イカリソウの送り狼
「もう、駄目みたいだ」
ぼんやりと満月が辺りを照らす中、青白く骸骨の様にやせこけてしまった頬を緩めながら彼は微笑んだ。その笑みは苦し気だったが、同時に安らかさを漂わせていて、私は抑えていた感情があふれ出し、涙が頬を伝うのを止められなかった。
「おまえ、そんなに泣き虫だったか」
彼は困ったように眉を下げながらも、からかうようにそう言って震える腕をゆっくりと動かして、かすかに動く指先で私の涙を拭った。
あんなに暖かかった彼の人差し指は、今や氷の様に冷たくて、水分を全て吸い取られたかのように、かさついている。
「そんなこと、今までしてくれなかったのに」
今の私の姿は、きっと涙でひどい顔をしているだろう。それでも、彼の目にはどのように映っているのだろうか。彼が良く褒めてくれていた、可愛くてきれいな私のままだろうか。
最期くらいはせめて綺麗な私を見て欲しかったが、こみ上げる悲しみが涙を止めることを許してくれなかった。
「そうだな、もっと早くこうしていればよかったな」
彼はそっと私の手に自分の手を重ねた。
冷たいその手は肉が落ちてしまっていたが、大きさは変わらず私の手を包み込む。少しかさついた大きな掌は、かつてと同じように私を安心させた。
彼は倒れてからというもの、食べることさえ難しくなってやせ細って、自分で立つことも出来ず寝たきりになって、ついには呼吸をすることさえも困難になってしまった。好物のおはぎが食べたいと言って悲し気に微笑む彼は、倒れる前からは想像できないほど本当に弱弱しかった。
しかし日に日に病に侵されて弱って変わり果てた彼でも、その根底にある優しさは変わらず、私が愛した彼そのままだった。いっそのこと、全てくれれば、こんなにつらい思いをしなくてよかったのに。
「なァ」
しゃがれた弱弱しい声だった。
きっと彼は言いたいことを言ったら、死んでしまうのだろう。だったら、聞きたくない。ずっと永遠に、その言葉は聞かなくていい。しかし、あまりに彼が真剣な覚悟を決めたような表情をするから、私は彼の思いを無駄にしたくなくて、自分の思いをぐっと我慢するしかなかった。
消えてしまいそうなその声を、聞き逃さない様にと彼の口元に片耳を近づけて、今までになく真剣に次の言葉を待つ。
満月のぼんやりとした優しい光が彼を照らして、鈴虫の声が遠くで鳴く中、世界が二人だけのものになったかのように、彼と私の間には静寂が広がっていた。
「待ってってくれ」
「もしお前が、独りで生まれ変わったとしても迎えに行くから。どんな姿になったとしても」
力なく、最後は本当に消えてしまいそうなぐらいに小さな声だったけど、彼は確かにそう言った。栗色の双眼を優し気に細めて、満足そうに微笑んだ彼は、そのまま静かに目を閉じた。
「ねぇ、ねぇ、おきて。ねぇ」
私の声に彼は目を開けることは無い。彼の私の手に添えられていた大きな手が、力なく重力に従って落ちて、重い腕はいくら彼をゆすっても動くことは無かった。
「しんじゃった」
胸の中で何かが崩れ落ちた気がした。彼の手の冷たい手がさらに冷たくなっていく感覚を感じながら、私の中からも温かさが消えていくようだった。
鈴虫の声が響く満月の下、凍えるような秋風が彼と私の間をとおりぬけた。
薫るきんもくせいの香りは、彼がくれた香水のものよりも甘くて、私は独りで大粒の涙を流し続けた。
「お客さん、終点ですよ」
バスの運転手のおっちゃんの声には、鈴虫の音が混じっていた。
パッと目が覚めた私は、ぼんやりとしながら辺りを見渡した。すると隣に座っていた美人なお姉さんはおろか、乗客は自分以外いなくなっていて、車窓の景色は人が行きかう街から虫が飛び交う田園風景に様変わりしていた。人一人いない田舎道には、車ではなくて白鷺が呑気に歩いている。
そのいつもの光景に、どうやら寝ている間に最寄りのバス停まで着いたらしいと、やっと状況を理解することができた。
しかし目が覚めたというのに、彼の冷たい手の感触がまだ残っているような錯覚に襲われた。現実なのに、どこか夢の続きを生きているような気がしてならない。
でもここは現実だ。
冷たい秋風は、人工的なバスの冷房だし、満月が浮かぶ夜空は青く、太陽が輝いている。彼のとの思い出の中ではない。いい加減現実に戻らなくては。
「おりよう」
私はなんとかふらつく足を動かして、やっとのことで精算機にたどり着いた。バスの通路は短い直線の道なのに、やけに道が長く、時間もかかった気がする。
「お客さん、大丈夫かい?泣いてるみたいだけど」
「え」
自分の時間間隔の可笑しさにおののきながら、のろのろと小銭を機械の中に入れていると、おっちゃんがそう言ってとんとんと自分の頬を指先で叩いた。慌てて自分の頬を触ると、たしかに涙で湿っている。さらにシャツにもいくつかシミが出来ていた。
いつのまにこんなに泣いたのだろう。
「随分、うなされてたみたいだったからね。嫌な夢でもみたのかい」
そうおっちゃんに言われて思い返してみるも、夢はすっかり記憶が消されたかのように忘れてしまっていた。先程まで覚えていたのに、今は一切の内容も思い出せない。
