5
「ようやっと戻ってこられたましたか。今までどちらへ?」
夜遅くに戻ってきた平次を、待ち受ける者がいた。玄関脇の物陰からぼそりとそんな台詞が飛び出したものだから、平次は反射的に身構える。しかし、よくよく聞いてみると聞き覚えのある少年の声だった。
「もしかして……佐之助か?」
玄関脇でしゃがんでいた少年は、すっくと立ち上がり平次を軽く睨んだ。利発そうなきりっとした顔が非難を告げていた。笠を手にした旅装束の少年は、十五、六といった歳の頃か。
思わず平次は破顔する。懐かしかった。佐之助と最後に会ったのは二年近く前だ。大きくなったものだ。ずいぶん男らしくなった。平次さま、平次さま、と追いかけて来た少年を、昔はよく抱き上げたものだ。
しかし笑みを広げる平次とは正反対に、少年は眉根を寄せていた。
「本当に、平次さまなのですか」
言いにくそうに問いかけられ、ああ、と平次は顔の半分を覆う前髪をかきあげる。顔を晒すと、今度は深々と沈痛なため息が返ってきた。
「どうしてそんな……」
「楽だし、便利なんだ」
けろりとした態度に、佐之助が手のひらを顔に当てる。相変わらず生真面目なようだ。幼いころは穏やかで柔らかな性格だったが、なぜここまで固く尖ってしまったのだろう。会うたび平次は首を傾げてしまう。
久々であってもちっとも緩まないその性格が、懐かしくもあり、鬱陶しい。それは少年のほうも同じだったようだ。
「平次さまは、その……お変わりないようで」
どちらともなく浮かんだ笑みは、少々遠慮交じりだった。
「ところでお前、なぜ来たんだ」
なぜって、と少年が口ごもる。
「この間、お前は日和さんと一緒だと聞いたけど」
「重蔵さまの使いです。様子を見てくるようにと。今、俺は待機ですから」
そうかと苦笑して、護符の貼った戸を平次は引いた。お邪魔します、という声が背中を叩く。入ってすぐは土間で、どろどろの黒ずんだ竈がすぐ脇に鎮座していた。水を入れた瓶がいくつか並んでいる。汚した器や箸はほったらかしだった。
本当は、そのまま部屋に上がって万年床へ倒れたかったが、客人である。仕方なく、玄関に腰を下ろす。
月明かりが障子から透けて落ちた狭い部屋を、佐之助の視線はざっと撫でた。検分されているようで気が重い。佐之助は眉を潜めていた。一間しかない室内さえ、ろくに掃除していない事実を論われるか。散らかり具合や、隙間風の入る小屋のあり様は減点の対象か。
身構えていた平次とは裏腹に、ふうっと息を吐き出した少年は、ぴりぴりとした緊張をようやっと解いた。平次を一人で待つより、小汚い室内を指摘するより、別の要因で苛立っていたのだ。少年が四隅に貼られた護符を確認したので、ああ、と平次は腑に落ちた。
「一応お尋ねしますが、夜な夜な見回りなどされてませんよね」
細かいことを気にするなぁ、と平次は苦笑する。
「今日は飯に招かれたんだ。この近所の六郎って爺さんがたまに呼んでくれる」
それにしては遅いのでは、と突っ込みが入った。
「客人が来るなら、月など眺めずにすぐ戻ってきたよ」
妖を探して町を徘徊していたなどと、おくびにも出さない。訪問を前もって告げなかったことをチクリと刺してやると、少年も追及しなかった。昔のようにはいかないものだなぁ、と玄関で立ち尽くす少年を平次はぼんやり眺めた。他人行儀とまではいかないが、ぎくしゃくしたものが二人を隔てている。
「重蔵さまからこれをお預かりしました。お渡しするようにと」
差し出された包みの中身は札の貼られた御重箱である。札を剥がすと、ひやりとした冷気に触れた。何だなんだ、と蓋を開けた平次は、呆気にとられた。豆ご飯がみっちり詰まっていたのだ。
「あ、ありがたいが、みんなで食べてもらった方が、良いだろう。米なんて」
「日和さまが、平次さまの好物だからと手ずからお作りに」
日和さんが、と呟いて、三段全て豆ご飯の御重を平次は凝視した。確かに好きだと言った覚えはあったが、これほど大量に頂くとは思いもしなかった。粥ではない飯を見たのは久方ぶりだ。竈へ火を起こす手間も省けてありがたい。
