奇妙な「職場」と仕事内容
目の前に差し出された、大きくてゴツゴツした手。
その手の主は、自らを「ママ」と名乗る、性別も年齢も不詳の、ド派手なオカマ。
そして、この手が差し伸べられている場所は、公園で酔い潰れた私がなぜか運び込まれた、超高級ホテルのような一室。
「さあ、どうする? お嬢ちゃん」
ママの低い声が、やけにクリアに鼓膜を震わせる。
地獄か、それとも、もっとわけのわからない地獄か。
そんな究極の二択を迫られ、私の脳は完全にショートしていた。
月給30万。社会保険完備。ボーナス年2回。
その甘美な響きと、「カップルが本当に『なかよし』か確認するだけ」という、まったく意味のわからない仕事内容。
天秤にかけるまでもなく、怪しさしかない。普通の人間なら、全力で逃げ出す場面だ。
でも、今の私は「普通」じゃない。
30社から不採用通知を叩きつけられ、自己肯定感は地の底を這いずり回り、未来への希望なんて一ミリも見いだせない、社会の落ちこぼれ。
そんな私に、選ぶ権利なんてあるのだろうか。
――あんた、光るわよ。
――あんたには、物事の本質を見抜く目がある。
ママの言葉が、脳内で反響する。
お世辞だとしても、リップサービスだとしても、嬉しかった。
誰かに「才能がある」なんて言われたのは、生まれて初めてだったから。
面接で人格まで否定され続けた私の心に、その言葉は、まるで乾いたスポンジが水を吸うように、じんわりと染み渡っていった。
もう、どうにでもなれ。
そんな半ば自暴自棄な気持ちで、私はおそるおそる自分の手を伸ばした。
私の震える指先がママの指に触れた、その瞬間。
がしり、と力強く、それでいてどこか優しい感触で私の手は包み込まれた。
「……ふふっいいわ。その目、気に入った」
ママは満足そうに微笑むと私の手を引いて立ち上がらせた。
その力は抗うことなど到底できそうにないほど強かった。
こうして私の社会人生活は一枚の雇用契約書へのサインから始まった。
契約書には、事業内容として『恋愛関係における相互理解促進コンサルティング業務』と、小難しく書かれていた。なるほど、「なかよし確認業務」とは、そういうことにしておくらしい。
住所も氏名も、震える手で書き込んだ。もう、後戻りはできない。
「さて、と。じゃあ早速職場を案内してあげるわね。ついてらっしゃい、新入り」
ママはそう言うと私が寝ていた部屋とは別の、もう一つのドアへと向かった。
てっきり一度外に出て別の建物に移動するのかと思っていた私は少し意外に思った。
「え、職場って、ここにあるんですか?」
「そうよ。ここは客室であると同時に私たちのオフィスでもあるの。合理的にいきましょ、合理的に」
ママがカードキーをかざすと重厚なドアが静かに開いた。
ドアの向こうに広がっていたのは、私が想像していたようなきらびやかな空間ではなかった。
そこは無機質な白壁に囲まれた、だだっ広い空間だった。
壁の一面には、ずらりと並んだ監視モニター。その数は、ざっと数えても30以上はあるだろう。いくつかのモニターにはそれぞれデザインの違う、誰もいない豪華な部屋が映し出されている。まるでテレビ局の副調整室か、警備会社のコントロールセンターのようだ。
フロアの中央には大きな会議テーブルと、数台のパソコンが置かれている。隅には業務用の巨大な冷蔵庫やコーヒーメーカー、ウォーターサーバーなどが設置され、さながらIT企業のオフィスのようだった。
「ここが私たちの心臓部。コントロールームよ」
ママは両手を広げて得意げに言った。