あまり泣かない私が、これほどまで涙を流すとはよほどの悪夢だったのだろから、思い出さなくて逆に良かったかもしれない。
「そうかもしれないです」
私は服の襟でごしごしと涙を拭って、なんてことないように愛想笑いをしながら、財布から小銭を取り出して、運賃を機会に入れた。
「うん、丁度だね」
「ありがとうございました」
「こちらこそご乗車ありがとね。あぁ、あんた気ぃ付けなよ。そんなにふらふらしてたら狐に化かされるか、送り狼にでも襲われそうだ」
「送り狼……」
「あァ、そうさ。お彼岸になると境目が揺らぐからね、そういう悪い物も来ちまうのさ。まぁ、狐狸から守ってくれるとも言われてるけどね。あんたは喰われるどころか気に入られて黄泉にでも連れていかれそうだ」
おっちゃんはそう言って気難しいそうな顔を明るく歪め、軽快に笑った。結構物騒なおっちゃんの物言いに口元が引きつりそうになる。妖怪とかは信じないたちだが、こうも言い切られてしまうとなんだかそんな気がしてくる。
「あ、ありがとうございました」
結構いびつな愛想笑いだったが、気前よく「また乗ってね」と笑ったおっちゃんは気づいていなかったようで、少し安心してそのまま外に足を踏み出した。
地面に足を付けた途端、けたたましい蝉の声が耳を襲う。鼓膜を貫通しそうな勢いのその声は、塞いでも耳に響いた。
そのけたたましさは、自分とおっちゃんしか誰もいないバスの中とは全く違っていて、そのギャップに風邪でも引きそうなぐらいだ。
「それにしても、あっつい」
外はまるでサウナの様な暑さだ。一歩外に踏み出した瞬間から迫る熱気に嫌な予感はしていたが、これほどまでとは思わなかった。
バスの冷房の冷たさが残るスマホをつけて、現在の気温を調べてみれば30度とかいう数字がでかでかと表示されて、私はこれ以上に無いぐらいに嫌な気持ちになった。
「蝉がうるさい。聞いてるだけで30度がさらに熱く感じるのおかしい」
暑さで心なしか視界がぼやけてきた気がする。
私を降ろしてすぐにバスを走らせていなくなってしまった運転手のおっちゃんの言う通り、このままふらふらして帰って本当に化け物が出てきたら、なにも抵抗できずに確実にお釈迦になりそうだ。
「それにしても、こんな暑さを歩いて帰らないとなんて」
肌を焦がす太陽は、もう暮方だというのに目を焼いてしまいそうなぐらいに輝いていて、夕空は憎らしいほどに雲は一つも見当たらない快晴だ。真昼でもないのにこんなに暑いなんて、暦の上では既に秋と事実が信じられない。
「そもそもこんなに秋って暑かったけ。もっと寒かった気がするんだけど」
風から薫るきんもくせいの匂いは秋を感じるのに、風は生暖かいからなんだか気持ち悪い。
このくらいの暑さになると、唯一外で自然に涼める風さえも敵になるのだ。最悪にもほどがある。せめて風は涼しくあって欲しかったものだ。
「それにしても、こんなに甘い匂いだったけ。……いや、そんなこと言ってる場合じゃない。本格的に日が暮れる」
こうしてぼんやりと突っ立ていた間にも辺りはどんどん暗くなってきていた。街頭なんて無い田舎道は本当に真っ暗なので、早く帰らなくては通いなれた道でも迷子になってしまう。私はすっかり見ていた夢のことなんて忘れて、駆け足で帰路についた。
「つかない」
最寄りのバス停から出発して、結構歩いたがまだ家には着かない。遠くのほうに家は見えるのだが、ずっと同じ道をぐるぐると周っているかのように一向にたどり着かない。
既に辺りはすっかり暗くなってしまっていて、この道に一本しかないオレンジ色の街頭の灯が良く暗闇によく映える。しかし、この光に照らされるのも四度目となると、暗闇を照らしてくれる安心感よりも、また戻ってきてしまったという気持ちのほうが強く落胆してしまう。
「またか。はぁ、どうやったら帰れるんだ」
一体いつからどうしてこうなったのかは分からない。気づいたときにはこうして同じ道を徘徊するようになっていたのだ。数えている限りが4回と言うだけで、もっと多くここを徘徊しているという可能性はある。
「もしや、本当に狐に化かされた……?」
いや、そんな非現実的なことはあり得ない。バスのおっちゃんの影響を受けすぎだろう。そんなこと考えている暇があったら、この状況から脱出する方法を考えようととりあえずスマホを取り出して電源をつける。だが、いつもは現在時間が表示されるはずのロック画面に、「電波が取得できません」という通知が無機質な文字で表示されていた。直ぐにインターネットの接続状況を確認すると、そこには無慈悲にも圏外という文字がでかでかと表示されていて、私は思わず天を仰いだ。
「嘘でしょ。電波通じないってなに」
どうしよう。
いや、本当にどうしよう。
いくら田舎とは言えど、電波ぐらいは通っている。しかしそれが通じないとなれば私は今一体、どこにいるのだろうか。
冷や汗が額をつたって、心臓がバクバクと動き始めた。
本当に、なんで今まで気づかなかったんだ。心なしか、肌寒さも感じてきて、半袖から覗く腕を見てみると、鳥肌が立っている。
「うぅ、鳥肌。じめじめしてる気がするし」
