【幕間後編】 観客は、ただ一人
なかよしルームの扉の前に再び立った時、相川莉奈の足は鉛のように重かった。一歩踏み出すごとにあの日の屈辱的な記憶が足首に絡みついてくるようだった。しかし彼女は逃げなかった。もう逃げる場所などどこにもなかったからだ。
案内されたのは壁一面にモニターが並ぶあのコントロールームではなかった。そこは柔らかな間接照明と観葉植物が置かれた静かで落ち着いたカウンセリングルームだった。部屋の中央には小さなテーブルを挟んで二つのソファが置かれている。その一つに彼女は座っていた。近藤眠夢。あの日私の心を容赦なく抉った女。
しかし目の前にいる彼女は莉奈の記憶の中のあのおどおどとした新人とはまるで別人だった。背筋を伸ばし静かに微笑むその姿には『特殊コンサルティング部門・心の庭』室長という肩書きにふさわしい穏やかな風格が備わっていた。
「また私の心を丸裸にするつもり?」
莉奈は自分を守るための唯一の鎧である皮肉を口にした。
その棘のある言葉に眠夢は表情一つ変えなかった。彼女はゆっくりと立ち上がると莉奈の前に立ち、深く深く頭を下げた。
「あの時は申し訳ありませんでした」
その声はどこまでも真摯だった。
「私はあなたを傷つけました。自分の未熟な正義感であなたを追い詰めてしまった。そのことをずっと後悔していました」
予想外の謝罪。莉奈は言葉を失った。
眠夢は顔を上げるとまっすぐに莉奈の目を見つめた。
「でも今の私はもうあなたを裁くためではなく、あなたの庭に水をやるためにここにいます。もしあなたがそれを許してくれるのなら」
庭に水をやる。その不思議な言葉の響きに莉奈の心の壁がほんの少しだけ音を立てて崩れたような気がした。
眠夢は莉奈をあの真っ白な部屋へと案内した。『余白の庭』。何もないがらんとした空間。それは今の莉奈の心のようでもあった。
眠夢は無理に話を聞き出そうとはしなかった。ただ莉奈の隣に静かに座るだけ。その沈黙が不思議と苦痛ではなかった。
やがて眠夢がぽつりと語り始めた。
「私、ネットで見つけたんです。あなたが昔出演していた舞台のレビューを」
その言葉に莉奈の肩が微かに震えた。忘れたはずの過去。
「『悲しみを湛えた瞳は観る者の心を強く揺さぶる』……そう書かれていました。その舞台評を読んだ時、私わかったんです。あなたはただ演じていただけじゃない。魂を燃やしていたんだって。……私はその輝きを信じたいんです」
眠夢の言葉は莉奈が自分自身でさえ忘れようとしていた過去の輝かしい記憶を容赦なく呼び覚ました。そうだ私は確かに輝いていた。貧乏で未来も見えなかったけれど、舞台の上にいるその瞬間だけは世界で一番の自由を感じていた。
「……どうして」
莉奈の唇からか細い声が漏れた。
「どうして辞めちゃったんだろうね、私」
それは誰に言うでもない独り言だった。でも一度溢れ出した言葉はもう止まらなかった。
「……怖かったのよ」
彼女は自分の膝を抱きしめながら告白した。
「周りはみんな才能のある子ばかり。私はいくら努力しても主役にはなれなかった。稽古が終われば生活のためのバイトに明け暮れる毎日。……だんだんわからなくなってきたの。私が本当に好きなのは演劇なのか、それとも演劇をしている自分が好きなだけなのか」
才能への嫉妬、生活の困窮、そして夢を諦めていく自分への深い絶望。
「そんな時に出会ったのよ、高槻みたいな男たちに。彼らは私に言ったわ。『君はそのままで美しい。何もしなくていい』って。……楽だった。頑張らなくても夢を見なくても、ただ綺麗に笑って頷いていれば生きていけたから。……そうやって心を殺しているうちに本当に何も感じなくなっちゃった」
金のために愛を演じる。その虚しい行為は彼女の魂を少しずつ蝕んでいったのだ。全てを吐き出し泣きじゃくる莉奈の背中を眠夢はただ黙ってさすり続けていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。眠夢はおもむろに一枚の台本を取り出した。それは少し黄ばんでページの角が折れた古い台本だった。表紙には『海辺のカフカ』と書かれている。莉奈がかつてレビューで絶賛されたあの舞台の台本だった。
「……蛇田さんが見つけてきてくれたんです。古書店を何軒も回って」
その言葉に莉奈は顔を上げた。あの無口な掃除屋の顔が脳裏に浮かぶ。
「莉奈さん」
眠夢はまっすぐに彼女を見つめた。
「もう一度だけ演じてみませんか? 金のためでも誰かのためでもない。あなた自身の魂のために」
眠夢は立ち上がるとルームの壁に向かってコンソールを操作した。すると真っ白だった壁に小さな劇場の舞台の風景が投影された。使い古された木の床、客席から差し込む一筋のスポットライト。そして眠夢は客席の位置にたった一つだけ椅子を置いた。
「観客は私一人です」
莉奈は震えながらもその台本を受け取った。指が憶えている。何度も何度も読み込んだセリフの感触。彼女はゆっくりと立ち上がり光の輪の中へと足を踏み入れた。
最初は声が上ずった。体がこわばりセリフが途切れ途切れになる。しかし物語が進むにつれて彼女の眠っていた女優としての魂が目を覚ましていく。指先まで神経が通り声に張りが戻り、そして何よりもその瞳に光が宿っていく。彼女はもう相川莉奈ではなかった。台本の中の悲しい宿命を背負った一人の女としてそこに生きていた。
その圧巻の一人芝居はもはや演技ではなかった。彼女の人生そのもの。夢を諦めた絶望、愛を演じた虚無、そして今ここで再び光を見出そうとする魂の叫び。その全てがセリフの一言一言に込められていた。
最後のセリフを言い終えた時、莉奈は舞台の中央で声を上げて泣き崩れた。それは絶望の涙ではない。長い長い冬を越えて再び光を浴びた魂の再生の産声だった。
◇
数ヶ月後、私と橘さんは都心から少し離れた小さな劇場の客席にいた。劇場は満員だった。
やがて幕が上がる。舞台の上に相川莉奈の姿があった。主役ではない。ほんの小さな役。でもその存在感は誰よりも強くそして美しく輝いていた。彼女は自分の足で再び舞台に立っていたのだ。
終演後ざわめくロビーで莉奈は私たちに気づいた。私たちは言葉を交わさなかった。ただ莉奈は深くそして晴れやかな笑顔で私たちに一礼した。私もまた最高の笑顔で頷き返す。その笑顔だけで全てが通じ合った。
偽りの花は一度枯れた。しかし心の庭師の手入れによって今再び自分だけの本物の花として力強く咲き始めたのだ。私たちの庭には今日もまた一つ美しい物語が生まれた。