(明日、六郎さんのところへ持っていくか)
白米をたらふく胃に収められる機会など、そうない。普段は魚介類と、少しの野菜で忍んでいるのだ。六郎の家族が脳裏にふっと浮かんで、平次は微笑む。きっと喜ばれるはずだ。
夏場なのでそのままだとすぐに傷んでしまう。冷気の札を張り直し、再度略式で御重を封じた。
「ありがたく頂戴しましたと、お伝えしてくれ」
承知いたしました、と返答する佐之助の表情も柔らかい。
そのとき、パキッと小屋のきしむ音がした。少年がすぐさま身構える。四方へ目を走らせ、耳を澄ませていた。ぴりぴりした緊張に、平次は仕方なく「どうしたよ」と呼びかける。予想以上に露骨な警戒態勢だ。平次のにやけた笑いに、少年はハッとなり「失礼しました」と謝罪する。
「何が失礼しました、だ?」
促され、口を噤んだ少年は吐露するのを躊躇う。弱みを晒すようで折れたくないのだろう。そういう勝気な性格が面白くて、平次はついつい絡んでしまうのだ。
「この町の……ざわつきが異常に感じられて、気にかかるのです」
見えない位置から今にも何かが飛び出ないかと、怯えているようだった。平気なのですかと目で問われ、平次は肩を竦める。そして「来いよ」と畳に上がった。戸口で頑なに突っ立っている佐之助へ、いいから座れ、と手招きする。
失礼致します、と少年はおっかなびっくりしながらやってきた。どっかりと胡坐をかいた平次とは違い、背筋を伸ばして正座をする。それでも座りが悪そうにもぞもぞしていた。
「この町には大物がいるぞ」
平次の放った一言に、佐之助が目の色を変えた。
「妖が他より多いのは、そいつの放つ妖気に惹かれたのだろう。俺も町人を襲うと聞いて、見に行ったことがある」
平次は少年の不安を煽るように、にやりと笑った。様子見どころか、堂々と会って帰ってきたところなのは、内緒だ。
「まさかお一人で? なんて無茶を……。では、この町がこうなのはその妖の」
「早まるな。あれは群れることを厭う類の妖だ。それがこの二・三日で、突然手下を集めるか? 勘違いでなければ増えたんだろう、この町にいる妖の数が」
「……なぜ?」
仲間が増えた分、小物たちの悪戯も頻繁になってきているようで、野菜や魚などの食べものや、櫛に茶碗といった日用品が消えたとよく耳にした。人死が出ていないので、平次も放ってきた。むしろこの事態がなぜ起こったか気にかかって――
(そういえば、重蔵はなぜここを通ったのだったか)
何となく糸が繋がり、平次は黙考する佐之助を盗み見た。気懸りと言えばもう一つあったことを思い出したのだ。
「もしかしてお前か、町に現れた退治屋は」
妖退治が噂になっていたと伝えると、少年は瞬いた。ぽかんとして平次を仰ぐ。
「確かに……平次さまのお住まいを捜索中、女性の憑き物を払って簡単な護符をお渡ししましたけど。まさかたったそれだけで?」
「たったそれだけが珍しいんだよ」
低級の妖だったので、と詳細を説明する少年に先んじて、平次は苦笑を挟んだ。佐之助にしてみれば大事じゃなくとも、一般の町人にはちょっとした事件となる。なんせ直人は見ることも触れることさえ出来ないモノだ。存在していると示唆されたところで実感は伴わない。だが、実際に『お祓い』をやってのけた者がいたとなれば。
人の口に戸は立てられない。平次も噂話を漏れ聞いた。流言飛語とはよく言ったもので、瞬く間に広まったはずだ。
噂は出回らない方が良い。妖が活動を控えたら良いが、煽ることもあるのだ。狙いの妖が鳴りを潜めても厄介である。そこまで、この少年は頭が回らなかったのか。
(咄嗟に動いてしまったか。らしいと言えば、らしいんだが)
「重蔵に言われたろう、不用意な行動は控えろと。万が一が起こったとき、後悔するのはお前なんだ。人の命は購えるものではないぞ」
「放ってはおけませんでした。状態が悪化しては手遅れになってしまいます」