ふと空を見上げるといつの間にか灰色の分厚い雲が覆っていて、今にでも雨が降り出しそうだ。それに、先程はうざったくなるほど絶え間なく鳴いていた蝉の鳴き声もいつの間にか聞こえなくなっていて、この場所の不気味さにより一層の拍車をかけている。
「あのう、すみません」
湧き上がる恐怖心にすっかり体を縮こませた。どうにかして噴き出る冷や汗を止めようと額を必死に拭っていると突然、背後から男の様な女の様な、どちらにも似つかないどこか気味の悪さを感じる声が聞こえた。
「えぁ」
自分以外にこの場所に人がいたという事実に、驚きと少しの嬉しさを心の隅に感じながら後ろを振り返るとそこにいたのは、先程のバスのおっちゃんによく似た人だった。
しかしその姿は変わり果てていて、綺麗に整えられていたはずの上着はボロボロで白いブレザーには赤黒いシミがついていた。帽子からはみ出る白髪交じりの黒髪は肌を突き刺すような冷たい風に吹かれて、ちらちらと揺れている。
「お客さん、どうも先程ぶりです」
田舎特有の訛りとフレンドリーさを感じられる口調はおっちゃんそのものだが、まとわりつくようなその声がどうにも頭の中に響いて気持ち悪い。
「いやぁ、運賃をもらうのを忘れていましてね」
不気味なほど柔らかく微笑みながらじりじりとその人は迫ってくる。怖すぎて逃げ出してしまいたいが、私が走ろうと背後を向いたとき、そいつがどう動くかがわからなくて、中々逃げ出せない。
「だから、いただきますね」
その人はおっちゃんの声で、しかし感情のない平坦な声でそう言った。瞬間、体が吹き飛んでしまいそうな突風が吹いて、その人のボロボロの帽子が空に舞い上がる。
「ひぅ」
帽子がとれて明るみになったその顔は到底人だとはいえない風貌だった。
顔面は毛皮で覆われていて、口は狐のようにとんがっている。そこから覗く歯は刃物の様に鋭くて、それに噛まれてしまえばきっと致命傷を負うだろう。ギラギラと輝く茶色の瞳孔は獲物に狙いを定めるように細められていて、口から滴るよだれも相まってこの後の自分の運命が安易に想像できた。
「あァ、ばれてしまったか。だっただ早く頂きますね、あなたの魂」
ケタケタとそう狂ったように笑った狐の様な化け物は、枯れた枝のような毛皮で覆われた腕を人間とは思えないスピードで私のほうに伸ばしてくる。
「あ」
避けようと思ったその時には、鋭く黒光りする爪が目先に迫ってきていた。
これは避けられない。
そう直観した私は、恐怖も絶望も感じる暇なく迫る衝撃に反射的に目を閉じた。
背後から風が通り抜ける。
「あ、あがああ!」
鼓膜が破れてしまいそうなぐらいの絶叫が辺りに木霊して、私は咄嗟に耳を塞いで、恐る恐る目を開いた。
黒い獣が、顔のない化け物に襲い掛かっている。
歯をむき出しにしたその獣は修羅のように顔を歪め、怒り狂い、地響きのような低い唸り声をあげながら、果敢に自分よりも大きな化け物に飛び掛かっていく。
「うわ」
その争いは圧倒的で獣の鋭い牙が化け物の腹を貫き、赤い血潮が辺りに飛び散って地面を汚した。そして直ぐにばたりと大きな巨体がその地面に倒れて、獣がとどめを刺すように化け物の頭をかみ砕いた。
「ほぉあ」
足元には血まみれの無惨な狐の死体が地面に転がっていた。
「わん」
ここまで現場を猟奇的にした獣は、先程の阿修羅のような険相は何処へやら、栗色のどこか見覚えのある目をきゅるんと上目遣いにして、甘えるように私にすり寄ろうとしてくる。逃げようにも足がすくんで動けない。
「ひぅ」
「くぅん」
怯える私に悲しそうに耳を伏せて切ない声で鳴いた獣は、それ以上私に近づくことは無く、その場に座り込んだ。だが、そんなしおらしくされても私の恐怖心は増すばかりだ。だって私はこの獣が、獰猛に化け物に襲い掛かってズタボロにしていったのをこの目でしっかり見たのだ。
私は逃げるタイミングを伺いながら、暫くじっと獣と見つめあった。
しかし、体感で十分ほど経っても、獣は悲しそうに鳴くばかりでいつまで経っても襲ってくる様子はない。
そういえば、あまりの衝撃と現場の惨さに忘れてしまっていたが、この獣が化け物に襲われていた私を助けてくれたことを思い出した。あまりにも悲しそうに鳴く姿が可哀そうに見えてきたし、助けたお礼くらいはしたほうがいいと思って、私は少し警戒を解いて獣が一歩ずつ近づいてくるたびに、私は少しずつ距離を縮めた。
心の中ではまだ警戒していたが、その大きな栗色の目に見つめられると、自然と手が伸びてしまった。
「あ、ありがとう。助かったよ」
いくらか低い位置にある頭を恐る恐る撫でてやれば、獣はぱぁと表情を明るくし、はちきれんばかりにしっぽを振って、さらに私の太ももにすり寄ってきた。ハイイロオオカミに似た顔立ちをしている獣は、私の狼好きの心を酷く揺さぶって、とどめにコロンと腹を見せて転がって見せ、わんと甘えるように鳴いて私の心臓をときめきで打ち抜いた。
あざとい、こいつ自分の可愛さをわかってやっている。解っていなかったら、こんな人間特攻のような可愛い仕草ができるはずない。
「くそ、かわいい」
栗色の目には敵意なんて微塵もないが、まだ少し疑念が残る。しかし、その可愛さに勝てず、私は意を決して手を差し出した。
