コンドームちゃんにも春がくる?
私の現実離れした提案『何もない部屋』は、インテリアデザイナー橘蒼太さんの力強い賛同を得て、『余白の庭』プロジェクトとして正式に始動した。
それは私にとって初めてゼロから何かを「創造する」仕事だった。今までは与えられた庭(案件)を見守り手入れするだけの庭師だったが、今度は庭そのものをデザインするのだ。その責任の重さと未知への期待に私の心は打ち震えていた。
プロジェクトが始動してからの毎日は驚きと発見の連続だった。特に橘さんとの打ち合わせは私にとって刺激的な学びの時間となっていた。
「近藤さんの言う『何もない』は、ただの空っぽではないんですね」
ある日の午後、コントロールームの片隅で橘さんは設計図を広げながら私に問いかけた。
「それはむしろ無限の可能性を秘めた『豊かさ』としての何もない、と解釈してもいいですか?」
「はい」
私はこくりと頷いた。私の拙い観念的な言葉を彼は的確にそして詩的に読み解いてくれる。そのことがたまらなく嬉しかった。
「だとしたら素材選びが重要になりますね」
彼は壁紙や床材のサンプルをテーブルに並べた。
「例えばこの壁紙は一見ただの白ですが、和紙を漉き込んであるので光の当たり方で表情が微妙に変わるんです。時間や季節の移ろいを壁が教えてくれる。何もない空間だからこそそういう繊細な変化が人の五感を研ぎ澄ませるはずです」
彼は楽しそうに語る。その眼鏡の奥の瞳はまるで新しいおもちゃを見つけた子供のようにキラキラ輝いていた。彼の手にかかれば私の漠然としたイメージが次々と美しい形を与えられていく。それはまるで魔法のようだった。
そんな私たちの打ち合わせを同僚たちもそれぞれのやり方で見守ってくれていた。
「ねえ眠夢ちゃん、いくら何もないって言っても、やっぱりちょっとくらい可愛いクッションとか置いた方がよくない? ほら、こういうハートのやつとか!」
宮野さんがスマホで見つけてきたファンシーなインテリアグッズの画像を私に見せてくる。
「ありがとう宮野さん。でも今回はそういうのは全部なしでいこうと思うんだ」
私がやんわりと断ると彼女は「えー、つまんないのー」と唇を尖らせながらも、それ以上口を挟むことはなかった。彼女はきっと私のやり方を尊重してくれようとしているのだ。その不器用な友情がありがたかった。
「……床暖房」
不意に背後から低い声がした。蛇田さんだった。彼は私たちの打ち合わせの輪に加わるでもなく、少し離れた場所でモップをかけながらぽつりと言った。
「……この床材は熱伝導率が高い。床暖房を設置すれば冬でも裸足で過ごせる。足元からの温かさは人の心を弛緩させる効果がある」
「……! それ、いいですね!」
橘さんがぱっと顔を上げた。
「蛇田さんありがとうございます! ぜひ検討させてください!」
蛇田さんは「……フン」と鼻を鳴らすとまた黙々と自分の仕事に戻っていった。彼の言葉数は少ないが、その一言一言には彼のプロフェッショナルとしての経験と知識が凝縮されている。彼もまた彼のやり方でこのプロジェクトに参加してくれているのだ。
ママはそんな私たちの様子をただ黙って見ているだけだった。しかし時々私が判断に迷っていると、まるで全てを見透かしたように的確な助言をくれることがあった。
「眠夢。あんたが作ろうとしているのはただの部屋じゃないわ。一種の『装置』よ。その装置が正常に作動するためには何が必要で何が不要か。その一点だけで物事を判断なさい。あんたの好みや感傷は一切いらないわ」
その言葉は厳しくそしてどこまでも本質的だった。私はそのたびに自分の思考のブレを修正しプロジェクトの原点に立ち返ることができた。
新しいルームを作るという共同作業は、私たち四人のバラバラだった個性を一つのチームとして緩やかに結びつけていった。それは私にとって初めての経験だった。誰かと同じ目標に向かって知恵を出し合い、時にはぶつかり、そして一つのものを作り上げていく喜び。就職活動で私がうまく語れなかった「チームで何かを成し遂げた経験」を、私は今まさに体験しているのだ。
しかしその充実感と同時に、私の心の中には新たな感情の芽が生まれ始めていた。それは橘さんと二人きりで打ち合わせを重ねるうちに育っていった小さな小さな蕾だった。
「近藤さんって面白いですね」
ある日の夜、残業で二人きりになったコントロールームで橘さんがふと言った。
「普通デザインの打ち合わせってもっと具体的な要望が出てくるものなんです。『こんな家具を置きたい』とか『壁の色は何色に』とか。でも近藤さんはいつもそこから感じられる『気持ち』の話をしてくれる」
「……え?」
「『安心する白』とか『優しい光』とか。そういう目に見えない感覚を言葉にしてくれるから僕もすごくイメージが湧きやすいんです。……なんだか僕の心の中をデザインされているみたいで不思議な気分ですよ」
彼はそう言って悪戯っぽく笑った。その飾らない笑顔に私の心臓がまた大きく跳ねる。彼の声や仕草、考え方の全てが私の心の琴線に優しく触れる。
私は今まで恋愛というものにほとんど興味がなかった。「コンドームちゃん」というあだ名のトラウマと自己肯定感の低さが、私と他人の間に分厚い壁を作っていた。でも橘さんといるとその壁が少しずつ溶けていくような気がした。彼は私の上辺のスペックではなく、私の内側にある不器用で拙い言葉に耳を傾けてくれる。それを価値のあるものだと言ってくれる。そんな人は初めてだった。
この胸の高鳴りは何だろう。これはただの仕事仲間としての尊敬だろうか。それとも……。
私は生まれて初めて他人の庭ではなく自分自身の心の庭に、小さな恋の種が蒔かれたことに気づき始めていた。しかしその種にどうやって水をやればいいのか、どうすれば花を咲かせられるのか、その方法はまだまったくわからなかった。
私は他人の愛の形を見守るプロ。でも自分自身の愛についてはまるで素人の一年生。そのあまりにも大きなギャップに私は一人戸惑うことしかできなかった。