「ここで、各『ルーム』の様子をモニタリングし、お客様の『なかよし』が確認できた時点で、ロックを解除する。それが私たちの基本的な業務フローよ」
「ろ、ロック……?」
「そうよ。お客様が入室されたらドアは内側からも外側からも開かなくなるの。指定された『行為』が完了するまではね」
さらり、とんでもないことを言う。
それって、つまり、監禁じゃないか。
私の顔に浮かんだ疑問を読み取ったのか、ママは「あら、人聞きの悪い」と肩をすくめた。
「もちろん、お客様には事前に同意を得ているわ。それに緊急用の脱出ボタンも設置してあるし、体調不良などの場合は即座にスタッフが駆けつける。安全性には万全を期しているのよ。私たちはあくまで『愛の確認』のお手伝いをするだけ」
その時だった。
「おはようございまーす!」
甲高い、アニメ声のような声がコントロールームに響き渡った。
入り口に立っていたのは、ふわふわの巻き髪にパッチリとした大きな瞳、ピンク色のリップが艶めかしい、絵に描いたような「あざと系女子」だった。流行りのオーバーサイズのニットに、ミニスカートから伸びるスラリとした脚が眩しい。
「あら、結。早いのね」
「今日はママこそ、お早いですねー。って、あれ?」
彼女――結と呼ばれた女性は、私の存在に気がつくと小首をかしげた。
そして次の瞬間、ぱあっと花が咲くような笑顔を私に向けた。
「もしかして新人さんですか? わーい、待ってました! 私、宮野結って言います! よろしくお願いしまーす!」
そう言って、彼女はぶんぶんと私の手を握ってきた。
その人懐っこい笑顔と、柔らかい手の感触に、私は少しだけ緊張がほぐれるのを感じた。
「あ、あの、近藤眠夢です。よろしくお願いします」
「眠夢ちゃん、ですね! カワイイ名前ー! 私のことは、気軽に『ゆい』って呼んでくださいねっ!」
宮野さんは、きゃっきゃと声を上げて喜んでいる。
これが、私の同期……。
あまりにもタイプが違いすぎて、めまいがしそうだ。私のような根暗な人間とうまくやっていけるのだろうか。
「結、この子が今日から入る近藤眠夢。あんたの同期よ。色々教えてあげなさい」
「はーい、お任せください、ママ! 私、後輩の面倒見るの得意なんですー」
宮野さんはウインクまでして見せた。
その完璧な愛想の良さに、私は逆に少しだけ壁を感じてしまう。こういうタイプの人間は、笑顔の裏で何を考えているかわからない。
「……おはようございます」
不意に背後から低い声がした。
振り返るとそこに立っていたのは一人の男だった。
黒い作業着に身を包み、短く刈り込んだ髪。鋭い三白眼で、口は真一文字に結ばれている。年の頃は、20代後半だろうか。その全身から近寄りがたいオーラが放たれていた。
彼は私たちに軽く会釈すると、そのまま無言で部屋の隅にあるロッカーへと向かい、慣れた手つきで掃除用具を取り出し始めた。
「……あの方は?」
私が小声で尋ねると、宮野さんが耳元で囁いた。
「蛇田さん。蛇田蛇蔵さんっていう、すごい名前の人。お掃除と、あと設備のメンテナンス担当だよ。口数は少ないけど、仕事はめちゃくちゃできるから尊敬してるんだー」
蛇田蛇蔵。
一度聞いたら忘れられない、インパクトのある名前だ。
彼は取り出したモップや雑巾をまるで神聖な儀式でも行うかのように、一つ一つ丁寧に点検している。その動きには一切の無駄がない。
「蛇田さんは元警察官なんだって。だからああいうのが体に染み付いてるのかもね」
「え、元警察官!?」
驚いて蛇田さんの方をまじまじと見てしまう。
確かにその引き締まった体つきや、隙のない佇まいは一般人とは思えない迫力があった。
なぜ、元警察官がこんな場所で掃除を……?