「人助けを咎めてるんじゃないよ。妖と関わるときは、もっと広い視野を持って動けってことだ。さもなくば、守るべきものを傷つける羽目になる」
そう指摘しながら、平次は内省する。脳裏に美しい女の姿を描いた。いつもその妖は、憂いを湛えたような表情をしていた。凪いだ水面のような目は空虚に見えた。それが平次を映したとき、小さく揺れるのに気付いたのはいつだったか。
殺されかけ、無視され、避けられたが、めげずに追いかけたのは強く惹かれるものがあったせいだ。だが近頃はそれだけではなくなってきた。一緒に過ごせる時間が、言葉を交わす一時が、愛おしくなっている。
(だが、あれが妖である事実は変わらない)
彼らにとって人は餌に過ぎないのだ。あの妖も、平次が取るに足らぬ存在であると認識しているから、その余裕から、余興として相手をしてくれているに過ぎない。長い時を生きる定めの妖が、戯れとして、気まぐれに。
そう考えられる冷静さは、どれ程のぼせても頭の片隅に存在していた。それは平次の性だ。刃を首筋に当てられたような、現実感。妖に誑かされたのではないかと、自問することもしばしばだ。
危惧すべき現実を抱えているのは、平次のほうである。
惚れてしまったと自覚すると、すうっと胸のつかえが解けたのを思い出した。六郎爺さんに打ち明けたときも、照れくさくて嬉しかった。初めての感情に戸惑いながらも、幸福に満ちていた。
しかし、浮かれた日々は緩やかに崩れようとしている。目を光らさなければ、この平穏はあっという間に蹂躙される。感情を優先し、誰かを巻き込む危険は冒せない。
(肝に銘じなければならないのは、俺のほうか)
「平次さまは後悔されたことがあったのですか」
あるよ、と平次はぽつりと零す。
「自分の不注意が無関係な者を巻き込んだだけじゃない。大切な人を守れなかったことがある。俺の存在が傷つけた」
「平次さまの腕を持ってしても……?」
刹那、しんとした冷たい空気が満ちた。刃のような鋭さだ。
少年がびくりと身を震わせ、怯えた眼差しで平次をそろりと窺った。何か気に障るようなことを言っただろうか、とびくついている。平次は、ざんばらな前髪をくしゃりと掴んだ。
「俺はもう、退治屋じゃないんだ」
そう口にしたら、奇妙なほど覇気が抜けた。言霊の通りに、平次の気負いを一瞬で挫く。否定の言葉はずしりと胸の底を塞いだ。左肩が、ずきりと痛んだ。平次の意気が殺がれたのを敏感に察したのだ。まるで嘲っているようだ。不甲斐ない無力な平次を。
(暴れるな。大人しくしていろ)
左肩を走る鈍痛が痛みを増した。
(騒ぐな! 俺はまだくたばっちゃいない)
ぴたりと痛みが引いていく。脂汗がにじんだ。しかし佐之助の前だ。呼吸の乱れを気取られぬよう、平次はゆっくりと肺へ空気を送り込む。眩暈など起こして堪るか、と目頭を押さえた。子どもの前で醜態は晒せない。
「あのな……、佐之助。妖たちにとって、人は一括りだと忘れるんじゃない。個ではないんだ。腹が立ったら別の人間に襲いかかる。それが奴らの復讐だ。今回は運が良かったと思えよ」
少年は俯いて唇を噛んでいる。平次の変異には気付かなかったようだ。落ちていた手拭いを持ってふらりと立ち上がり、平次は瓶の水を口に含んだ。塩気の混ざったぬるい水が喉を通って、やっと人心地つけた。
佐之助が善意で行ったことはわかっていた。虚栄心を満たすためでもなく、力を振いたいでもなく、ただ人の役に立ちたかったのだと。平次にも覚えのある感情だ。――自分たちは、災いを招くための存在ではない。そう喉をからして叫びたい。認められたい。
(たったそれだけのことが、酷く難しくて、まどろこしいんだよなぁ)
今でさえ平次は上滑り状態なのだ。偉そうに言えた口ではない。
部屋へ上がり、頑なに姿勢を崩そうとしない少年の頭を、ぽんぽんと撫でた。
「腕を上げたな」
しゅんとしていた佐之助が、その瞬間血相を変えた。さぁっと血の気を引かせ、がしっと平次の手を掴む。
「何ですか、この熱は!?」
平次は慌てて身を引いたが遅かった。少年が打ち付ける勢いで、額を合わせてくる。あでっ、という悲鳴は無視された。
