13
男は護符を指に挟み、片手で印を切る。矢継ぎ早に紡がれる耳に馴染まない言葉は、一つ一つが影法師にとって良くないもの。忌避すべき音の連なりだ。纏わりついて動きを鈍らせる。徐々にそれは重さを増していく。糸程度だったものが紐ほどの強度へ、やがて綱となり網となる。一瞬で絡め取られてしまう。
破れぬものではない。影法師がその気になれば、力技で解除することは可能だ。
しかし、出来なかった。突然の出来事に思考が追い付かなかったためだ。感情が、現実の認識を否定していた。混乱していたのだ。
(……退治屋……? この男が?)
気付くと男の数が増えていた。そっくり同じ姿で一人、二人、三人……四人と現れる。幻術かと疑ったが、違った。草を踏みつぶしている。風に髪がなびく。実体がある。
式神だ、と悟った。術者は高位になると、人と寸分違わない式神を生み出せた。それらを利用し、より難度の高い術を操ることも可能となる。
四人に増えた退治屋は、一斉に身構えた。護符を飛ばし気息を整える。知っている。高位の術者ともなれば、呼気一つがすでに忌むべき術だ。吸って、吐いて、吸って、吐いて。呼吸のたび周囲の空気が、澄んでいく。それは澱みを払い、妖の存在を否定する。闇の入り込めぬ道が通じていく。
曲がものよ 禍者よ 呪いの息を打ち祓う この息は神の御息
この声は我が声にあらじ この声は神の声
踏み込む足の調子さえ全く同じだった。
大技を予感させた。耳に馴染まない言葉が、影法師の視界を惑わせる。内側から揺さぶられているのがわかる。
式を消さねばならない。影を、四隅へ散った男目がけて走らせた。ぶつぶつと文言を唱える男たちは、それを察していながら術へ集中している。護符がいくつも浮かんだ。だが、影の到着が早い。発動は、させない。一瞬で影は肉薄し、足元から伸びあがって対象を両断するはずだった。影法師が凍りついたりしなければ。
(どれが式じゃ)
寸前で、頭の中が真っ白になっていた。冷静であったなら見抜けられたはずだ。しかし、どれが紛いものかわからない。迂闊に攻撃しては、本物の平次まで屠ってしまう。その躊躇いが影法師を止めたのだ。胴を薙ぐはずだった一撃は、咄嗟に男たちの腹や手足をかすめた。
影法師は己の違和感にようやっと気付いた。
(そうか。これはわしの影を封じるものか)
最初にかけられた枷が、影法師の感覚を狂わせていた。簡単に壊せると侮っていた小さな術が、影法師の四肢を奪おうと、いつの間にか植物の蔓のように伸びている。もがけばもがくほど絡みつく。
文言を唱えるため目を伏せていた退治屋が、ちらとこちらを仰いだ。戸惑うばかりの影法師へ、無表情だった面を笑みへと改める。照れたような笑い方をしていた平次とは、似ても似つかない虚像の笑みだ。顔だけでやさしく微笑んでいる。
総毛立った。――それは、影法師がかつて浮かべていた笑みだという自覚はなかった。単純に、腹立たしかった。自分の中に存在していた仄かな『何か』が粉微塵に砕かれたような、失望に襲われる。奥歯を噛み締めた影法師は、落ち着け、と自らに言い聞かせた。
(小賢しい。術中に落ちるなど、わしもまだ、甘い)
あれが、影法師を揺さぶるためのものだと理解していて、安易に引っかかってしまう。揺さぶられるな。平静であれ。影法師は己に絡みついた枷を見下ろした。これに抗う必要さえなかった事実を忘れていたほど、衝撃を受けていたとは。
研ぎ澄ませよ。
影法師は人形の瞼を下ろした。無理に抵抗することはやめた。これは人の形をした力の塊だ。縛られているのは、我にあらず。人形に集中していた感覚が、一気に広がっていく。研ぎ澄ませよ。研ぎ澄ませよ。式神(紛いもの)ではなく、本体を探れ。枷に逆らわず手を伸ばせ。我は影。正体のないもの。捕らわれることなし。研ぎ澄ませよ。研ぎ澄ませよ。
影法師の展開していた影が呼応する。夜ほどではないが、光の下に生まれる闇の中で蠢く。それは光がある限り必ずいずるもの。影。退治屋にかけたれた術は人形に集中している。ならば、それ以外のものを使う。末端へ至るまで感覚を研ぎ澄ませ、違和を探す。影法師にとって善くないものを、嗅ぎあてる。
