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それの現るところ不吉あり
人心惑わし人を喰らう妖なり
影法師とその男の邂逅は、まだ生まれて二百年足らずのころだった。人の世は争いが絶えない戦乱の時代。妖の数がまだ人ほどもいて、珍しくなかったころのことである。
梅の花が咲き終え、寒さも和らぎ始めた喉かな春先だ。桜の花びらが風と遊んでいた月夜に、影法師は路地で男を締め上げていた。
「あ……、た、頼む……見逃してくれ……いやだ、死にたくない」
細い紐のようなものが、獲物の息の根を止めるべく首に巻きついていた。紐は路上から生えたように伸びている。それを冷然と見下ろす真っ黒な女は、ただ佇んでいた。
血走った男の目が、美しい女を映しだす。必死の形相だったが、首に巻きついたそれは、きりきりと喰い込んでいくのだ。皮膚とそれとの間に割り込んでいた指は、すでにない。泡を吹きながら生を得ようと、死に物狂いで男は爪を立てた。暴れれば暴れるほどそれは喉を締め付ける。
「助……くれ……、お願……、た……け、て」
涙や洟で顔を汚して懇願する男は、女の着物を咄嗟につかんだ。縋られても女の表情は面のように動かない。獲物となった男がこと切れて、くたりと倒れるまでしばしの時間を要した。女は――女の形をしたものは、そこで初めて朱唇に微かな笑みを浮かべる。煩そうに男の躯をどかせた。方々から男を絞殺した黒いもの――影を操り、ぞんざいに転がしたのだ。
女は手も足も動かさず人を殺めることのできる妖である。影を操りどこからともなく現れるもの――それを人は『影法師』と呼んだ。
赤い弓張り月が皓々と光を撒く中、影法師は躯に無数の影を撒きつけた。人通りの疎らな一角で、獲物はずぶずぶと女の影の中に呑まれていく。まるで、沼へ沈む古木のように。
そこを目撃した男がいた。
ざんばら頭で浮浪者のようないでたちの、年齢不詳の男だ。ひっと息を飲んだ顔は、髪とひげに隠れて見えなかった。半分地面に埋まった獲物に仰天し、ゆっくりと振り返った影法師を見て、腰を抜かしたのだ。
女の足元で、人が闇へと沈む尋常ならざる光景に魅入ったのか、微動だにしない。いや、できないのか。蛇に睨まれた蛙のごとく、男は硬直している。
やがてちゃぷんと、波紋が影の表面を揺らした。その後は、何事もなかったような静寂が広がる。影へと引きずり込まれた者など、最初からいなかったかのようだ。
「美しい……ものだな」
低い掠れた声がした。
「そのようにしてお前は人を喰らうのか。その姿に惑わされた者は、大勢いただろう」
影法師が柳眉を寄せた。新たな獲物へとざああっと影が走る。生き物のように影がうねり、男の手足に絡みつく。それが徐々に重みを増して、獲物を影へ引きずり込むのだ。今度は死体ではなく、生きたまま。
しかし、この男は冷静だった。己の身が喰われかけているのに、取り乱しもしない。長い前髪の隙間から、笑う口元が見えた。
「ふふ、喰われればいいか……諦めがつく……。俺にふさわしい末路だ」
ぶつぶつ呟いて、男は目を閉じた。身じろぎもせず、死を受け入れているのだ。
不意に男を引きずり込む力が止まった。
影は形ある限り、どんなものにも必ずついている。それを故意に取り込むことで、影法師は本体の情報を大雑把であるが得られるのだ。
この男には淀みがあった。
これ以上悪化したら命に関わるほどの淀みだ。
得心がいく。総じて己の病を自覚している人間は、諦めが早い。生を得ようと足掻かない。甘美な悲鳴も恐怖にゆがむ顔も見せず、死を選ぶ。悪食な妖はそれを好んで取り入れるが、この男の何かが癇に障った。本能が告げた忌避に従い、影は男を勢いよく吐き出す。
「……俺を喰わないのか」
影法師はするりと影を引っ込め、感情の宿らない一瞥を向けた。
「去ね。わしの腹がふくれとるうちに」
男が自嘲気味に口の端を釣り上げた。
「なぁ、自分で言うのも難だが、俺は美味そうだろう。喰いたいと思わないか」
影法師が背を向ける。その身体がふと縮んだ。一歩踏み出すごとに、足が路上へ埋まっていくせいだ。見る間に腰のあたりまで闇に溶けた。あと数歩も進まない内に、全身が影へ埋まる。
待て、と男が血相を変えた。顔が埋まる寸前で影法師が振り返ると、男は腰を抜かした姿勢のまま、這うようにして手を延ばしている。
影法師は目を弓なりに細くした。それが艶やかな笑いに写ったか、男は刹那身を引いた。その間に――たぷんと空間に波紋を残し、影法師は消えたのだ。
この出会いは一度きりのものだと、疑いもしなかった。変わらぬ日々に飽いた影法師にとって、人との関わりは退屈を紛らすためのもの。その種を一つ撒いた――その程度だ。狩りに目撃者を残すことはあった。すべてを摘むより、噂が徐々に広まったほうが、面白みが増すためだ。恐怖が町や村に蔓延する。影法師と知って、人々が驚愕し、怯える様を見るのもまた一興。
とはいえ、目撃者などそう現れない。
「見逃してくれたのか……? まさか、妖が?」
影法師の消えた辺りを茫然と見つめた男――平次は、滑稽なほど震える己の手に、顔を引きつらせた。左肩に触れて、深呼吸を繰り返す。どくん、どくん、と脈打つ心臓は、未だに暴れている。気が高ぶって、どうにかなってしまいそうだった。
「運がいい、か。ははっ、参ったな、喰われるものとばかり思っていたのに」
生き残ってしまったよ、と壊れそうな笑みを浮かべた。
「いきなり大物だもんなぁ。見つけた以上放置できないが、俺に何ができるか……」
ぐしゃぐしゃと鳥の巣頭をかきむしり、ふらつきながら男は立ち上がる。土壁に手をついて、ゆっくりと歩き始めた。建物の隙間から弓張り月の朱が目に入った。毒々しい赤が見下ろすその空に、桜の花びらが舞っている。そういえばあの妖、きれいだったなぁとぼんやり男は立ち尽くした。