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(武具の『守』が働いたか)

 影が少年に触れたとき、僅かな抵抗を感じた。妖が厭う類の力が、微弱ながら発せられていたのだ。影法師があるじを害なす存在であったなら、接触と同時に牙を剥いたことだろう。例の短刀もかたかたと震え、影法師を警戒している。

 大した武具だ。あれだけの衝撃をここまで緩和させるとは。

「……何故、助けた。何故加減した。未熟だからと……僕を侮辱しているのか? まともな相手もできないと」

 足を庇って、少年の退治屋はまだ立ち上がろうとする。気息が耳をつく。その手は短刀を離していない。少年の瞳からは闘志が消えていなかった。ぽたぽたと額から鮮血が滴るのに、歯を食いしばって影法師を睨みつける。

 ふとおかしくなった。影法師が顔をゆがませると、少年が気色ばむ。

「何がおかしい!」

 笑われたと捉えたのだろう。血を拭うことも忘れて、乱れた呼吸を正しにかかった。ふらつく身体を何とか支え、大きく息を吸い込む。だが、その細い身体は武具に守られたとはいえ、大きな痛手を負っている。痛みは集中力を殺ぎ、術の威力も軽減される。加えて冷静さを欠いた状態だ。――平次と比べ、なんと未熟な。


 まがれ まがれ まがれ まがれ

 此の手は我が手にあらず 千早ぶる神の手なり


 少年は真言を唱え、短刀を鞘に納める。静かにその手のひらを合わせた。退治屋が術を組み立てているのに、影法師は動きもしなかった。ただ、肩を震わせ笑った。


 もろもろ悪事まがこと罪穢つみけがれ 魔渇化渇まかつかかつの眷族あらば この柏手を聞きて 禍あれ(まがれ)!


 左右に開かれた手が、ぱぁん、と打ち合わされる。降伏! の声とともに影法師の身体に何かが巻きつく。紐のようなもので、締め上げられた。縛魔の術である。だが、影法師がその気になれば、くたりと形を失う仮初の人形ものをどれほど締め上げようと、意味がない。

(本当に捕えようとするなら、あやつのように空間を使わねばな)

 それも完成度の低い術だ。綻びが見受けられた。これなら影法師でなくとも抜けだせる。

「何がおかしいんだ!」

 おかしいとも。

 平次を守るため、傷だらけになって追ってきたその姿と……それがわかって攻撃できない己が。滑稽だった。影で少年を薙ぎ払おうとした瞬間、平次の声がいくつも蘇った。


 人を殺めないと言ってくれないか。

 人を狩る以外の道はないか。


 たくさんの言葉が、影法師を躊躇わせた。天敵である退治屋を目の当たりにして、だ。それが影法師の攻撃を鈍らせた。致命的な傷を負わせられる瞬間は幾度とあったのに。


 惜しんでくれる奴はいても、守りたかった身内はみな逝った。

 喪失を恐れないのか。それとも、その恐怖を未だ知らないだけなのか。

 俺は、お前が人を狩る姿を見たくない。


(こやつの血でわしが濡れたら、ぬしは悲しむか。ぬしを知るこやつが倒れても……)

 気を失っている平次がもし目覚めていたなら、きっと二人を止めただろう。止めたと、思いたい。この少年だけではなく、影法師をも案じてくれたと。

 人形は自由を失って、膝をついた影法師は、ちらりと未熟な退治屋を仰いだ。油断なく影法師の動向を窺っているが、本当は平次の下へ駆け寄りたいのだろう。ぎりりと奥歯を噛み締めている。

「なぁ……、ぬしは退治屋だな。退治屋は、妖に倒されて死ぬことが本望か」

 妖に話しかけられて警戒したのか、影法師を縛る紐が絞られた。きり、と身の内に食い込んでくることを、影法師は甘んじて受けた。

「あと僅かと言われた命で、戦って死ねれば救われるか。死を望むものに死を与えるのは、慈悲か」

 平次のことだと気づいたらしい。少年に動揺の色が現れた。

「何を言って……」

 影法師を油断なく見据えていた目が、倒れている平次へ向かう。まさか、という乾いた呟きが響いた。思い当たる節でもあったのか。凛としていた顔つきが、わずかに曇った。

「出鱈目を言うな、平次さまがそんなことをするはずがない!」

 締め上げられても影法師は動じない。じっと視線を少年へと固定化させている。怯んだように少年の足が一歩下がった。

「……そんなこと、あるはずないだろうが!」

「わしを疑うなら、見れば良い。その身に新たな傷があるか」

 両腕の使えない影法師は視線で平次を示す。着物の合わせを開いてみろ、と。そこにあるはずの傷を見てみろと。影法師は縛られたまま器用に立ち上がると、いくらか後退する。少年は恐る恐る、動こうとしない平次へと近づいた。足を引きずって、平次の傍でしゃがみこんだ。