天神地祇 辞別けては産土大神
神集巌退妖官神々(えうくわんのかみがみ) この霊縛神法を助け給え
声が響く。四方から、否、一方から。四方にあるものは全て違う。精巧に組み立てられた虚像だ。そのさらに奥から強い力の脈動を感じる。整えられた気息が闇を払う、忌むべき力の塊。影を拒絶する言の葉。紛いものとはまるで違う。
(捕えた)
あれが平次。
あれが、真実の平次の姿。
男の周辺だけが輝くようだった。木陰に差し込む光は、陽の光ばかりではない。細かな粒子、一粒一粒が力の塊だ。両掌を合わせ、捻り、指を組む。無防備に立っているようだったが、違う。簡略化された儀式に、影法師は一定の距離を開けて見入ってしまった。それが命取りだと百も承知で、手が出せない。
(本当に、退治屋だったのか)
退治屋とは、文字通り妖を退治して生計を立てている者たちのことだ。妖怪の天敵である。
多くは人数で押し、寄って集って妖を仕留める。武器で攻撃するもの、護符や術を駆使して補助に回るものなど、それぞれ役割を持って。だが、才に恵まれたものは単独で妖を相手にすることもできる。この男もそれか。
困々々(こんこんこん) 至道神勅 急々如塞 道塞 結塞縛 不通不起
術者が振り返った。不気味な力に圧倒され、影法師の足が一歩分引いた。感情を映さない目は、冷たく透明な色をして影法師を見定める。無感動に振り下ろされた右腕は、標的の確定を促すものか。影法師は四方を見渡した。式神たちの姿があぶくのように消え、そこに護符が宙に浮いている。描かれた文字が、赤く染まった。
(式はあの呪符を守るため、わしの目を欺くためのものでもあったか)
場数を踏んでいる。己の身さえ餌に使い、影法師の隙をついたか。まったくもって小賢しく、嫌らしいやり口だ。
縛々々(ばくばくばく)律令!
影法師を中心に据えて、札のある四方に壁が生まれた。それがぐんと狭まる。足元も地面から切り離された。ぐん、と日向へ強制的に移動させられる。手近な影から切り離す目論みか。
手を伸ばすと、ばぢりと紫電が弾けた。目と鼻の先に、壁が存在しているのだ。一定の位置から身動きが取れない。『影』さえ通さないのだ。僅かな綻びも感じられない、完成度の高い結界だ。それを短時間で組み上げた高い技術に、感嘆させられる。
次に退治屋が紡ぐ文言は、影法師を滅するためのものか。調伏するためのものか。使い潰され、骨まで利用される悲惨な末期を辿らねばならぬのか。
(ふふ。舐められたものよ。この程度の結界なぞ破壊してくれる)
影法師は力を膨らませていく。光がなくとも自力で影を生み出すことは可能である。人形はそのために本来あるのだ。すでに数百年と生きていた。多少力に覚えのある程度の退治屋ならば、逃げきれる自信があった。否、逆襲することだって可能だ。幾人もの退治屋をこれまで相手にしてきたのだ。負ける気はしない。
退治屋は、まだ影法師を屈服させていない。限定された範囲内であっても、影は自由に動かせた。ならば身に潜んだ力を解放し、結界を破裂させることも可能だ。容量からあふれ出る力を、退治屋が抑えきれるか……勝負。
「油断したわ。退治屋ごときに一本取られようとはなぁ!」
影法師の身体から、真っ黒な靄が立ち上った。それが結界の内側を満たし、渦巻いていく。何もなかった空間に、真っ黒な四面体が姿を現した。その体積が、ぶれる。内側から押し広げようとする力と、捕えようとする力が衝突した。弾ける紫電がそこここで出現する。
影法師は、生み出した影の中心から、男を睨んでいた。しかしそれに闘志や覇気が乗らない。
――退治屋ごときに、心を、許しかけていた。
共に過ごす時間を待ちわびていたのか。そうでなければ、裏切りにあったと感じるはずがない。悔しさ以上に悲しさが胸中を満たすなど。傷ついているなどと! 場所を変え、姿を変えても探し出してくれることが、嬉しかったなどと。
退治屋であったならば、妖怪を探すことはそう難しくなかっただろう。陰術を駆使できるなら、気配を消すことも容易いはずだ。出会ったばかりの頃は、それを訝んでいたのに。
なぜ、気づかなかった。その符号はいくつもあったのだ。……男が肩に負った傷さえ……