「やっぱり熱がある、それも結構高い……。具合が悪いならそう仰って下さいよ。何故出歩いてらっしゃるんです! さあさあ、今夜はもうお休み下さい」
固い敷布へ押し退けられた平次は、ぶつけた額を押さえた。その傍らで佐之助はてきぱきと支度を整える。
「待て、これから町を出るつもりか」
「すぐ戻るよう仰せつかっております。平次さまのことをご報告せねば」
佐之助が懐から護符と同じような、長方形の札を取り出した。あ、と平次が止める間もなくそれは佐之助の手を離れ、むくむく膨らんで鳥の形を取る。予想外に成形が速い。小さな梟へと変化したそれは、開いた戸からパタパタと飛び出した。
一瞬の出来事であった。
(やられた。まさか式神とは……。これじゃあ重蔵どころか日和さんがやってきかねないぞ)
式神とは、陣を描いた紙に術者が力を注いで、仮初の命を与える術だ。紙のままだと役に立たないので、その際形も変化させる必要がある。
式神用の呪符は、術に使われる文様と術者の銘が刻まれる。これに込められる術者の力量次第で、式神は形や大きさを変えるのだ。より高位の術者にかかれば、生み出した人型の式神は人と寸分違わず動き、喋る。術を扱える式神を作ることも、腕次第では可能だ。
(そうか……。佐之助も式神を扱えるようになったか)
式神を使えるようになると、遠方の相手と連絡も取りやすくなる。その反面、呪符として使用できる紙は、専門の職人が特別に漉いたものでならぬため高価になるのだが――
惜し気もなく使ってくれるものだ。苦笑していると、ちらりと様子を窺う目に平次は気付いた。その必要はないのに、佐之助は何やら負い目を感じているらしい。
では、と気まずげに少年が頭を下げる。キリッとした眼差しに不安の影が過ったのを、平次は見逃さなかった。出ていこうとする首根っこを咄嗟に捕まえた。何するんですか、と喚く少年を問答無用で家に引っ張りあげた。
「待てと言ってるだろう。夜更けにうろちょろするな。この辺りの妖たちを刺激したくない。式神も便利だが多用するんじゃないぞ」
反論しようと身を捻った少年の頭を、手のひらでがしりと掴む。そのままこちらを振り向かせた。
「あとなぁ、体調が優れない俺を慮ってくれるなら、出て行く前に飯でも作ってくれんかなぁ? あんな式神飛ばすよりそっちのほうが余程有意義でありがたい。無論、明日の朝にだぞ」
いいな、と念を押す。
退治屋の端くれとして、暗がりを恐れたりいたしません――などと突っぱねられては敵わない。少年は一度断ろうとしたのだろう。だが考えを改めたようだ。被りなおした笠を解く。正座をして居住まいを正すと、再度すっと頭を下げた。
「わかりました、ご温情痛み入ります。……ありがとうございます」
自分を留まらせる理由の一つとした平次の思惑は、察しているのだろう。折り目正しい佇まいに、平次は笑みを浮かべた。少年が頭を上げる前に、礼はいい、と横になった。
「料理は自信ないんですけどね」
ひらひらと手を振って応じた平次は、受け取った重箱は枕元に置いた。するとそこで力尽きた。予想外に徒労が酷かったのか、瞼を開けているのも辛くなる。もう少し起きていたい……という本人の意思に関わらず、身体が眠りへ落ちていく。睡魔が体内で目を覚ましたようだ。
部屋の片隅で丸くなった少年が、平次さま、と呼びかけたことさえ気づかなかった。
「この町を離れられる気はありませんか。重蔵さまは大そう気に病んでらっしゃいました。平次さまさえ良ければ、重蔵さまのところで治療だって――」
佐之助はいびきが聞こえ、ポカンとした。もうお休みに……と口走り、仕方がなさそうに目を閉じた。
翌日、佐之助は簡単な朝餉を用意し、必要ないと止めたのに掃除まで一日がかりで――午前中だけでは終わらなかったのだ――やってのけた。早めの夕食まで手配してくれた。それでも不満顔の少年を追い出すように、平次は見送りに立つ。