 影法師が平次に展開していた影を解く。抑えが外れ、瘴気の毒が煙のように立ち上った。

「こんなに瘴気が……」

 口元を袖で覆った少年は、もう片方の手で平次に触れた。だが、すぐさま火傷をしたかのように引っ込められた。指が赤く腫れている。少年の苦み走った顔から察すると、触れることさえ容易じゃないのか。覗いた平次の胸元は、紫にただれていた。何やら描かれてあった呪印は、意味をなさなかったか。心臓を越えて、わき腹の辺りまで浸食は広がっている。

 無表情を貫いた影法師とは違い、佐之助は顔面を蒼白にさせた。これでは……もう……という呟きが、平次の命がいくらもないことを告げる。それは誰の目にも明らかな事実だ。くくっと影法師が喉を鳴らした。

「お前がやったのか!? 平次さまをこんな風に」

「わしのせいだと転嫁すれば、さぞ楽であろうなぁ。この者はずいぶん前にあの傷を負ったようだが、よもや知らぬと申すか。長いこと苦しんでおったろうに、気付きもせなんだか」

 己の無力を人のせいにすれば、堂々と被害者として嘆くことができる。そう暗に指摘してやると、少年は短刀を取り出した。縛られた妖に向かって短刀を振り下ろすか。図星をさされ、逆上して。

 にい、と人形の唇が裂ける。

 そうだ。本来人とは嫉妬にまみれ、醜いものだ。幾度となく見てきた。この少年とて、例外ではない。簡単に影へと、闇の中へと落ちてくる。

 だが、平次はそうならなかった。

 平次は己の死期を承知で、術を展開した。――共にはいけない。その意思が込められていた。影法師を見殺しにもできず、退治屋として、人としての己さえ選びきれず、死だけを受け入れた。

 失望しただろうか。傷一つ負わせられず、楽にもしてやれず、不甲斐ない影法師に。

 だが、あの男は笑ったのだ。逃げろと言って。

 すべて受け止めて、自分はこれで満足だ、と。

 やり切れないのは影法師のほうだ。何故、そこで満足したように平次は瞼を下ろすことが出来たのか。自己満足――そう、ただの自己満足だ。微塵も影法師のことを考えない、浅薄な行動だ。身勝手な思いを押しつけて、さっさと逝こうとした。

(……わしのことじゃと)

 影法師は己の思考に息を呑んだ。

(わしは、あの男に、気にかけてもらいたかったのか?)

「貴様ああああああ!」

 刃が迫りくる。影が棘となり少年を迎撃すべく動く。自分だけは罪がないと真っ向からこちらを映す瞳を、汚してやりたかった。

 だが少年は踏み込んでこなかった。油の切れたからくり人形のように、後ろを振り返った。激昂した少年の裾が、引っ張られていたのだ。気を失っていたはずの平次が、少年を止めた。力なく掴まれた手を、若い退治屋は振りほどくことが出来なかった。

「佐之……がう……俺が……」

 耳を澄ませても聞こえないほどの、小さな小さな声。少年は思わず短刀を落とし、平次の手をつかんだ。影法師に無防備な背中を晒し、口元へ耳を寄せた。じゅ、と瘴気の熱に手のひらを焼かれようが躊躇いもなく。

「何ですか、平次さま。仰ってください、何ですか……平次さま!」

「……俺が、自分で……」

 平次が少年を通り越して、影法師を見つめる。まるで許してやってくれ、とでも言うように淡く微笑む。

 ――命とは、惜しまれるようなものなのか。

 再度その問いかけが胸を叩いた。必死に平次を抱きしめる少年の姿が、いつか見た子どものそれと重なる。肉親を失くして、泣きわめいていたあの光景と、これは同じものだ。影法師自身も先ほどああして抱き上げた。雑魚妖怪から守り、身体に悪いからと移動までさせて。

(あんな風に、わしもやっておったのか)

 愕然となった。この感情は何だ。妬心に呑まれていたのか。冷静さを欠いている。自分は、何をしようとしていた!

