11
街から離れれば暗がりを好む物騒な獣や妖……さらに旅人を狙う山賊も潜んでいる。のこのこ出張る人間を見逃すはずがない。
(しかもこの先は、禁域が控えておる。よもやそこを目指すなどと言うまいが)
ちらりと隣を進む男を盗み見た。街道を進むうちはいい。人間もすべてが愚かではない。禁忌とされる地は迂回し、道を敷いてある。だが、そこから故意に外れる危険を、影法師は意識せざるを得ない。
(どこへ向かう)
そうでなくとも、近頃は妖たちがざわついているのだ。今日もまた影法師の耳に飛び込んできたのは、不穏な噂ばかりだった。どこぞの人間が襲われ、怪我をした。どこの子どもが行方不明だ。あちらで女が死んでいる――
騒動が徐々に激化している。影法師が狩りを行っていたころより、それらは顕著で不気味だったのだろう。子どもは昼間であっても路地から姿を消した。さらわれるのを恐れてのことだ。商店の店じまいも早い。夜には人気が失せて、魑魅魍魎が町を跋扈した。
妖たちと人間たちの不安や不満が渦巻く中、呑気に遠出しようとする平次は、異常だ。
危険ではないかと影法師が忠告した。振り返った平次は、それもそうかと頷いている。
「じゃあ、山へ入らず迂回しよう。遠回りになってしまうが仕方がないな」
「……ぬしは、身体の具合が良うなったのか」
それは、無理をして平気なのか、という問いかけだ。あまり遠くなるようなら今からでも遅くはない。引き返すべきだ、という控えめな主張だ。しかし、からりと男は笑い、自分の胸板を叩いた。大丈夫だ、と。
「だが疲れたら休みを挟む。無理をするつもりはない。お前も疲れたら遠慮なく言えよ」
さあ行こう、と踏み出した平次は元気だ。昨日言ったように、本当に近頃は調子が良いのだろうか。平次の具合を思い出し、少々影法師は憂鬱になった。気が乗らないのだ。この時期に出歩くなどどうかしている。
「遠出をするなら、なぜ昼を選ばん。こんな真夜中に出歩かんでも良かろうて」
「何をいまさら。日が暮れないと会えんくせに」
「……何を見せようと申しておったか。遠くか?」
「そうだな、少し歩く。喜んでくれたらと思うが……ああ、いや、口にしては面白みを欠くか」
内緒だ、とはぐらかされてしまった。何度か尋ねても、そうと決めてしまっては決して口を割らないのがこの男である。影法師はそれを意識しつつ細い道を並んで歩いた。人のいない夜道は酷く静かで不気味だった。夏の生温かい風が、肌をなめていく。
見通しの良い道を歩くので、明かりが勿体ないと平次が火を消した。田園が続く一帯は、視界を遮るものが少ない。閑散と感じるのはそのせいか。もっとも異存はなかった。行燈を点けていては、ここに餌があると宣伝して歩くようなものだ。光に誘われて何が出てくるかわからない。人や獣なら良い。二十や三十沈めてくれよう。だが影法師より高位の妖が出てきた場合、己の身を守ることで手いっぱいになる可能性もある。
(滅多にないがな。奴らはそう動かんし、ここは人里に近い)
だが警戒するに越したことはない。妖の人への恨みや憎しみは、日ごとに高まってきているのだ。
先日、火渡の噂を確かめようと影法師は奴を訪ねた。町をたむろしていた妖を捕まえて、案内させたのだ。奴は、山の奥でひっそり息を潜めていた。長らく住み着いていた場所とは違う。間に合わせの穴倉である。そこからのそりと出てきた火渡は、影法師の知る奴とはまるで違った。奴はもっと自信にあふれ、快活だった。一か所にじっとしていられないほど、己の力を持て余していた。
影法師か、と呟いたその姿は、老いて見えた。落ち着いたといえば聞こえは良いが、諦観が滲むさまは『らしく』なかった。
「……火渡、その姿は」