「重蔵に、俺のことなど気にしなくていいと伝えてくれ。土産はありがたいが、気遣いは無用だ。割と呑気にやっているから」
俺のことは忘れて欲しいと、暗に伝える。わかりました、と神妙に頷いた少年は、「それよりもちゃんと家事をやって下さい。さもなくば人を遣りますよ」と鋭く釘をさしてくる。
「待て。それって全くわかってないだろ?」
「平次さまが、心配かけなければ問題ありません。突然いなくなったりしなければ」
さらにぶすりと釘がぶち込まれ、平次は言葉に詰まった。では、と一礼して歩く背中を送り出すと、ため息が溢れる。やっと小言から解放された。
(頼むぞ。俺は今のままで良いんだから)
かつての仲間の面差が胸中をよぎり、平次は小さく笑った。
(お前が疾しさを感じる必要はないんだ、重蔵)
あの男はそれを表に出す可愛げこそないが、大切な弟子の佐之助を使いに寄越したぐらいだ。その心中は推し量れた。
「おい。あれが、言っておった気になる人じゃあるまいな」
突如耳元で囁かれ、平次は飛び跳ねた。六郎爺さんだ。偶然通りがかったのか、佐之助が去った方向を面白そうに見つめていた。ついでに孫たちもわらわらと出てくる。今の人だぁれ。あの人朝からいたよね。昨日からだよ! 見ない顔だなぁ。平次兄ちゃんの何? 好き勝手に囁かれ、平次は狼狽えた。
「ち、違いますから。あれ男ですから。どう見ても男ですから。もっと別の綺麗な人でしてねぇっ」
ほほう、と勘繰られたのは言うまでもない。
次にひげ男が現れたのは、黄昏時だった。行き交う人の姿が判別しにくい、昼と夜の境界の領域だ。ものの形も覚束ない、淀んだ空気が立ちこめていた。風が凪いでいるせいだ。
ひげ男は、影法師がこの時間帯に出ていたことを、知っていたのではないらしい。呆けたように立ち尽くし、慌てて駆け寄ってきた。おおいと腕を振る様は、大きな犬を手懐けたようで妙な心地だ。
「もう出てきていいのか。まだ夜じゃないぞ」
親しげに問われ、影法師は一拍置いた。じっと男を見つめ、「その言葉、そのまま返そう」と軽口をつく。ひげ男は面食らったのだろう。一瞬きょとんとして、目を泳がせたのちに苦笑した。先日倒れたことにやっと思い当たったのだ。
「大丈夫、ああいうことは滅多にない」
確かに今日は具合が良さそうだ。西日の影響か、心なしか頬も火照っている。
家路に着く人々から外れるように二人は端へ寄った。こうしていると、影法師が妖であると気づく者はいないはずだ。真っ黒な姿の男とひげ面の組み合わせは、風変わりに映ったかもしれないが。
「なぁ妖、そろそろ名を教えてくれよ。俺は平次って言うんだ」
「いつわしが名を尋ねたかの」
「そう言わず。妖でも名はあるだろう。いつまでもお前じゃ不便だ」
影法師は無表情の面の下で逡巡した。気軽に教えられる名前が、なかったのだ。そもそも名前を問われたこと自体が、初体験だ。ひげ男――平次と言う名であったか――の言うとおり妖にも名前がある。己を縛る、大切な名前が。それは真名と呼ばれる。真名は魂ほどの価値があった。
一方この町でも知れ渡っている『影法師』というのは通り名だ。人や妖を狩るうちにそう呼ばれるようになった。先日の酔っぱらいが知っていたほど知名度が高い。そちらを告げるべきなのか。
(ふふ、わしは何を恐れておる。最初に会ったとき、こやつはすでに腰を抜かしたではないか)
あれが、取り繕えない人間の感情、素の反応だ。影を使って人を殺したものへ向けられるのは恐怖と嫌悪だけだ。今さら名乗りを躊躇う理由はない。
だがこの男は驚愕した直後、美しいと口にした。人を襲った妖に向かって。
影法師は美しいと称賛されることに慣れていた。女房として貴族社会に紛れていた昔は、歌を送られたことも度々あった。帝へ召し抱えられたこともある。そのたびひらりひらりと逃げ、獲物を狩った。数々の人々を虜にしてきたのだ。今もまた、影法師を望むものは星の数ほど存在している。
しかしいくら誉めそやされても、それは空の人形に対してであり、本性を剥き出しにした影法師にではない。