 両掌で、影法師は顔を覆った。迎え撃つために展開していた影が、するすると触手を引っ込めていく。影法師から闘志が消えたのを見届け、ふっと平次の意識は途切れた。少年が平次を揺さぶり、何度も名前を呼んでいる。

「平次さま、しっかりなさってください、平次さま、お願いです! 平次さま!」

 その隙に、影法師は封縛の紐からするりと逃れた。平次をぬらりとした影が包み込む。あ、と息を呑んだ少年の眼前で、男は影へと沈んだ。やめろ! と少年は手繰り寄せようとしたが、無駄だ。すでに男の身体は半分近くがずぶりと埋まった。引き込む力のほうが強い。

「なぁ、若い退治屋よ……。これを生かそうとするのは……この男の望みに反するか」

「平次さまをどうするつもりだ。生かそうと? 助ける術があるのか。妖のお前にどう出来る。お前たちが、瘴気を植えつけておいて!」

 噛みつくように少年が怒鳴る。できるはずがないと断定する裏に、切実な思いがあることを影法師は感じ取った。戯言は許さない、人の命を弄ばせる訳にはいかない、という憤りと、微かであれ希望があるなら、それに縋りたいという感情。我武者羅に振るわれた銀の煌めきが、影法師を一閃する。妖退治の刃は、影によって弾かれた。持ち主の手を離れ、くるくると回転しながら地面に突き刺さる。

「平次さまを……助けられるのか……?」

 僅かな可能性があるだけだ。頼みの綱とも呼べない、蜘蛛の糸のように頼りないかそけき光が。

 影法師は同じように沈みながら平次の頬をなでた。死の色は濃い。確実なものなど一つもない。

「待て! 答えろ影法師っ! 僕も連れて――」

 少年に一瞥を向け、影の妖はゆっくり瞼を下ろた。地表に波紋が広がり、たぷんと、消えた。

(火渡、わしはそちらへ行けぬ)

 古馴染は一言も影法師へ助力を求めなかった。恐らくはこれで良いのだ。

 この池の先に、神域を抱えた霊山がある。人も妖も踏み込むことの許されない、土地神と呼ばれるもののいる場所が。強大な力を持つと云われる土地神ならば、男の抱える瘴気を浄化することもできるのではないかと考えたのだ。

 ただし、そこから溢れる力に惹かれ、山の周辺は妖の巣窟となっている。影法師よりも高位の妖がどれほどいるか。土地神程の力を持つと称される鬼もいるかもしれない。

 そんなものに遭遇したら、影法師とてただでは済まない。いつもは人を喰う影法師が喰われる立場になることも、あるだろう。そこまでする価値が果たしてあるか、自問する。

(ふふ。どうかしておる)

 人間ごときに必死になって。

 影法師は生まれて初めて、願ったのだ。

 自分以外の者に、生きていて欲しい、と。





 土地神の住まう地があるとされる山へついた頃には、夕闇が迫っていた。緋の塊は、山裾に沈もうとしている。影法師の足を持ってしても到着にこれだけかかった。危険を出来うる限り回避したためだ。しかし逃げきれず負った傷もいくつかある。退治屋を退け、妖から逃げ回り、不甲斐ない己に歯がみしながら……ようやくここまで。

 火渡と人間の戦争はどうなった。

 頭の片隅でそんなことを思う。あれほど激しかった衝突が、現在は不気味なほど静かだ。恐らく夜を待っているのだ。妖の本領を発揮できる夜に、再び喧騒は始まる。

 そちらに気を割く余裕は、影法師に残されていなかった。影を周囲へ展開し、少しでも危険を察すべく神経をすり減らしてきたせいだ。

(もう少し、もう少しで)

 目的の場所へ踏み入ることができる。しかし、足を踏み出せずにいる。目指すところは目と鼻の先であるはずなのに。

 何かが違う。

 空気が変わったと、妖である本能が告げていた。ここから先は、普通ではない、と。

 入り込む前から畏れを感じ、身を竦ませた影法師は、己を鼓舞して慎重に歩を踏み出した。高位の妖たちの住む地を潜り抜けてここまで来たのだ。進まねばならない。

 緑が異様なほどに鮮やかな山だった。夏の終わりが近付いているはずだが、すでに秋のようなうすら寒さを感じた。鬱蒼とした木々から発する匂いが、湿気と共に立ちこめている。

(火渡の申した通りか)

 この山を支配しているのは人間じゃない。ここと比べれば、あれの隠れていた山はなんと貧弱なことか。

 他所にはない力強さがあった。太めの幹を持つ木々は大きく、苔むしていた。赤い木漏れ日が疎らに落ちてくる。山に流れる時間を意識させた。古来から、この姿のまま、この地はここにあったのだろうか。息吹を感じる。


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