ゆっくり頭を撫でてやれば、獣は気持ちよさそうにすり寄ってきてしっぽをさらに振り回し、甘えたようななき声をあげるで、警戒心ははるか彼方にとんでいってしまった。
こんなに可愛いくて、私を受け入れてくれているのに警戒する方がばかばかしい。もしもこの後、獣の態度が急変して襲い掛かってきたとしても、この獣に食われるなら、それは本望だとも思えた。
犬や狼にしては大きな体を小さく縮めて、こちらの様子を伺いながら、すりすりと遠慮がちに甘える姿がとても可愛い。私は昔から、このような大きな体をもっている癖にそれを縮めて、おどおどしながら甘えるという仕草に一等弱い。それをやられてしまえば大抵のことは許してしまう傾向にあって、よくチョロいとからかわれていた。
「はぁー!かわいいよぉー!」
獣の少しごわごわとした毛からは、かすかにきんもくせいの香りがして、それは怒涛の展開に疲れた私の心を落ち着かせていく。
「ん?」
気持ちよさそうにとろける獣の栗色の目に一瞬、何かが閃いたように感じたが、すぐにそれは消え、再び甘えた仕草を見せるだけだった。気のせいだったのだろうか、まぁいろんなことが立て続けにあったし、疲れで可笑しくなっても仕方がない。
ほんとうに色々急展開すぎた。特にあの化け物とか、一体なんだったんだろう。できるなら、もう二度と会いたくない。
「ほぁ」
ぎゅっと獣を抱きしめれば、ほんのりとした暖かさが伝わってきて、それは眠気を誘った。思った以上に体力を持ってかれていたらしい。獣の温もりが毛布のように心地よく、疲れた体がどんどん重くなっていく。
そのうち頭がゆりかごのように揺れ、瞼はどんどん鉛の様に重たくなっていった。
しかし、幾ら田舎だとはいえ、道の従来で寝るのは理性ある人間としてどうなのか。
どうにかして物凄い睡魔に抗おうとしたものの抵抗虚しく獣を抱きしめたまま意識が遠のく中で、霧はますます濃くなり、視界が完全に閉ざされていった。遠くから、かすかな風の音が耳に届き、それが最後の記憶となった。
「今日は良い夜だ」
彼は美しい星月夜を見上げながら、頬を緩めた。確かに彼が言う通りに、今日は絵に描いたように美しい夜空だ。
しかし、いつも空なんて見るようなたちじゃない彼が一体どんな吹き回しだろうか。
この男は「空を見上げる暇があるんだったら俺は団子を食べる」というような、風情のかけらもない男だったはずなのに。
「お前がそういうのが好きだから、俺も空を見ているうちに好きになったんだよ」
彼は黒髪を秋風に吹かせて、からからと冗談めかして笑った。
手に団子櫛を持っている時点で嘘っぽいが、よく天体観測とか、絶景スポット巡りに付き合ってもらっていたから、魅力が伝わった可能性も少しはある。
まぁ、ほら話の確立のほうが高いのだが。
「なぁ、今度さ、お彼岸の時でも、おはぎを作ってくれないか。お前のやつが一番うまいんだよな」
やはり風情のかけらもない彼は、今も団子を食べているのに、おはぎに思いをはせていた。昼ごはんの時に晩御飯が何が良いか聞くと、「食べてる途中なんだから、食欲ない」とぶっきらぼうに言って、まともな意見も出さない癖に甘いものになると食欲旺盛だ。
「それはほら、別腹というやつだ」
適当な言い訳をして、ごまかすように着物の裾で口元を隠した姿は、悔しいことに様になっていて思わず顔をそむけた。
この男、無駄に品のある顔をしているから、こういう平安貴族っぽい仕草や着物が良く似合う。本当に悔しいことに、私は彼の着物姿にめっぽう弱くて、着物を着ている彼がどんなことをしても、大抵は許してしまう傾向にある。
現在も買い物のメモ帳に、おはぎの材料をメモしてしまっている。
「ちょろいな、相変わらず。お前は本当に俺の着物姿が好きだな。死後はこの姿で三途の川でも案内してやろうか」
「うるさい。狼のほうが好きだし」
渋々メモ帳に材料を書いていく私に、茶化すようにそう言った彼の耳を引っ張った。
「ほぉ、だったら送り狼でも成ってお前を迎えに行くよ」
「送り狼は人を喰う妖怪でしょ」
「俺がお前を喰うなんて真似、するはずないだろ。黄泉にでも連れて行ってずっと一緒にいるさ」
おそらく冗談だと思うが、無駄に肝が据わっていて、どんな相手にも屈することなく、逆に追い詰めることが得意とする男、やりかねない。既に私もいつの間にか外堀を埋められて逃げられなくなるという経験をしている。
だから、本当に送り狼にでもなって、突然襲ってきそうで普通に怖い。
どうか、あの世くらいではおとなしくしていて欲しい。
「だってお前、直ぐに方向音痴発動してどこかに行くし」
「そんなことない」
「いーや、自覚しろ。お前の方向音痴は、次の生でも始めてそうなくらいには酷いからな」
冗談だと言いたかったが、否定できなかった。
事実、私は彼の道案内が無ければ、家に帰るのだって(ほんとうにたまに!)迷うことがある。知らない土地なんて行ったものなら三秒で迷子になる。
地図の知識はあるがどうにも活用できないし、案内してもらっても案内してもらった先で迷子になってしまう。
今まで方向音痴関連で多大なる迷惑を彼にかけてきた自覚があるので、なおさら反論できなかった。
