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「なかよし」〜コンドームちゃんと奇妙な職場〜  作者: 片山アツシ
「卒業式は突然に」
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コンドームちゃんの卒業試験

赤いボタンの冷たい感触が私の指先に現実を告げた。『緊急時ルーム内システム・全権掌握モード』。その絶対的な権限の重みが私の両肩にずしりとのしかかる。コントロールームの空気は張り詰め、ママも宮野さんも、そして蛇田さんさえも固唾を飲んで私の一手を見守っていた。


モニターの中では若いカップルが互いを傷つけ合い、その心は崩壊の寸前にあった。彼らを救うのか、それとも完全に破壊するのか。その運命の引き金は今私の手に委ねられた。


私は一つ深呼吸をすると、マイクには触れなかった。言葉はもういらない。今の彼らに必要なのは論理や説得ではなく、彼らの凍りついた心を溶かすもっと根源的な何かだ。


私はコンソールの環境制御パネルへと向き直った。ここからは私の庭。私がこの空間の創造主だ。


まず私はルーム内の照明をゆっくりと落としていった。真っ白だった部屋が次第に夕暮れのような薄暗さに包まれていく。突然の光の変化にモニターの中の二人は罵り合うのをやめ、戸惑ったように辺りを見回した。


次は音だ。私は音響システムのライブラリから一つの環境音を選択した。『小雨の音』。スピーカーから静かに流れ始めたのは、さあ、という屋根を静かに叩くような穏やかでどこか懐かしい雨音だった。


「……雨?」

男性が訝しげに呟いた。窓の外は雲一つない快晴のはずだ。


私はさらに仕掛けを続ける。空調システムと連動したアロマディフューザーを作動させる。私が選んだ香りは『ペトリコール』。雨が乾いた大地に降り注いだ時のあの独特の匂いだ。土と緑と水が混じり合った生命の匂い。


光と音と匂い。言葉を介さない感覚への直接的なアプローチ。それはママから借りた本でかじった『解決志向アプローチ』とはまったく違う。私がこの土壇場で辿り着いた私だけのやり方。


モニターの中で変化が起きた。頭をかきむしりうずくまっていた女性がゆっくりと顔を上げたのだ。その虚ろだった瞳が何かを探すように宙を彷徨っている。彼女はくんと鼻をすすり、ぽつりと呟いた。


「……この匂い……」


そのか細い声に男性がハッとしたように彼女を見た。彼の険しい表情がわずかに緩む。

「……ああ。あの日の匂いだな」

「……うん」


二人の間に会話が生まれた。それはもはやお互いを責め立てる言葉ではなかった。一つの感覚を共有する者同士の静かな確認。


『あの、日』

二人のプロフィール資料の片隅に走り書きされていたメモが私の脳裏に蘇る。

『初デート:台風の日の植物園。温室の中で雨宿り』


そうだ。この感覚は二人の始まりの記憶。全てが輝いて見えたあの頃の原風景。


私はゆっくりと雨音のボリュームを下げていき、照明を暖色系のオレンジ色へと変化させた。まるで温室の西日に照らされているかのような温かい光。


モニターの中の二人はもう叫んではいなかった。彼らは部屋の両端に離れたままそれぞれ床に座り込んでいる。そしてただ静かにお互いを見つめていた。その視線にはもう憎しみはなかった。そこにあるのは深い悲しみとそして失われた時間へのどうしようもない愛惜。


やがて男性が口を開いた。

「……ごめん」

その一言は誰に対するでもない謝罪だった。彼女を傷つけたこと、自分自身を見失ったこと、その全てへの懺悔の言葉。


女性は答えなかった。ただその瞳から一筋涙が静かに流れ落ちた。それはヒステリックな涙ではない。心の氷が溶け出した証の温かい涙だった。


二人はそれ以上何も話さなかった。抱き合うことも手を取り合うこともない。ただ離れたままお互いの存在を確かめ合うようにそこに座っている。でも確かに二人の心は再び繋がり始めていた。壊れかけた関係性の瓦礫の中から小さな小さな絆の芽が顔を出した瞬間だった。


「…………」


コントロールームは水を打ったように静まり返っていた。宮野さんは両手で口を覆い、その光景を信じられないといった目で見つめている。蛇田さんはいつの間にかモップを手放しモニターの前に仁王立ちになっていた。その無表情の奥に確かな驚愕の色が浮かんでいる。


そしてママ。彼女は肘掛け椅子に深く身を沈めたまま動かない。その顔は分厚い化粧の影になって窺い知ることはできなかった。


私は静かにコンソールから手を離した。全身からどっと汗が噴き出す。極度の緊張と集中から解放され体中の筋肉が悲鳴を上げていた。でも不思議と心は穏やかだった。私は私のやるべきことをやった。ただそれだけだ。


「なかよし」は形ではない。ハグやキスだけが愛の証明ではないのだ。たとえ離れていても言葉を交わさなくても、同じ記憶を共有し同じ痛みを感じ、そして同じ未来を見つめようとする。その心の繋がりこそが本当の「なかよし」なのかもしれない。私はこの極限の状況の中で一つの答えを見つけ出していた。


私の卒業試験は終わった。後は審判を待つだけだ。私がこの職場でプロとして歩み続けることを許されるのかどうか。その人事査定はもうすぐそこまで迫っていた。

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