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そこでふと影法師は気づいた。頻繁に夜出歩くなら、それなりに強さが必要ではないか、と。
諍いに巻き込まれても切り抜けられる自負。有象無象のひしめくこの時分、たった一人で駆けまわる度胸。その判断。街中であっても闇夜は深く、危険が多い。それらを掻い潜り、平次は影法師目がけてやってくるのだ。邪険に扱っても懲りない諦めの悪さと、強かさもあったか。
もう来ないと思うておったのじゃがな、と腹の底で影法師はつぶやいた。すると「それだ」と傍らで平次が人差し指を立てた。ずいっと目を白黒させる影法師へ顔を寄せ、
「なぁ、何故妖は夜に活動するのだろう。昼でも良いではないか」
寄るな、と男の顔を押し退けて、影法師は眉間にしわを寄せた。
「他の奴の事情は知らぬ。だが、夜のほうが恐ろしかろう」
影法師は適当に言葉を濁した。己の弱点を自ら暴く阿呆はいない。
妖は日光に弱いわけではない。無論光が弱点の妖もいるが、影法師は違う。光は影を生むのだ。しかしその範囲が限定的ゆえに、能力を発揮しきれなかった。真昼など特に苦手である。
もっとも夜を主体に活動する理由は他にもあった。暗がりは人の視野を狭めるのだ。闇の世界での狩りを効果的に演出できる。人の恐怖心をよりかきたててくれる。逆に、死の蔓延する感触と安穏とした闇が、妖の本分を心地よく解放する。闇は、妖の活動領域だ。
「へぇ……恐ろしいかねぇ? 俺は夜って嫌いじゃないが」
「ぬしのような男は稀じゃ」
一般の人間は、夜になるとねぐらにこもる。明かりを点け、視界を確保する。闇を払おうとする。
男は否を唱えた。
「人に限らず、生きるものは夜があるから安らげる。きっと夜がなければ壊れちまうよ。世の中そういうもんだろう。陰と陽、左と右、夜と昼、地と天、水と火、柔と剛、女と男……これらは欠けてはならぬものだ。両極でありながら、補い合う。片方だけでは成り立たない」
左右の手のひらを見下ろした男は、少しはにかんだように歯を見せた。
「妖と人もそういうものだと、俺は思いたいけど?」
確かにゾッとするものはあるが、夜の方が光は際立つんだ、と呟く。故に嫌いにはならない、と。
柔軟な思考の持ち主だ、と影法師は感嘆した。光も闇も否定しない。あるがままに受け入れて、その流れに善と悪の区別も付けていない。そういうものか、と影法師の方が言いくるめられてしまった。
(妖を否定せんのか)
そんな平次だから、影法師を恐れないのか。
(危ういものじゃな。どちらをも受け入れるというのは、どちらからもはじき出されることと似ておる)
普通の人間ならば、闇を忌み嫌って当然なのだ。彼らは光の元で育つのだから。闇は冥土――死後の異界を連想させる。恐れずに邁進出来るものは少ない。妖たちが光を疎んじるのと同じである。
この男が夜道も平気なのは、単純に無神経で図太いだけか。それとも考えなしゆえか。
「そうだ、忘れていたぞ。今日の土産はこれだっ」
影法師の気も知らず、酒の入った徳利を平次は自慢げに掲げる。にやにやと顔を緩ませる男を、影法師は注意深く見つめていた。
この酒を含んだ土産の費用は、どこから捻出しているのだろう。
その疑問はずっと抱いていた。男は必ず何かを持参する。飯を食いに行かないか、と誘われたことだって一度や二度ではない。結構な額になっているはずだ。金に困ってそうな風情であるにも関わらず――持ってくる魚介類はここらで捕れたものだろうがそれ以外で――高価な酒や甘味類はどこで手に入れてくるのだろう。
(一度だけだが、紅や白粉も持ってきよったな)
この町での入手は困難だと思われるものも、ひょいひょい持ってくるのだ。そういった伝手でもあるのだろうか。
しかし商人には思えない。あざとい計算やへりくだったところも、業突く張りでもないのだ。非常に大らかと思える性格をしている。しかし話し方や佇まいから、有力者の子息でもなさそうだ。相手を威圧するところもなく、身なりにも無頓着である。どちらかというと、職人に近いかもしれない。己の身ひとつでどっしり立つ、技術に誇りを持つ者たちに。
影法師が不審がっているのを察したのだろう。平次は少し拗ねたようだった。
