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「なかよし」〜コンドームちゃんと奇妙な職場〜  作者: 片山アツシ
なかよしルームへようこそ!〜庭の日常と、庭師たちの秘密〜
28/41

女王の涙と、庭師の恋

その日なかよしルームの重厚なエントランスの扉を叩いたのは、私たちの誰もが予想しなかった人物だった。そこに立っていたのは一人の初老の女性。高価ではないが上質で仕立ての良いグレースーツを身に纏い、その佇まいは知的でそしてどこか深い悲しみを湛えていた。

彼女は受付のスタッフにただ一言だけ告げた。

「――真行寺信吾しんぎょうじしんご先生にお取次ぎをお願いできますでしょうか」


真行寺信吾。その名前を私たちは誰も知らなかった。

しかし内線を受けたママの反応は明らかに異常だった。受話器を握りしめたまま彼女は数秒間完全に動きを止める。そのいつも自信に満ち溢れた顔から血の気が引いていくのがわかった。やがて彼女は絞り出すような声で「……執務室にお通しして」とだけ告げると、乱暴に受話器を叩きつけた。


コントロールームには不穏な沈黙が流れた。

「ママの知り合いなのかな?」

宮野さんが不安そうに呟く。蛇田さんは何も言わなかったが、その鋭い視線は執務室の閉ざされた扉にじっと注がれていた。


しばらくして執務室から出てきたママの顔はいつもの鉄仮面のように無表情だった。しかしその内側で激しい嵐が吹き荒れていることを私たちは感じずにはいられなかった。

「……今日の予約は全てキャンセルよ。全員持ち場に戻りなさい」

その有無を言わさぬ口調に私たちはただ頷くことしかできなかった。


その日一日ママは執務室に閉じこもったまま出てこなかった。夜になってもコントロールームの明かりは消えない。宮野さんも蛇田さんも心配して残っていた。そして私もまたどうしてもその場を離れることができなかった。ママのあの見たことのない動揺した姿が私の胸に重くのしかかっていた。


深夜、日付が変わる頃。私は意を決してママの執務室の扉をノックした。返事はない。私はおそるおそるドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。


部屋の中に足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。そこにいたのは私の知っている「ママ」ではなかった。派手なドレスも巨大なウィッグもそこにはない。シンプルな黒いタートルネックのセーターと細身のパンツ。そして化粧を落としたその素顔は驚くほど繊細で、そして深い疲労と苦悩の色に染まっていた。

彼――真行寺信吾は巨大なデスクの前で一人グラスを傾けていた。その琥珀色の液体だけが彼の唯一の慰めであるかのようだった。


「……何の用よ、眠夢」

彼は私を見ようともせず低い地声で言った。それはママのtheatricalな低音ボイスではなく、一人の男の疲れ果てた声だった。


「……あの女性は誰だったんですか」

「あんたには関係ないわ」

「関係なくありません。あなたは私たちのボスです。あなたの苦しみはチーム全体の問題です」

私の生意気な言葉に彼は初めて顔を上げた。その瞳は赤く充血していた。


「……生意気なクソガキね、あんたも」

彼は自嘲するように笑うとグラスのウイスキーを一気に煽り、重い口を開いた。


「……佐伯さん。彼女は佐伯響子。私が大学病院でカウンセラーをしていた頃の元同僚よ。優秀な精神科医だったわ」

「元同僚……」

「彼女の依頼は一つ。『心を閉ざしてしまった自分の息子夫婦を助けてほしい』。……それだけよ」


その依頼内容は一見私たちの日常業務と変わらないように思えた。しかし彼の表情はその問題がもっと根深く個人的なものであることを物語っていた。


「その息子さん……海斗くんはね、かつて私が担当していた患者だったのよ」

彼の告白は静かだった。

「重いトラウマを抱えて誰にも心を開けずにいた。私は必死だったわ。彼を救いたい一心で何時間も話を聞きあらゆる心理療法を試した。……そして彼は少しずつ私にだけは心を開いてくれるようになった」


彼はそこで一度言葉を切った。その目に深い痛みの色が浮かぶ。

「でも私は間違っていた。彼が私に見せていたのは信頼なんかじゃなかった。あれは『依存』よ。彼は私という杖がなければ立てなくなってしまっていた。私は彼を救うどころかもっと深い闇に引きずり込んでしまったのよ」


「そんな……」

「私は怖くなった。自分の無力さとそして『救いたい』という自分の傲慢な欲望が、一人の人間を壊していくその現実に。……だから私は逃げたのよ。全部捨てて。カウンセラーという立場も真行寺信吾という名前も。そして派手なドレスと化粧で心を武装して『ママ』になった。もう二度と誰かの心に深入りしないようにね」


派手なドレスと化粧は彼の鎧だったのだ。無力で傷つきやすい本当の自分を守るための。彼の告白に私はかけるべき言葉を見つけられなかった。


「佐伯さんは言うわ。『あなたは逃げただけ。でもあなたのやり方でしかあの子を救えないかもしれない』って。……ふざけるんじゃないわよ。私に一体何ができるって言うのよ……」