疑問が顔に出ていたのか、宮野さんは「色々、あったみたいだよ」と意味深に微笑んだ。
「さ、眠夢ちゃんも、こっち来て! まずはこの職場のイロハを教えてあげる!」
宮野さんに腕を引かれ、私はコントロールームの中央にある会議テーブルへと促された。
テーブルの上には数冊の分厚いファイルが置かれていた。
「これが私たちのバイブル『業務マニュアル』だよ!」
宮野さんがデデーンと効果音を口にしながら指差したファイルの表紙にはそう書かれている。
ペラペラとページをめくってみて、私はさらに驚愕した。
そこには、およそ「なかよし」という言葉からは想像もつかないような、無機質で、ロジカルな情報が、びっしりと書き連ねられていたのだ。
『ルーム入室前チェックリスト』
『対象者間における事前同意書の確認手順』
『「なかよし行為」の定義と分類(レベル1~5)』
『モニタリング時における観察ポイント(非言語的コミュニケーションの分析)』
『緊急時対応プロトコル(コードブルー、コードレッド)』
『業務完了報告書のフォーマット』
「……な、なんですか、これ」
「すごいでしょ? ママが作ったんだよ。このマニュアルさえ頭に入れておけば大抵のトラブルは回避できるの」
宮野さんは誇らしげに胸を張る。
私はただただ圧倒されていた。
もっと、いかがわしくて、非合法的な、アングラな職場だと思っていた。
しかし目の前にあるのは徹底的にシステム化され、リスク管理されたプロフェッショナルな業務マニュアルだった。
「特に大事なのが、衛生管理ね」
と、会話に割って入ってきたのは、いつの間にか背後に立っていたママだった。
「お客様が使うルームは、一組ごとに専門の業者レベルで清掃・消毒を行う。シーツやタオルはもちろん全交換。空気清浄機は24時間フル稼働。蛇田、昨日のルーム7号室の紫外線殺菌灯の照射ログ、ちゃんと記録してあるでしょうね?」
「……はい。規定通り、90分間。記録、提出済みです」
蛇田さんが低い声で簡潔に答える。
その手には塵一つない真っ白な雑巾が握られていた。
「私たちはお客様に最高の環境を提供する義務がある。それは物理的な清潔さも、精神的な安全性も両方よ。中途半端な仕事は絶対に許さない。いいわね、新入り」
「……は、はい!」
ママの鋭い視線に、私は思わず背筋を伸ばした。
なんだ、この職場は。
やっていることは、限りなくブラックに近いグレーゾーンのはずなのに、その業務に対する姿勢は、私が面接を受けてきたどのホワイト企業よりも、真摯で、真面目だった。
そのギャップに、私の頭はますます混乱していく。
「それから、もう一つ」
ママは、壁にずらりと並んだモニターの一つを指差した。
そこには、黒い画面に『待機中』という文字だけが表示されている。
「私たちの仕事には、日勤と夜勤がある。日勤は、私たちのように、お客様からの依頼を受けて、ルームを提供するのがメイン。でも、夜勤は少し毛色が違う」
「夜勤……ですか?」
「ええ。夜勤の連中は、自主的なお客様じゃない……別の顧客から指定された『ターゲット』を、この『なかよしルーム』へご招待するのが仕事よ」
ご招待、という言葉の響きがやけに不穏だった。
宮野さんが少しだけ顔を曇らせる。
「夜勤の人たちって、ちょっと怖いですよね……。いつも黒いスーツで全然喋らないし……」
「プロフェッショナルなのよ、彼らも。口は堅いし仕事は確実。おかげでうちは大口のクライアントを掴んでるんだから、文句は言えないわ」
ママは、こともなげに言う。
別の顧客。指定されたターゲット。確保。
断片的な情報が、私の頭の中で、危険なパズルのピースを組み立てていく。
やはりこの職場はただの「コンサルティング会社」ではない。
その裏にはもっと深く暗い何かが横たわっている。
私がその闇の一端に触れて、ゴクリと息を飲んだ、その時だった。
ピーンポーン。
コントロールームに軽快なチャイムの音が鳴り響いた。
「あら、お客様がいらしたわね」
ママがモニターの一つに視線を移す。
そこには豪華なエントランスホールのような場所に立つ、一組の男女が映し出されていた。男の方は少し緊張した面持ちでそわそわしている。女の方は少し不機嫌そうに腕を組んでいた。
「今日のクライアントは、日勤の案件ね。宮野、あんたが担当しなさい。新入りにもしっかり見せてあげるのよ。私たちの『お仕事』がどういうものなのかをね」
「はい、ママ! お任せください!」
宮野さんは、ぱっと表情を明るくすると私に向かってにっこりと微笑んだ。
「じゃあ眠夢ちゃん、行こっか! 私たちの初仕事だよ!」
その笑顔はどこまでも明るくて屈託がなくて。
でもその瞳の奥に、一瞬だけ鋭い光が宿ったのを私は見逃さなかった。
それは獲物を見つけた狩人のような、あるいは難解なパズルを前にした探偵のような、冷徹で知的な光だった。
この人、宮野結はただの「あざと系女子」じゃない。
私と同じか、それ以上に物事の本質を見抜く目を持っているのかもしれない。
私は期待とそれからほんの少しの恐怖を感じながら、宮野さんの後に続いた。
これから私は一体何を目撃することになるのだろう。
「なかよしルーム」での、私の奇妙な社会人生活が、今、まさに始まろうとしていた。