表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/17

 その日、平次は上機嫌だった。

 どれほど上機嫌だというと、近所の野良猫たちを集めて餌をやってしまうほどには上機嫌だった。普段は餌など与えないし見向きもしないのに、だ。近頃は体調も良く、運も良いし絶好調だ。青空、というだけで笑いが止まらなくてにへにへしてしまう。


「出てくるなら出てこいって言われたからなぁ」

 昨晩の出来事を思い出して、さらに顔がゆるんでいく。

 平次は現在片思い中だ。それもとびきりの美人にだ。あんな美人、ここいらじゃそういない、と十人が十人言いきれるほどの美人と、出会うことができたのだ。相手が人間ではないという些細な問題はあるけども。


 出会いは強烈だった。

 なんと、殺人現場での遭遇だ。

 平次の見ている前で、一人の男の命が奪われ、存在さえ消されてしまったのだ。路上に引きずり込まれたせいで。


 本来なら悲鳴をあげて逃げ出すべきだが、平次は違った。呼吸することさえ忘れて、その姿に魅入っていた。桜の花びらが視界を惑わせる夜だった。赤い弓張り月が雲間から顔を覗かせていた。ぞっとするほどの冷たい美貌が、脳裏に焼き付いて離れない。

 うっかり殺されかけたが、それさえ些事である。


 ずきんと左肩が痛んで、平次は手を当てた。鈍痛が間断なく生じる左肩は、うっすらと熱を帯びていた。己の存在を主張するかのように、痛む。平次は舌打ちした。絶好調だ、と思った日に限ってこうだ。


「おはよう、平次さん。具合はどうだね」

 戯れる猫に囲まれた平次は、咄嗟に持っていた小魚を懐に仕舞った。険しい顔つきの初老の男が、近づいてくる。がっしりした体格の老人は、一仕事終えて帰ってきたところだろうか。

 よく日焼けしたこの老人に、平次は恩があった。


「六郎さん、おはようございます。すみません、先日は倒れてしまって」

 またお世話になってしまったようで、と平次は小さく頭を下げた。

「全くだ。道端で倒れられちゃ運ぶのに難儀する。次からは寝床で倒れてくれよ」

 つけつけと言われ、平次は苦笑した。左肩の痛みが増して、家へ辿りつく前に気を失ったことがあった。近所に住むこの六郎爺さんと数名で、平次を運んでくれたのだ。


 恩といえば、この小屋に住まわせて貰っているのも、六郎爺さんの口添えと紹介があったからこそだ。屋根が崩れかけた小屋であっても、隙間風が入ってきても、戸の建てつけが悪くても、平次がここに住めたのは幸運だった。町へ長居することを拒んだ平次にとって、近隣に住民が少ない立地条件は最適だったのだ。半壊した部位の補修もいくらか完了し、住み心地も上々である。


 また、町からいくらか離れた池のほとりで倒れていた平次を介抱してくれたのも、六郎爺さんである。行きずりの身である平次には過分な厚意だった。全くもって頭が上がらない。


「はは、善処します。でも最近は調子が良いんです。六郎さんが分けて下さる魚のお陰でしょう」

「猫にやっといてかね。まぁ、病人はちゃんと食べて休むのが仕事だからな、気にせんでいい。……ここを出て行くのも早いのかね」


 平次は根なし草の旅人である。今住んでいる場所は仮宿だ。そのことなんですが、と平次は声を潜めた。

「ちょっと伸びそうです。気になる人が出来てしまって」

 ほう、と六郎の表情が変わった。興味津々にどの娘だねと尋ねられ、平次は頬を染めた。せっつかれて照れくさそうに、綺麗な人です、と告白する。赤くなりながらにこにこしている平次の腕を、六郎爺さんは分厚い手のひらで数度叩いた。


「それなら尚更身体も鍛えにゃあ」

「はは。六郎さん、毎日ようすを見に来て下さって、ありがとうございます」

 深々と平次は頭を下げた。毎日のように顔を合わせるこの老人は、平次のためにわざわざ足を向けてくれている。そうと気取らせないよう、偶然を装う気遣いがありがたかった。六郎爺さんは照れたようにふん、と鼻を鳴らす。