「はは、ひどい顔。まるで青汁でも飲んだみたいだ」
眉間をつつく彼の指を払った。彼は眉を下げて大げさに仕方ないというように肩をすくめてみせて、その絶妙にムカつく表情と動きが気に食わなかった。
よし、脇腹でもつついてやろうか。
すっと人差し指を私が身構えると、その人差し指を彼が握った。
「ちっ」
「まぁ、安心しておけ。もしお前が迷って生まれ変わってもその時は、本当に狼にでもなって迎えに行くから」
攻撃が通らずにぶすくれる私を鼻で笑った彼は、いつものように冗談めかしてそう言うので、私は冷静に考えて、至極まともな答えを返してやることにした。冗談を言ってくるときの彼の対処法はそれが一番面倒くさくない。
「人間から狼は無理だよ」
「いや、俺はきっと狼になる」
「……ついに可笑しくなった?」
「いままでになく正気だ。ついでにお前も狼になった俺の番になる」
突然何を言い出すんだと、顔をこれでもかと顰めて見せた私に「まぁ死後を楽しみにしてろ」と彼は満足そうに鼻を鳴らした。
思い出が切り替わる。
秋分の日。
「そう言えばお前、泳げないんだって」
彼は私の作ったおはぎをほおむりながら、栗色の目を愉快そうに細めた。口の周りにはあんこがべったりついていて、相変わらず食べるのが下手くそだ。
口を拭ってやると彼はぱぁっと笑って、それはまるで犬のようだった。心なしか、はちきれんばかりに振っているしっぽがぼんやりと見えるような気がする。
「今度、近くの川で教えてやるよ。なんかあったときに困るだろ」
ごほんと咳ばらいをして仕切り直し、犬の幻覚を捨ててにっこり笑顔でそう言った彼に、教えてもらうほど泳げないわけじゃないと言う。
すると、彼は目をまん丸にして驚いたように私を凝視した。
こいつ、絶対なにか企んでただろう。
企みを放すなら今だぞという意味を込めて、言いたいことがあるならはっきり言ってくれといつもよりも強い念を込めて言った。
睨む私にたじろいた彼は、数拍の間の後、覚悟を決めたように神妙な面持ちで小さく息を吐いた。
「……口実だ。今度一緒に川までデートしに行こう。この前あげた、きんもくせいの香水でもお揃いでつけてさ」
視線をうろうろさせて恥ずかし気にする彼は、かわいい以外のなにものでもない。
いつまでたってもこうして素直に気持ちを伝えることが苦手で、いざ正直につたえると若い乙女の様に頬を染めて180越えの巨体を小さく丸めるのだ。
その時の彼は、このようにとてもかわいいので、今の様に時々察しの悪いふりをして、素直に言うように意地悪をしてしまう。でもしょうがないと思う、可愛いから。
今だって、ちらちらとこちらの様子を伺っている。ちょっと返答に時間をかけすぎたせいで不安そうにし始めてきたので、私は「だったらそう言えばよかった、幾らでも一緒に行くのに」なんて決まりきった答えを言って笑った。
「ほぉ、どこにでもついて行く、ねェ。じゃァ約束だからな。例え俺がどんな姿に成ってもこの香りで俺だと気づいて、しっかり付いてきてくれよ」
いたずらっ子みたいにそう言った彼と律儀に小指を絡めて子供みたいに指切りをした後、彼と笑いあって、いつ行こうかと話を振ろうとした瞬間。
彼が急に心臓を抑えて、倒れた。
目まぐるしく場面が転換する。
「もう、駄目みたいだ」
ぼんやりと満月が辺りを照らす中、青白く骸骨の様にやせこけてしまった頬を緩めながら彼は微笑んだ。その笑みは苦し気だったが、同時に安らかさを漂わせていて、私は抑えていた感情があふれ出し、涙が頬を伝うのを止められなかった。
「おまえ、そんなに泣き虫だったか」
彼は困ったように眉を下げながらも、からかうようにそう言って震える腕をゆっくりと動かして、かすかに動く指先で私の涙を拭った。
「そんなこと、今までしてくれなかったのに」
今の私の姿は、きっと涙でひどい顔をしているだろう。それでも、彼の目にはどのように映っているのだろうか。彼が良く褒めてくれていた、可愛くてきれいな私のままだろうか。
「そうだな、もっと早くこうしていればよかったな」
彼はそっと私の手に自分の手を重ねた。
冷たいその手は肉が落ちてしまっていたが、大きさは変わらず私の手を包み込む。少しかさついた大きな掌は、かつてと同じように私を安心させた。
日に日に病に侵されて弱って変わり果てた彼でも、その根底にある優しさは変わらず、私が愛した彼そのままなのだ。いっそのこと、全てくれれば、こんなにつらい思いをしなくてよかったのに。
「なァ」
しゃがれた弱弱しい声だった。
きっと彼は言いたいことを言ったら、死んでしまうのだろう。だったら、聞きたくない。ずっと永遠に、その言葉は聞かなくていい。しかし、あまりに彼が真剣な覚悟を決めたような表情をするから、私は彼の思いを無駄にしたくなくて、自分の思いをぐっと我慢するしかなかった。
消えてしまいそうなその声を、聞き逃さない様にと彼の口元に片耳を近づけて、今までになく真剣に次の言葉を待つ。
「待ってってくれ」
「もしお前が、独りで生まれ変わったとしてもどんな姿になったって迎えに行くから。イカリソウの花を持ってさ。だから満月の下でまた会おう」