「いいだろう別に。調子の良い時ぐらい好きにしたって。俺の金を俺がどう使おうとも勝手だ。遠慮せずに、ほら」
酒を注ごうとした平次へ、影法師は切り込んだ。
「やはり身体が悪いのか」
しまった、と平次は顔に書いた。剣呑な眼差しが影法師に刺さる。
「いつぞやも倒れたであろう。眩暈がしたと申しておったが、そうではないのだな」
にらみ合ったのは瞬きの間だけだった。
「ずっと大人しくしてたから、今はずいぶん楽なんだ」
すぐさま態度は一変し、いつものとぼけた調子に戻ってしまう。そこに触れるな、というわけだ。意外であり、不審であった。思えば平次は、自分のことを話そうとしない用心深さがある。警戒を解いてない証だ。妖に弱みを見せれば付け入れられるのだから、当然か。ならば何故能天気さを装い、手土産を用いてまで機嫌を窺うのだろう。
何故頻繁に会いに来るのだろう。どこにいるとも知れぬ相手を探して。
それは病が因をなしているのか。
「何故、出歩く。病人は大人しく養生するものであろう。調子の良いときぐらい、と申したな。ぬしの身体はあのときから、一向に良くなっておらんのではないか」
その疑問は以前から澱のように胸の内に積もり、溜まっていた。しばらく顔を見なかったのは、起き上がれなかったためではないかと。
「お前までそんなことを言い出すのか? よしてくれ。気晴らしがなくなると困る」
知っているか、と言う。一人きりで床につくのは苦痛を伴う。毎日まいにち変わり映えもなく、ただ時が流れるのを待つだけ。人の声を耳にしてもその輪に加われず、惨めになるだけ。役に立たない己を責めるだけ。
「この町の人たちは俺によくしてくれるが……それさえ心苦しいよ。役に立たない己の身が、恨めしくなる。少し無理をしたら、すぐぶっ倒れちまうから」
はは、と自嘲する男を、影法師は意外に思っていた。存外あっさりと本音を吐露したためだ。いや、これは本音と捕えて良いのだろうか? 今まで隠していたのではなかったか。
男は唇を曲げた。影法師の手にそっと触れる。
「転がってちゃお前とは会えないだろ。呼ぶことさえ許してはくれないお前とは」
夜な夜な駆けまわる変人と揶揄したことを、根に持っているらしい。名前を告げなかったことも。ふっと影法師が苦い笑みを浮かべた。
「前から思うておったが、ぬしはわしを口説いておるのか」
あれ、と男が少し首を傾けた。月明かりに照らされた顔が、微笑んでいた。それが、酷く白々しかった。
「言わなかったか。お前に惚れているって」
……戯言を。
聞きたくなかった。平次には何らかの裏がある。能天気なようで、そうではない。気安いようで違う。決して開けっ広げではなく、慎重にこちらと接している。そこに何の意図がある? 暴け。最初にあった忌避感を忘れるな。惑うぐらいなら喰らえ。餌に耳を傾ける必要などない。
影に潜み、平次の後を追うのは簡単だった。闇夜は妖の本分である。人に勘付かれることは、まずない。酒を飲みかわした男の足取りを、音も立てずにするすると追っていく。複雑に入り組んだ町の奥深くへ入った。明かりがまったくないのに、迷うことなく男は進む。影法師を追うことで慣れたのか。それとも元々夜目が利くのか。躓くこともぶつかることもなく、ひょいひょい暗がりを行く。影法師も気付かなかった路地を抜けて。
からりと男が戸を開けたのは、町はずれにある半壊した小屋だった。この辺りは、まばらではあるがその日暮らしの者たちが暮らしている。きつい磯の匂いに、影法師は不快になった。もっと町の中心部であれば目立たない筈の匂いが充満していた。
どこかに魚の死体でもあるのか。汚らしく、みすぼらしい。ここは影法師が避けてきた荒んだ地域だ。餌としてもこの層の人間たちは不味い。彼らは夢を持たない。身の丈にあった細やかな生活で満足しているのだ。
襲うなら、やはりある程度裕福な人間が良い。欲深く醜い心を蓄えている。
(あの男、このような場所をねぐらにしておったのか)
呑気な平次の気性と住処がかみ合わない。そうっと近づいたが、たたらを踏んでいる己に影法師は気付いた。本能が何かを警戒している。何かを恐れている。代わりに別の情報は得られぬかと周囲へ目を走らせ……不信感を抱いた。妖の、気配がまったくなかったのだ。小妖怪の一匹や二匹、目につきそうだが見当たらない。近場には他に暮らしている者の気配さえいない。
