やられたわね
『アフターケア部門』の設立。
そのあまりにも壮大で無謀な目標をママから与えられて以来、私の日常は静かに、しかし確実に変わり始めていた。
日中の業務をこなしながら、休憩時間や帰宅後の時間を使って私は相川莉奈の影を追い続けていた。彼女が所属していたという小さなモデル事務所に身分を偽って電話をかけてみたが、「すでに退所しております」と事務的な声で冷たくあしらわれるだけ。彼女がかつて出演していたという小劇団の連絡先も探してみたが、すでに解散してしまったのか繋がることはなかった。
手がかりは何もない。
まるで彼女という存在そのものが、あの日の屈辱と共にこの世界からふっと消え去ってしまったかのようだった。
焦りと無力感が、じわじわと私の心を蝕んでいく。
ママに啖呵を切った時のあの勢いは、どこへ行ってしまったのだろう。
やはり、私には荷が勝ちすぎたのだろうか。
「眠夢ちゃん、根を詰めすぎだよ。もっと肩の力、抜かなきゃ」
コントロールームでパソコンの画面に食い入るように莉奈の情報を検索している私を見て、宮野さんが心配そうに声をかけてくる。
「ごめん、宮野さん。でも……」
「わかるよ、眠夢ちゃんが本気だってこと。でもね、一人で全部抱え込んじゃダメだよ。私たち、同期なんだから。ね?」
彼女はそう言うと、私のデスクにそっと温かいココアを置いてくれた。
その優しさが、今は少しだけ眩しすぎた。
私は彼女のようにはなれない。
仕事と感情を器用に切り分けて、常に完璧な笑顔でいられるほど強くはないのだ。
そんな停滞した空気が職場に漂い始めた、ある日のことだった。
その日、宮野さんは朝からどこかそわそわと落ち着きがなかった。
いつもは完璧にセットされている巻き髪が、ほんの少しだけほつれている。
彼女は何度もスマホの画面を確認しては、深呼吸を繰り返していた。
「どうしたの? 宮野さん。何かあった?」
私が尋ねると、彼女はぱっと顔を輝かせた。その表情は緊張と、そして大きな期待でキラキラと輝いている。
「聞いてよ、眠夢ちゃん! 私、ついにやったかもしれない!」
「え、何を?」
「大物を釣り上げたのよ!」
宮野さんが興奮気味に私に見せてきたのは、彼女のスマホの画面だった。
そこに表示されていたのは、一組の男女のツーショット写真。
男性は日に焼けた肌に爽やかな笑顔が眩しい、モデルのようなイケメン。
女性は大きな瞳にあどけなさを残した、アイドル系の美女。
二人は南国のビーチのような場所で、お揃いのサングラスをかけ仲睦まじげに寄り添っている。
「この二人、知らない? 今SNSで超人気のインフルエンサーカップル、『KENTO』と『ERIKA』だよ!」
「……インフルエンサー?」
流行に疎い私は首をかしげる。
「そう! 二人のライフスタイルは若者たちの憧れの的なの! ファッション、グルメ、旅行……二人が紹介するものは何でもすぐに大人気になる。フォロワー数は二人合わせて100万人超えよ!」
宮野さんはまるで自分のことのように胸を張る。
どうやら彼女が営業をかけて、この超人気カップルを新規クライアントとして獲得したらしい。
「でも、そんな誰もが羨むようなカップルがどうしてうちに……?」
「それが今回のミソなのよ」
宮野さんは声を潜め、悪戯っぽく片目をつぶった。
「来月、二人は交際三周年を迎えるの。その記念に二人の『愛の軌跡』をまとめたフォトブックを出版するんだって。その目玉企画として、『なかよしルーム』での感動の再プロポーズの瞬間を独占密着させろ、っていうのが先方からの依頼」
「……再プロポーズ」
「そう。もちろんその様子は撮影して、後日彼らのチャンネルで配信する。うまくいけばうちの宣伝効果も計り知れないわ。まさにウィンウィンよ!」
宮野さんの目は野心と興奮で爛々と輝いていた。
彼女のこういう仕事に対する貪欲なまでのハングリー精神。
それは私が決して持ち得ないものだった。
しかし、私の心には一抹の不安がよぎっていた。
宣伝のため。配信のため。
それはあまりにもビジネスライクな動機ではないだろうか。
そこに果たして本物の「愛」は存在するのだろうか。
高槻と莉奈の、あの空っぽの「やらせ」の記憶が私の脳裏に蘇る。
「……大丈夫なんでしょうか」
私がぽつりと呟くと、宮野さんはきょとんとした顔をした。
「何が?」
「その二人、本当に愛し合っているんでしょうか。ただのビジネスパートナーとかじゃなくて……」
私の懸念に、宮野さんはあっけらかんと笑い飛ばした。
「もー、眠夢ちゃんは心配性だなあ。大丈夫だって! 私、ちゃんと事前のヒアリングで二人の馴れ初めから全部聞いてるもん。すっごくラブラブだったよ? 感動してちょっと泣いちゃったくらいなんだから」
そう言って、彼女は自分の胸をぽんと叩いた。
その一点の曇りもない、自信に満ちた笑顔。
それ以上、私は何も言うことができなかった。
私のこの嫌な予感は、ただの取り越し苦労なのかもしれない。