力なく、最後は本当に消えてしまいそうなぐらいに小さな声だったけど、彼は確かにそう言った。栗色の双眼を優し気に細めて、満足そうに微笑んだ彼は、そのまま静かに目を閉じた。
「ねぇ、ねぇ、おきて。ねぇ」
私の声に彼は目を開けることは無い。彼の私の手に添えられていた大きな手が、力なく重力に従って落ちて、重い腕はいくら彼をゆすっても動くことは無かった。
「しんじゃった」
胸の中で何かが崩れ落ちた気がした。彼の手の冷たい手がさらに冷たくなっていく感覚を感じながら、私の中からも温かさが消えていくようだった。
ほんとうに、しんでしまったのだ。
鈴虫の声が響く満月の下、凍えるような秋風が彼と私の間をとおりぬけた。
薫るきんもくせいの香りは、彼がくれた香水のものよりも甘くて、私は独りで大粒の涙を流し続けた。
ふと、目が覚めた。直ぐに視界にとびこんできた夜空には彼が死んだときと同じ、満月が浮かんでいた。そのせいもあってか、現実世界にいるのにまるでまだ夢の中にいるようで、頭の中には聞こえるはずもない鈴虫の鳴き声が頭の中で鳴り響いている。
それはどうしても死に際の彼のことを思いださせた。あの優しい笑顔、そして最後に彼が残した約束が、胸の奥に痛みが広がり、再び蘇ってくる。消えていった命の重みが、ついさっきの出来事のように思えた。
「あいたい……」
思わず、言葉が漏れた。彼にもう一度会いたい。あの笑顔を、あの声を、どうしても忘れられない。
頭の中で、彼と過ごした日々が次々と浮かんでは消えていく。最後に見た彼の笑顔、それまでの彼の声、そして優しさ。
手を伸ばせば、彼がそこにいるような錯覚さえ覚えたが、現実には冷たい夜風だけが頬を撫でている。世界がさきほどよりも広く、寂しいものに思えて胸が締め付けられた。
彼がいないこの世界は、こんなにも辛く、孤独なのか。
……こんな思いを抱えて、ただ生きていくぐらいだったら、あの世や極楽、地獄に行くことになろうとも彼を探したほうが、たとえ会えなくてもましだ。
「だったら、会いに行こう」
身体を起こし、独り暗闇の中で拳を握りしめた。
まずはここから出なくては、と決意を固めたが、闇の中はまるで私を拒むかのように冷たく静まり返っている。心の中で「本当にこのまま進んでいいのか?」という不安が膨れ上がっていく。
一歩を踏み出すごとに、足は震え、暗闇がさらに深く、重くのしかかってくるようだった。目の前の道がどこに続いているのかも分からない。まるでこの世界に迷い込んでしまったかのように、方向感覚が狂っていく。
しかし突然、体がグイっと引っ張られて私は後ろにつんのめった。ズボンの裾を何かが引っ張ったのだ。
驚いて振り返ると、そこには見覚えのある栗色の目が私を見つめていた。あの夢の中で何度も見た、その目だ。
「……いかり?」
もし本当に彼がここにいてくれたら、どれほど嬉しいだろう。
そんな期待を込めて闇の中、彼を呼びかけるように言葉を漏らすと、そこには先程の獣がいた。その獣の瞳が静かに揺れてその目は、まるで「行かないで」と言っているかのようだった。
「わん」
そう小さく鳴いた獣が、もう一度私のズボンの裾を引っ張った。まるで「ここではない、別の場所へ行こう」と語りかけるようにぐいぐいと、自分よりも小さな体で必死に私をこの場に引き留めようとしているようだった。
彼のように優しく光る栗色と目が合った。その目は私を安心させるようににっこりと優しげに細められて、それは彼が私に何かをごまかして、何かを企んでいるときの仕草にそっくりだ。
「あはは、本当に似てる。おまえ、いかりが狼になった姿だったりしない?」
「わん」
獣が元気よく鳴き、耳をピンと立て、しっぽを振る姿に、私は思わず笑みを浮かべた。その姿すら、彼に似ている。まるで彼が狼になったようだ。
でも、彼ではない。狼に成って迎えに来るなんてそんな童話の様な事、あり得るわけがないのだ。
碇はもういない。その現実が、胸を締め付けるように戻ってくる。ほんの少し軽くなった心が、再び重く沈んでいった。
「ねぇ、おまえは碇がどこにいるか知ってる?」
激しい心の揺れ動きについて行けず複雑でごちゃついた感情をごまかすように、獣に問いかけた。「わん」と鳴いた獣は嬉しそうにふさふさとした尻尾をさらに激しく左右に揺らし、ただ私のズボンの裾を体がぐらつくような強い力でぐいぐいと引っ張った。それはまるで私をどこかに連れて行こうとしているようにも見える。
もしかしたら、この獣は私の言葉を理解しているのかもしれない。ただ、自分を可愛がる人間にじゃれついているだけかもしれないが、あまりにもタイミングが良い。本当に理解をしているのなら、この獣は彼の元に導いてくれるのではないか。
そんな淡い期待を胸に抱きながら、私は獣の栗色の瞳をじっと見つめた。そこに映るのは、あの懐かしい彼の眼差しだ。でも、少しほの暗い光を宿していた。
「ねぇ、おまえは一体どこへ連れて行こうとしてるの?」
再び問いかけても、獣はただ私のズボンの裾を引っ張り続けるたけで、上目遣いをする栗色の目がまるで「さぁ、行こう」と促しているかのように鈍く輝いている。
「彼の元に、連れて行って」