「大したこたぁないさ。だが、年寄りの苦言として言わせてもらえば……もっとしゃんとするんだな。その頭や髭をだ」

 あはははは、と平次は笑って誤魔化した。顔半分を覆う前髪と伸びた無精ひげがごろつきの様だと指摘されても、直せない訳があった。六郎爺さんは鷹のような鋭い目で胡散臭そうに眺めていたが、やがて踵を返した。にへにへ顔を緩ませる平次に、何を言っても仕方がないと悟ったらしい。


 道の向こうからじいちゃーん、呼び声が響いた。六郎の孫たちが駆けてくる。険しい老人の相好が、ふと崩れた。

「そうだ、たえの奴が煮付けを作り過ぎたんだと。後で持って行くと言っておったぞ」

 少し離れた位置から大声で伝えられ、平次は慌てて手を振った。

「わかりました! 楽しみにしてます!」


 たえとは、六郎の娘だ。三人の子どもを持つ母親で、平次のことも六郎同様気にかけてくれていた。ぽつぽつ料理を分けてくれる人で、とてもありがたい。

 平次兄ちゃんまたねぇ、倒れないでねぇ、また字を教えてねぇ、と口々に挨拶して、子どもたちは大好きな祖父を引っ張って行く。賑やかな後ろ姿を見送って、さて、と平次は大きく伸びをした。


「今夜はたえさんの煮付けがあるから、ちょっと楽か」

 平次が夢中になっている相手は妖だ。夜にしか彼女(彼かもしれないが)は現れない。昼間に数度見回ったので、これは確実だ。昨日までは、気配を断って遠巻きに彼女を観察していた。訳も分からず、気になって仕方がなかったためだ。最初は危険な妖ゆえに放置できない、己のさがだと考えていた。


 しかし、息を潜めて監視するうちに、感情を抑えきれない事態に陥った。『彼女』が、人間の男と共にいるときだ。妖は人をたぶらかすものだ。ときに悪事を唆し、意のままに操ることもある。『彼女』も例に洩れず、人を誘うのだ。

 その都度、己を抑えようと必死になった。かろうじて自制できたのは、長年の鍛練の賜物だろう。


 一目惚れしていたのだと気づいたのは、昨夜のことだ。彼女を付け回して二十日は過ぎたのではなかろうか。向こうから声をかけられたのだ。ぎょっとなって咄嗟に身を翻したが、あえなく捕まり一喝された。


「出てくるならちゃんと出てこい! 鬱陶しい!」


 ネズミか、と詰られた瞬間、平次は自覚した。あ、こいつのことを俺は好きだったのか。口をきいただけで、嬉しさが込み上げた。一瞬で胸の靄が晴れてしまった。季節は春真っ盛りだ。平次の頭の中も、薄紅の花が咲き乱れている。


(しかし、こんな事態が訪れるとはなぁ)

 相手が妖だったのも、青天の霹靂である。恋するなら人間だと疑いもしなかった。まして一目惚れなど、眉唾ものだと嘲ったことさえあったのだ。

(自分でも本気かどうかわからない辺り、俺らしい)


 平次は恋をしたことがない。良いなぁと思った娘がいても、慎重に距離を置いてきた。秋波を送られても応えようとしなかった。一晩限りの相手ならいくらでもいたが、本気になったことはなかった。

 故にこの感情が恋か、自信は持てない。浮かれている己に一番戸惑っている。締まらない顔つきも、止められない。


「あ、こら。まだ餌はあるから喧嘩するなよー。ほーら、仲良くなかよく、にゃんにゃんにゃん」

 にこにこしながら喧嘩している猫を引きはがし、食いはぐれたほうへ小魚を与えてやる。そんな最中であっても『彼女』の顔は浮かぶのだ。耐え切れず、幸せぇぇぇぇとなってしまうのだから重症だ。嫌がるトラ猫を抱きしめて、頬を寄せて、鼻歌までうたっていたそのときだ。


「その声……まさか平次か? なんだその締まりのない顔は」

 え、と平次は身を捻った。有頂天だった笑顔が凍りつく。重蔵、と唇が動いた。

 ここにいるはずのない見知った姿が、そこにあった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