくりと振り返るとその震える体を優しく抱きしめ返した。
「……ごめん。やっぱり何も思い出せない」
彼は言った。
「頭の中は真っ白なままだ。君が誰なのかも俺たちがどうだったのかもわからない。でも……」
彼はそこで一度言葉を切ると美咲さんの顔を覗き込んだ。
「でも俺の心は今間違いなく君のそばにいたいって言ってる。この匂いもこの歌もこの温もりも全部俺の魂が憶えてるんだと思う。……だからもう一度はじめさせてくれないか。記憶のない俺ともう一度恋人になってくれませんか」
それは記憶の上書きではない。新しい愛の始まりの告白だった。美咲さんは何度も何度も頷きながら彼の胸に顔をうずめた。
コントロールームは静寂に包まれていた。宮野さんは自分のことのように号泣している。蛇田さんは顔を背けていたがその耳が赤くなっているのを私は見逃さなかった。ママはただ静かにその光景を見つめていた。
私はそっとモニタリングを終了した。
案件報告書に私はこう書き記した。
『愛は記憶に非ず。魂の共鳴にあり』
庭師としてまた一つ大切なことを学んだ一日だった。目に見えないものを信じ育む。それが私の仕事なのだと改めて胸に刻んだ。