地獄に垂れる蜘蛛の糸のような脆い希望にこの後の運命を全て賭ける覚悟を決めた私は、獣が引っ張る方向へと足を進めた。歩き出した私に獣は一瞬こちらを見上げ、ゆっくりとしっぽを振った。そしてまるで理解したかの様に「わん」と嬉しそうに獣が鳴いた次の瞬間、足元にかすかな光が差し込み、獣はその光の道筋にそって歩き出した。
獣は一歩一歩ゆっくりと進み、私はその後を黙って追いかける。道の両脇には、どこか懐かしい紫色の小さな花が一面に咲き誇っていて、暗闇の中でもその花だけが不思議と鮮やかに輝いて見える。
「イカリソウ……」
私は無意識のうちに呟いた。今世では初めて見るこの花。しかし、前世の記憶が呼び起こされるようで、心の奥底に眠る感情が溢れてきた。
「彼の名前と同じ……」
彼を思い出した今、すっかり見慣れたこの花を見ると、まるで彼がここにいるかのように感じられた。
洒落たもので彼は事あるごとに自分の名と同じこの花を私に贈ってきたので、私にとってこの花は彼そのものなのだ。名前も同じだし。
しかし、『イカリソウの花を持って迎えに行く』なんて、少し気障すぎる。花を渡すくらい生きているうちにやってくれればよかった。そうすれば、こんな未練がましく苦しい気持ちで、目の前の花畑を見つめるなんてことはなかったのに。
燃えるように熱くなる涙腺をごまかすようにふと夜空を見上げると彼が亡くなった夜と同じ、静かな満月が私たちを見下ろしていた。
折角、涙をこぼすのを我慢しているというのに、更に追い打ちをかける暗闇の中に浮かぶ黄金は、残酷なくらいに美しい。彼が植え付けてくれたトラウマのせいで、心から美しいと賞賛できないのが悔しくて仕方ない。
「はぁ……」
思わずため息を吐くと、獣が栗色の目を輝かせて再び私を見上げた。その瞳はどこか優し気に細まっていて、その目元が彼の笑顔に重なった。
彼もこんな風に笑って死んでいった。苦し気で、しかし幸せそうに優しく栗色の目を細めて。満月の下、そのままゆっくり目を閉じてやがて永遠に動かなくなった。
「迎えに行くから、イカリソウの花を持って満月の下で、会おう」
その最期の声は今も耳の奥に残っている。苦し気なのに、今までのどんな時よりも穏やかに頬を緩めた彼の顔を確かに覚えている。
もう彼との別れはとっくの昔の事だというのに、彼の死がついさっきの出来事の様に思えて仕方ない。
……死んだ彼との再会を夢見て歩むこの道は、どこへ続いているのだろう。獣が案内する道の先で、彼と本当に会えるのだろうか?
じわじわと湧き上がる不安を誤魔化すように、満月から目を背けた。目の前には紫色の花々が風に吹かれてさわさわと揺れている。甘いきんもくせいの香りが鼻腔を擽る。それはあまりにも彼とお揃いの香水に似ていて、まるで彼が今ここにいるかのように錯覚してしまうほどたっだ。
「本当に今ここに碇がいたら、きっとこの景色ももっと綺麗に見えたんだろうな……」
「だったら、今からもっと綺麗に見えるな」
それは確かに彼の声だ。
「嘘……本当に?」
「あァ、正真正銘現実だ。お前を迎えに来たんだ」
私の声は震えていた。視界に広がるその姿、あの栗色の目、懐かしい顔立ち――間違いない、彼だ。でも、こんなことが本当にあるのか? 体が言うことを聞かず、心臓が激しく脈打つ。夢じゃない。確かに彼がここにいる。私を迎えに来たと、彼は言った。
喜びが胸にこみ上げると同時に、奇妙な不安が私を襲った。なぜ今? なぜ彼がここに? 現実ではありえないはずのことが目の前で起こっている。その優しい瞳を見て、もう一度愛しさが溢れるけれど、同時に何かが私の心の奥底でざわめいた。
骨ばった、大きな彼の手が私の頬を優しく撫でた。彼の手はあの時とは違い、きちんと暖かかい。彼は確かにここに存在している。
私は、彼と再会できたのだ。
「また、あえた」
「そうだな。まァ、俺もお前もあの時とは違って死んでるが」
「そっか、でも会えたんだ」
「約束しただろう、迎えに行くって」
「うん、そうだよね」
生きているか死んでいるかなんて、もうどうでもよかった。大切なのは、彼が今、ここにいるということ。ただ、それだけで私の世界は満たされた。
彼の親指がしっかり私の涙を拭って、そして彼は私を優しく腕の中に閉じ込めた。彼の温もりとお揃いだったきんもくせいの香りが私を包み込む。それはずっと、こうしていたいと心から思うほど心地よく、今までの中で一番安心した。
「なァ、これからは、ずっと一緒にいような。お前は直ぐに俺の目の前からいなくなるから、黄泉の世界で共にあろう。人間ではなくなるが、俺と例え外の世界が滅びても、一緒にあろう」
脳に彼の甘く低い声が響く。
その提案は私にとって酷く嬉しいはずなのに、心の中には歓喜とまじって何故か恐怖心があり、直ぐに頷いてしまいそうな私を止めていた。何に怯えているのか自分でも解らない。ただ言いようない不安と恐怖心が心の隅に居座っていて、直ぐにでも頷きたいのにそうできない。そんな相反する自分の心をどうすればいいのか解らずに彼の腕の中の暗闇で体を縮こませた。
「お前の恐怖は人間として正しいものだ。人でなくなるということはもう、生まれ変わるは無いということだからな」