(不気味じゃ。夜であっても静かすぎる)
どうする、としばし影法師は悩み……やはり小屋へ踏み込んだ。戸の隙間からするりと室内へ難なく侵入する。暗いその場所で、うつ伏せに男は転がっていた。酔いが回ったのか、気持ちよさそうな顔をしている。隙間風の入る板張りの室内は、あまりに粗末で荒れていた。破れたふすまや障子。埃や食べかすの散らかった床や土間には、虫が這っている。
世話をしてくれる身内はいないのか。薄汚れた布団は、どれだけここに敷きっぱなしなのだろう。
長く一人で荒んだ部屋にいたのだと思うと、不憫だった。
(人肌が恋しゅうなったか。それなら何故、人ではなくわしの所を選ぶ)
人間の娘を選べば、寂しさは紛れただろう。今の暮らしも楽になったのではないか。こんな侘しい住処を離れ、明るく健康的な場所へ移ることも可能なはずである。男が、それを望むならば。
丸まって放りだされた布団を影で操って掛けてやったとき、影法師の動きは止まった。
(この男の身体、以前は気づかなんだが)
慎重に、そっと影が男の身体を這った。
(瘴気に……蝕まれておらんか)
瘴気とは生物が生来帯びる命の息吹、活力とは正反対の質のものだ。主に高位の妖が武器として発する強い毒素である。酷いものになると、触れただけで人間の皮膚など爛れてしまう代物だ。大量に吸い込むと、中級の妖ですら命を落とす危険が高い。脆弱な人の身体なら、激しい苦痛を伴うだろう。
男の身体を蝕むそれは、肩にある一つの傷跡からじわじわと広がっていた。直接身体へつけられたのだ。症状の進行を抑えているのは、男の持つ生気のみ。生きようとする強い意思、瘴気をねじ伏せる力がなければ、このようにはならない。瘴気は、障害がなければ瞬く間に人の身体を呑み込んでしまう。男の身体の中で、二つの力がせめぎ合っている。
これを払える人間は癒し手と呼ばれ、滅多に存在しなかった。法師や巫女であっても、その力はなかなか宿らない。たぐいまれな才能と、厳しい修行が必要であると聞く。
(妖と、遭遇したことがあるのじゃな)
それ自体は驚くべきことではない。妖はそこらじゅうに存在している。影法師のように、人のなりをして街に住みつく者もいる。この場合の遭遇とは、襲われたことがあるという意味だ。
(だからこやつは、身体のことを尋ねたとき、あのような反応をしたのか)
これほどの瘴気を植えつけられたのだ。妖に対して良い記憶を持っていないはずである。
男は初めて影法師と会ったとき、腰を抜かした。逃げることさえできなかった。
俺を喰わないのか――
どんな思いでそう口にしたのだろう。
(くだらぬ)
影法師はすうっと後退し、その場を後にした。触れてはならぬ傷に触れてしまい、後味が悪い。その日、人間に対し、影法師が初めてはっきりと情を抱いたのだ。
影法師が去るのを待って、平次がむくりと身を起こした。護符を指にはさみ、「解」と小さく呟く。すると、部屋が僅かに様変わりした。
まず目につくのは、床や壁に張り巡らされた護符の多さだろう。目くらましの陣だ。しかし、展開されたのは四隅のみ。そこには、さまざまな道具が置いてあった。束ねられた数種類の護符と、護符によって封じられた大小の刀。いくつかの部分鎧は、妖怪の骨で作られた頑丈なものだ。武士が使用するものとは少々形が違い、あちこちに仕掛けが施されている。手甲には太く大きな針、すね当てには小刀、肘や膝当てには毒や薬……他にも様々なものが鎧に仕込まれている。そして膨らんだずた袋。あの中にも別の道具があるのだ。
影法師が見たら、驚いたに違いない。これらは妖を退治するための道具だ。みすぼらしい小屋には似合わない、高価で貴重な武具。退治屋としての平次が命を託してきた大切なものたち。
平次は刀を慎重な手つきですらりと抜いた。白銀の輝きが現れ、安堵したように息を付く。これの価値を知る者には、垂涎ものの代物である。そのため、普段から用心に用心を重ねてはいるが……
「付いてくるとはなぁ。防護の陣もやすやす突破されてしまうし」
低級には効果覿面なのだがなぁ、と影法師が影に潜んでうろうろしていた辺りを見て、優しい苦笑になる。身体を何かが這った感触に驚いたが、それらはそっと髪を最後に撫でていった。冷や汗をかいたが、布団をかけてもらえるとは思わなかった。