そのとき、ぴしりと結界に亀裂が走った。外気へあふれ出た影は、逃れようと暴れまわる。同時に結界を揺さぶった衝撃が、退治屋を襲った。強力な呪術は、手順を踏まずに破ると術師に跳ね返ることもある。護符を構えた男の腕からつうと赤い血が伝った。
影法師は息を呑む。強引にこじ開けたら、男にどのような影響が出るか。
躊躇いが勝った。安定した結界の内側で、真っ黒な煙のような塊は影法師の身の内へ戻っていく。
「……神妙だな。もう暴れないのか」
影法師を捕えた退治屋は、今にも両膝をついてしまいそうだった。玉の汗をびっしりと浮かべ、一時も影法師から目を離さない。拮抗する力を前にして、余裕がないのだ。影法師を捕えるだけで、相当な負荷をその身に課しているのか。引き裂かれた手の傷から滴る赤が、服を汚していく。
「なぁ、人を襲うぐらいなら、どうして俺を喰わなかった。機会などいくらもあったろう。俺は、他の人間より霊力が溢れている。美味に見えたのではないか」
「ならば問い返そう。ぬしはなぜ、今までわしを放っていた。何故今、わしに留めを刺さなんだ」
親しげに話しかけて、油断を誘っていたのか。
今まで影法師が見ていた男は、すべてまやかしだったのか。先ほど垣間見た姿が本性か。
「答えろ退治屋!」
男は自嘲ともとれない笑みを浮かべる。
「言ったろう、お前に惚れたと。お前に喰われるなら、悪くないと」
退治屋を凝視していると、力尽きたのか結界がほどけて消えた。男は背中を丸め、激しくせき込んでいる。口から血が溢れているのがわかった。影法師は、それに不穏なものを感じずにいられない。最初に出会ったときからあった悪い予感が、ひしひしと足元を這いずりまわる。
「ずっと死に場所を探していた。生きる術を見いだせぬなら、せめて強い妖に見えようと流離った。死んでも構わぬと、捨て鉢になって。それすら今となっては難しい」
手のひらに落ちた己の血液を見て、男は自嘲した。
「俺の身体……お前なら、わかるだろう」
影法師の表情が険しいものになる。促され、嫌々口を開いた。
「もう長いこと患うておるな。退治屋であるなら人より瘴気を被りやすい。……ぬしは戦うなと、忠告を受けたことがあろう」
退治屋は寿命が短い。それは妖との接触が多いためだ。戦闘で命を落とす者も多いが、それを免れても瘴気に心身を蝕まれやすい。この男もその例に漏れなかったのだ。自力で払えぬほどの穢れを、出会ったときからすでに負っていた。
影法師の推論と事実は、全く逆だった。
「霊力が人よりかなり高い故に、妖を招いたであろう」
吐血した口元をぬぐった退治屋は、曖昧に笑うばかりだった。それだけで男が退治屋をしている理由も想像がつく。恐らく男は、その体質ゆえに孤独だったはずだ。妖を招く。ときに大物も喰いついただろう。周囲を否応なく巻き込む災いの種。男の身内も、その災厄を免れなかったはずだ。
(だからこやつは、人間の娘を選べなかったのやもしれぬ)
人の娘に近づくと、災いに巻きこむ可能性があったから。
己を責めただろうか。恨んだだろうか。
妖や怪異と関わる生き方しか、男は選択できない。呼ばずとも寄ってくるので、一か所に留まることも許されなかったはずだ。退治屋として恵まれた才は、人として決して幸せを運んでこない。
退治屋の報酬は莫大だと言う。それなのに、あんな町はずれの崩れかけた小屋で、孤独に暮らしていたのは。
(この男は、人から一線を引いておったのだな)
心地良いと感じた場所ほど、遠く眩かったはずだ。平穏を望むなら、周囲を道連れにしないだけの強さが必要になる。退治屋に身を落とすのは当然のことか。幼いころから苦労をしただろうと想像できた。
退治屋は問題が起こると引っ張り出されるが、片がつくと疎まれた。人ならざる者と対峙する手段の多くは、人を殺す術でもある。それが研ぎ澄まされればされるほど、人の世に居場所を失くしていく。死臭を漂わせる者たちは、畏怖され、敬遠される。文字通り命がけで妖怪を退治しても。
退治屋に落ちた者は、多くが訳ありだ。そうならざるを得なかった過去を持つ。進んでこの道を選ぶ者は、少ない。