子供に子守歌を歌うように彼はそう言って、私の瞳を覗き込むように顔を合わせた。彼の栗色の瞳孔が、獲物を捕らえようとする狼の様に細まって鈍く光っている。
それは先程の獣の目によく似ていて、私はそれに「人の輪から外れる」という彼の言葉をふと思い出した。
「もしかして、既に碇は人ではないの」
冗談だと自分でも思ったが、彼にその言葉を問いかけるほどこの仮定は十分確信があった。
彼が「ずっと一緒」という言葉を繰り返すのも、他でもない獣がこの場所まで案内したという事実も、「お彼岸」である今日私が彼と再会できたということも、関係ないように見えて全てつながっている。そしてこの答えにたどり着くのだ。
「そうだよ、俺は既に人ではない。俺が何になったのかはお前も検討がついているだろう」
バスのおっちゃんの「お彼岸はあの世とこの世との境目が緩むからね、悪い物も来ちまうのさ」「あんた、そういうのに好かれそうだからそんなんで帰ったら、一瞬で攫われてお陀仏だよ。例えば、あんたは送り狼にでも襲われそうだ」という言葉を不意に思い出す。
あの獣は、彼と同じ栗色の目で彼とよく似ていた。
「本当に狼に成るなんて」
「きっと狼に成るって言っただろう。それで?狼の番になる決意はついたか」
私を捕まえるように、彼が私の右手を強く握った。どこか影のある微笑みを浮かべた彼は、腰に手を添え私の体を彼のほうに引き寄せた。
腰を抑える力が強く、これでは逃げるつもりが無くても体を動かせない。
「逃げないよ」
「解ってるさ。でもお前は逃げるつもりがなくとも、道に迷って俺の前からいなくなるからな」
「……ごめん」
「いや、それはもういい。お前が一緒に黄泉に来てくれるなら、な。いまさら逃げるなんてそんな無駄なことしないよな」
彼の目が、月光に照らされて一瞬鋭く光った。まるで獲物を追い詰める狼のように彼の目が鋭く光るたびに、心がわずかに揺れる。しかし、優しくとろけるように細められた目に瞳の奥に潜むものは恐ろしいものではなく、私への深い愛情だということがわかる。だからこそ、その恐怖すら愛しいと感じた。そう思ってしまえば私の心も自然と解きほぐされ、深い安堵が広がる。
もう迷うことはない。彼と共にあることが、私にとって最も自然な選択だと感じられた。
「ずっと一緒にいるよ。もう勝手に道に迷うなんてことはしないよ」
「あァ、その言葉をずっと聞きたかったんだ」
そう微笑んだ彼は私の右手に一輪のイカリソウの花を握らせて、大きな両手でしっかりと彼の手が、私の手をしっかりと包み込む。その感触はまるで、もう二度と私を手放さないという決意そのものだった。
目の前の彼の表情は穏やかで優しかったが、どこか鋭く、しかし安心感を与える力強さがあった。
「俺はもうお前を離してはやれない」
「本当に名は体を表すって言葉は理にかなっているね」
「そうだな」
冗談めかして言った私に、彼が笑う。
柔らかく暖かな風に吹かれて薫るきんもくせいの匂いが心地いい。
「行こうか」
「うん」
私達は手を取り合い、ゆっくりと歩き始めた。
彼の手は温かかった。あの時と同じように、私の手を包み込んでいる。だが、その手の温もりは、まるで逃れられない鎖のようにも感じられた。柔らかい手のひらが私を優しく守ってくれる一方で、その手が一度掴んだものを決して離さない、そんな執着をどこかで感じていた。
「君を離さない。本当にイカリソウの花言葉は随分俺にピッタリだ」
彼の声は甘く、耳元でそっと響く。いつもなら心が温かくなるはずなのに、なぜか今はその言葉に、胸の奥が重くなるような気がした。彼の愛は優しいはずだ。それなのに、息苦しく感じるのはなぜだろう。
彼はずっと笑っている。その笑顔は変わらない。だけど、いつもよりも少しだけ目が細まっているように見えた。まるで、私が自分の手の中に完全に収まったことに安堵しているかのようだ。
「ずっと一緒にいよう、永遠に」
彼の言葉が耳に届くたびに、胸の奥がずしりと重くなる。永遠に共にいる――それは、もう人としての人生を終え、彼と共に新しい存在として生きることを意味する。怖くないはずがない。でも、彼を失うことの方が何倍も恐ろしい。
「逃がさないぞ、深珠」
彼が私の手をぎゅっと握る。温かいその手に心が揺れる。迷いが頭をよぎるが、今更、彼を拒むことなんてできない。もう彼を失うことは二度と耐えられない。
「……逃げないよ」
私の心は静かに決まった。私だってもう、彼と離れた時の絶望を、喪失感を思い出したくなかった。だから、どうせ逃れられないことを悟りながらも、さも自分の意思で決めましたという風に私は彼の言葉に頷いた。
視界いっぱいの紫の花が風に揺れ、金木犀の香りが漂う中で、私は彼と共に黄泉の道を進むしかなかった。自ら選んだように見えるこの道の先に行ってしまえばもう、人として生まれ変わることもなく、彼と共に永遠を過ごすしかなくなる。でも、逃げ出そうとは思えなかった。
どんな姿になっても、どんな未来が待っていても、私は彼と一緒にいることを選んだのだ。それに、きっと現世から既に切り離された私には、彼以外に選べるものなどもう残っていないのだ。