【幕間の蛇足】海辺のカフカ 後編
村上春樹氏の同名小説とは別物です。
相川莉奈が演じたオリジナル戯曲となります。
月の光だけが頼りだった。
小屋のランプの光では文庫本のページはただの白紙に戻ってしまう。私は毎夜満月が空に昇るのを待ち、その青白い光を頼りに自分の過去の断片を貪るように読んだ。
そこに書かれていたのはやはり戯曲だったが、それは一つのまとまった物語ではなかった。断片的なシーン、脈絡のないセリフ、そしてト書きで記された感情の奔流。
『女:ねえ、どうして空は青いの?』
『男:君が、寂しい色を知っているからだよ』
『女:さよならは言わないで。だって、私たちはまた会えるから』
『男:ああ。世界のどこかで、きっと』
セリフを読むたびに私の頭の中に知らないはずの光景がフラッシュバックした。雨に濡れたアスファルトの匂い。賑やかな都会の雑踏で誰かの温かい手に引かれて歩いた記憶。古いジャズ喫茶のカウンターでレコードの針が立てる小さなノイズを聞きながらコーヒーを飲んだこと。そしてどうしようもない哀しみに打ちひしがれ声を殺して泣いた夜のこと。
それらの記憶は鮮明でありながらどこか他人の人生を覗き見しているかのように現実感がなかった。
隣では灯台守の老人が何も言わずにただ熱いお茶を淹れてくれる。彼は私が何をしているのか決して尋ねなかった。その沈黙が私にとってはなによりの救いだった。
戯曲を読み進めるうちに私はある一つの事実に気づき始めた。この物語には常に「男」が登場する。顔も名前も思い出せないが、その存在だけは確かな温もりを持って私の記憶の中に息づいていた。彼は私の恋人だったのだろうか。それとも私が演じていた役の恋人だったのか。
そんなある日私は灯台の中で一つの隠された扉を見つけた。老人に断りを入れると彼はただ静かに頷くだけだった。錆び付いた蝶番が軋む音を立てる。扉の向こうに広がっていたのは埃をかぶった夢の残骸だった。
そこは物置になっており古い舞台の小道具や衣装、そして色褪せたポスターの束が壁に立てかけられていた。
その中の一枚のポスターを見て私は息を呑んだ。
スポットライトの中に一人の女性が立っている。その悲しみを湛えた瞳は紛れもなく私自身のものだった。
そしてポスターの下にはこう記されていた。
『劇団「海猫座」公演 — 海辺のカフカ』
『主演:水木 ゆう(みずき ゆう)』
水木ゆう。ミズキ。
それが私の本当の名前だったのだ。私は女優だった。そしてこの『海辺のカフカ』という舞台で主役を演じていたのだ。
全てを理解した。この白紙の本はその時の台本だったのだ。
でもなぜ私は記憶を失ってしまったのか。
小屋に戻ると老人が私を待っていた。その静かな瞳はまるで全てを知っているかのようだった。
「……思い出したかい」
「あなたは誰なんですか」
私の問いに彼はゆっくりと答えた。
「わしは劇団『海猫座』の演出家だった男だよ。そして『海辺のカフカ』を書いた張本人だ」
彼の告白は私の最後の記憶の扉をこじ開けた。そうだ私は役者だった。そして彼は私の師だった。『海辺のカフカ』は彼が私のために書き下ろしてくれた戯曲だった。記憶を失い自分の存在意義を探して海辺を彷徨う女の物語。
「君は天才だった」
老人は遠い目をしながら語る。
「だがその才能はあまりにも危うかった。君は役を演じるのではなく役そのものになろうとした。そのメソッドは君の心を少しずつ蝕んでいった」
私はこの役を完璧に演じるために自ら記憶を消し去ろうとしたのだ。自己暗示と極度の孤独の中で本当に自分を見失ってしまった。この海辺の町は私が役作りのために自ら選んだ舞台だったのだ。
「この本はわしが君のために用意した最後の命綱だった」
老人はあの白紙の文庫本を指差した。
「特殊なインクで書かれた君だけの台本。いつか君が本当の自分に帰りたくなった時のための道標としてな。『約束の場所』とはこの海辺のこと。君が君自身と出会うための約束だったんだよ」
全てが繋がった。私の失われた物語がようやく一つの形になった。私は女優、水木ゆう。そして目の前にいるこの老人は私の全てを知る唯一の人間。
でも私はもう水木ゆうではなかった。この海辺で過ごした静かな時間、灯台守の老人と交わした言葉のない対話、それらは確かに新しい「私」を形作っていた。私は過去に戻るべきなのだろうか。それともこのまま名もなきミズキとして生きていくべきなのだろうか。
私は台本の最後のページを開いた。そこには何も書かれていなかった。最後のセリフは白紙。結末は私自身が書かなければならないのだ。
私は小屋を出て浜辺に立った。夜明け前の空が白み始めている。海は相変わらず静かに呼吸をしていた。
私は女優水木ゆうの人生を選ばない。そして記憶のないミズキのままでいることも選ばない。
私はそのどちらも私自身なのだと受け入れることにした。過去も現在も全て抱きしめてここから新しい物語を始めよう。
数日後、私はあの白紙の文庫本と一本の万年筆を手に浜辺に座っていた。そして最初のページにインクを下ろす。そこに私が書き始めたのは戯曲の続きではなかった。一人の女と灯台守の老人が海辺の町で静かに暮らすささやかな物語。私の新しい物語だ。
遠く灯台の上から老人が私を見守っているのがわかった。私は彼に向かって小さく手を振った。
海は穏やかだった。
私はようやく自分の岸辺にたどり着いたのだ。