彼はそう吐き捨てると両手で顔を覆った。その大きな背中が小さく震えている。私は初めてこの無敵に見えた女王の涙を見た。


私は彼の前に立った。そして震える声で言った。

「……手伝わせてください」

「……何?」

「一人で抱え込まないでください。私たちがいます。宮野さんも蛇田さんも、そして私も。私たちはチームです」

私は彼のデスクの上に置かれていた一枚の企画書を指差した。それは私が書き上げた『アフターケア・プログラム』の草案だった。


「ママの知識と経験が必要です。あなたが持っている海斗さんのカルテと私たちのこの『なかよしルーム』という装置を組み合わせればきっと何かできるはずです。……尋問官でもカウンセラーでもない、私たちだけのやり方で」


私のその言葉に彼はゆっくりと顔を上げた。その涙に濡れた瞳にかすかな光が宿った。それは絶望の淵で見つけた小さな小さな希望の光だった。



私たちの『庭師たちの協奏曲』と名付けられた作戦はそこから始まった。

私はママから守秘義務の範囲内で海斗さんの過去の情報を共有してもらった。彼は幼い頃ある事件に巻き込まれ、それ以来閉鎖的で極端に静かな空間でしか安心できないというトラウマを抱えていた。

彼の唯一の「安全な場所」。それは彼が学生時代に通っていた大学の古い図書館の片隅にある閲覧室だった。高い天井、西日の当たる大きな窓、そして古い紙とインクの匂い。


「……その空間を再現するんですね」

私の提案に橘さんは即座に応じてくれた。彼はもはやただの外部のデザイナーではなかった。私たちのチームの重要な一員だった。

私たちは佐伯さんから当時の図書館の写真や間取り図を提供してもらい、『余白の庭』の大改造に取り掛かった。橘さんは天才的な手腕で壁の色や床の材質、そして光の入り方まで完璧に計算しあの日の空間を再現していく。蛇田さんは彼の専門知識を活かし古い本の匂いを再現するための特殊なアロマを調合し空調システムに組み込んだ。宮野さんは夫婦の現在の生活状況を徹底的にリサーチし、彼らが最もリラックスできる時間帯や服装などを分析した。そしてママは私たちの司令塔として全ての情報を統括し的確な指示を与え続ける。


私たちは皆それぞれの持ち場で自分のプロフェッショナルを尽くした。全ては心を閉ざした一組の夫婦のために。


作戦当日、海斗さんとその妻美咲さんは何も知らされずに『余白の庭』へと通された。

扉が開いた瞬間、海斗さんの足がぴたりと止まった。彼の目が大きく見開かれる。そこは彼が心を許せる唯一の場所、失われた聖域だった。


彼はまるで夢遊病者のように部屋の中を歩き、書架に並べられた見覚えのある本の背表紙を指でなぞった。そしていつも座っていた窓際の席に腰を下ろす。西日が彼の横顔を優しく照らしていた。


妻の美咲さんはただ遠巻きにそんな夫の姿を見つめているだけだった。彼女は夫の心の聖域に踏み込むことをためらっていた。


その膠着した状況を動かしたのはママだった。彼女はマイクを手に取ると静かに語りかけた。それはママの声ではなく真行寺信吾としての穏やかで優しい声だった。

「……美咲さん。彼の庭に入ることを恐れないで。あなたももうその庭の大切な一部なのだから」


その言葉に背中を押されるように美咲さんはおそるおそる夫の隣の椅子に腰掛けた。二人の間に言葉はない。ただ同じ窓から同じ光を浴び、同じ本の匂いを吸い込んでいる。


やがて海斗さんがぽつりと呟いた。

「……この光。……君と初めて話した日もこんな光だったな」

「……ええ」

美咲さんの瞳から涙がこぼれ落ちた。

「あなた、覚えていてくれたのね」


二人の止まっていた時間がゆっくりと動き出した瞬間だった。

コントロールームでその光景を見つめていたママの頬を一筋の涙が伝った。それは長年彼女を縛り付けていた罪悪感から解放された静かな涙だった。



案件が終わり全てが終わった夜、私は一人屋上で星の見えない夜空を見上げていた。やり遂げたという達成感と心地よい疲労感に包まれて。


「……お疲れ様でした、近藤さん」

背後から優しい声がした。橘さんだった。彼は温かいコーヒーの入った紙コップを二つ持っていた。


「橘さん……」

「近藤さんの作る庭はいつも誰かの心を救いますね」

彼はそう言って優しく微笑んだ。その笑顔に私の胸がまた高鳴る。


私たちはしばらく他愛もない話をした。仕事のこと、チームのこと、そしてお互いのこと。時間はあっという間に過ぎていった。

「……あの、近藤さん」

彼が改まって私を呼んだ。

「今度は僕とあなたのための庭を探しに行きませんか?」


それはデザイナーらしい少し回りくどい、でもとても誠実なデートの誘いだった。私の顔がカッと熱くなる。でも不思議と嫌じゃなかった。それどころか心が温かい喜びで満たされていく。


私は俯きながらも精一杯の勇気を出して頷いた。

「……はい」


地獄のような職場で私が見つけた居場所。そしてそこで育まれたささやかで温かい恋。

私の新しい物語はまだ始まったばかりだ。この奇妙で愛おしい仲間たちと共に。

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