最近、少し疑り深くなりすぎていたのかもしれない。
そして運命の当日。
コントロールームは朝から、普段とは違うピリピリとした緊張感に包まれていた。
それもそのはず。
今日のモニタリングにはママも同席するというのだ。
「まあ、あんたたちのお手並み拝見、ってとこかしらね」
黒いベルベットの豪奢なドレスに身を包んだママは、そう言って不敵に笑った。
やがて、KENTOとERIKAがマネージャーらしき人物を伴って来店した。
実物は写真で見るよりもさらに華やかで、圧倒的なオーラを放っていた。
まるで彼らの周りだけスポットライトが当たっているかのようだ。
「どーもー! よろしくお願いしまーす!」
KENTOはテレビで見るタレントのように、人懐っこい笑顔を私たちに向けた。
「えー、マジヤバい! ここ超キレイじゃん!」
ERIKAはスマホを取り出すと、エントランスのシャンデリアをパシャパシャと撮影し始めた。その一つ一つの仕草が、計算され尽くした「可愛い」の型にぴったりとはまっている。
宮野さんが完璧な笑顔と淀みない口調で、同意書の説明を進めていく。
二人はそれをろくに読みもせず、慣れた様子でサインをした。
その全てがまるでテレビ番組の収録のように、スムーズに滞りなく進んでいく。
違和感。
私の心の警報がまたチカチカと点滅を始めた。
このスムーズさはおかしい。あまりにも出来すぎている。
二人がルームに入室し、モニタリングが開始された。
部屋は二人のイメージに合わせて特別にコーディネートされた、白を基調とした明るく開放的な空間だ。
「わー、すごい! KENTO、見て見て! 天蓋付きのベッドだよ!」
「マジじゃん! 俺たちの愛の巣にピッタリだな!」
二人はまるで台本でもあるかのように、完璧なリアクションを取り、完璧な会話を繰り広げていく。
心拍数のグラフも安定している。安定しすぎている。
まるでこれから人生を左右するかもしれないプロポーズに臨む人間のデータとは思えなかった。
「……どう思う? 眠夢ちゃん」
隣の宮野さんが自信満々に私に尋ねてきた。
「完璧なカップルでしょ?」
「……はい」
私は曖昧に頷くことしかできなかった。
おかしい。何かがおかしい。
でも、その違和感の正体が掴めない。
高槻と莉奈の時のような明確な「嘘」の匂いはしない。
二人は確かに仲が良さそうに見える。
でも、それはまるで長年連れ添った兄妹のような、あるいは熟練の漫才コンビのような阿吽の呼吸。
そこに「恋人」特有の熱や緊張感が、まったく感じられないのだ。
私が一人混乱していると、部屋の隅で黙々と機材の最終チェックをしていた蛇田さんが、ぼそりと呟いた。
その声はあまりにも小さく、私にしか聞こえなかった。
「……ノイズが乗っている」
「え?」
「3号室の音声ライン。微弱だが、周期的なパルスノイズが混入している」
ノイズ?
私は自分のヘッドフォンに耳を澄ませた。
確かに、二人の会話の向こう側で「ジッ……ジッ……」という、ごく微かな電子音が聞こえるような気がした。
これは、一体何……?
私が蛇田さんの方に視線を送ると、彼は私からすっと目を逸らし、また自分の仕事に戻ってしまった。
しかし、その一瞬だけ交わった視線が、私に何かを伝えようとしている。
私は確かにそう感じた。
その時だった。
モニターの中で、KENTOがERIKAの前に跪いた。
いよいよ再プロポーズが始まる。
宮野さんがごくりと喉を鳴らすのが隣で聞こえた。
ママも腕を組み、鋭い視線でモニターを見つめている。
「ERIKA」
KENTOが甘い声で彼女の名前を呼んだ。
「俺たち付き合って三年。色々あったけど、いつもお前の笑顔に救われてきた。これからもずっと俺の隣で笑っていてほしい」
完璧なセリフ。
完璧な表情。
ERIKAの瞳がみるみるうちに潤んでいく。その涙さえも計算されたかのように美しかった。
「俺と、もう一度結婚を前提に……」
KENTOがそう言いかけた、瞬間だった。
ブツンッ。
突如、コントロールームの全てのモニターが真っ暗になった。
同時に照明が落ち、部屋は非常灯の赤い光だけに包まれる。
「……なっ!?」
「何が起きたの!?」
宮野さんとママの動揺した声が響く。
コントロールームは一瞬にしてパニックに陥った。
停電?
いや、違う。
パソコンの電源は落ちていない。
これはただの停電じゃない。
もっと人為的な、何か。
私の脳裏に、先ほどの蛇田さんの言葉が蘇る。
『ノイズが、乗っている』
あの周期的なパルスノイズ。
あれは、もしかして……。
「……やられたわね」
暗闇の中で、ママが吐き捨てるように言った。
その声は怒りよりも、むしろどこか楽しんでいるかのように響いた。
「まんまと一杯食わされたわ。あのクソガキどもに」
職場は戦場。
裏切りと友情と人間不信。
私の甘い考えを粉々に打ち砕く、本当の「戦い」の火蓋が今、切って落とされた。