澱んだ声は、影法師の衝撃をつぶさに伝えたことだろう。赤毛の猿に似たそれは、くくっと喉を鳴らす。いつもならゆらゆらと背後に見え隠れしていた、火渡自慢の尾が、途中でなくなっていた。斬られたのだ、人間に。尾だけではない。鋭い爪を持った左手も失われている。信じられなかった。
「久しぶりだなぁ、百年振りか」
立ち尽くす影法師の前で、火渡の姿がゆらりと歪む。人の姿へ変化したのだ。燃えるような朱い髪の男に、左腕はやはりなかった。どっかりと手近にあった岩へ腰を据えると、形だけまとった服が風になびく。すると左そでの部分がしわを寄せながら、流れるのだ。影法師の目線に気付いた火渡は、つまらなそうに着物の袖をつまんだ。
「ああ、これか。突然の襲撃でこの様よ。いんや、あれは罠か」
火渡は助けを求めて転がり込んできた妖に、騙されたのだ。その妖が、人間の手下だった。助けてくれと縋ったそれに導かれた先で、退治屋が罠を巡らせていた。意思を縛られ、身体を操られたかつての仲間は、虚ろな目で火渡に襲いかかったのだ。
「絶対の服従だとよ。そりゃあ退治屋に負けた奴が悪いし、騙された俺が間抜けなのよ。しかし寝覚めが悪いっちゃありゃしねぇ。奴らはこき使われた揚句、その骨やら何やらまで武器だ、鎧だに、変えられちまうんだとよ」
黙する影法師は憤りを隠せなかった。人間に負けただけで恥なのに、さらに縛りつけられ使役されるのか。晒しものになって、仲間の妖へと襲いかからねばならなくなるのか。なんて屈辱だろう。
果ては妖の持つ頑丈な骨や牙、妖の持つ固い鱗や甲羅……躯まで利用されると言うのだから堪らない。それらは加工されて武具となるのだ。死体の山が、人間を強くする。どちらが野蛮なのかわかりゃしねぇよ、と火渡は吐き捨てた。
「俺も、そうなるところだった」
はっと我に返って影法師は火渡を見つめた。
「必死の抵抗って奴だな。屈服されてんのによ、逃げてくれ、罠だっつった奴がいた。その直後、用なしだと首折られて捨てられたがな」
――酷いものでした。唐突に住処が方々から浄化され、逃げたところを端からなぎ倒されて。何の力も持たぬ妖まで、無差別に襲われたのでございます。
いつか、人の髪が好きな鳥の妖がそう教えてくれた。あの唐耶が見たもの以上の惨劇を、火渡は目の当たりにしてきたのだろう。
斬られた尾と腕がどんな使われ方をしているのか、想像したくないねぇ、と火渡が自嘲気味に喉をならす。その身の内に、燻る炎を宿らせて。
(人とて、妖と変わらぬわ。どこまでも残虐に、残酷になる。あれの厄介なところは、その自覚を持たぬところよ)
人同士でなぶりあうことも出来るのだ。虐げ、殺し、攫い、奪う。各地で起こる戦がその証だ。行く先々で火の手はあがった。町村を見つければ攻め入り、賦役にも参加していない女子供まで、容赦ない。ため込んだ財は根こそぎ奪う様は、獣のよう。
どこまでも醜く、凶暴な性質を秘めている。そのくせ陽の元にいて、妖とは違うと断じる。
「奴らはやべぇ。きっとこの先、喰われるのは俺らのほうだぜ」
くく、と暗い笑い声が闇夜に震える。刃を付きたてられたような悪寒を、影法師は感じた。
「それでぬしが立つのか。そのようなことせなんでも良かろうに」
面と向かって人間と争う必要はないのだ。時間をかけ、じわりじわりと人の世に広がれば良いと影法師が主張する。それは今までと変わらないやり方だ。世界は昼と夜とがある。陽と陰だ。昼の世界を統べるのが人であるなら、夜の世界を統べるのは妖である。絶妙な均衡の上に成り立っている。
「それじゃ遅ぇんだよ」
火渡は一言の元切って捨てた。
「闇はこの先切り取られていく。住処はどんどん奪われていく。俺にはそれがわかっちまう。見ろよ影法師。この山、こんなに小せぇもんだったか?」
ぎくりとなった。
影法師の反応を小気味よく感じていたのだろう。あの日の火渡は饒舌だった。
「ここらは太古から育てられた木々があったはずなんだ。こんな貧相な木じゃなくてな。人の手が入った山は、『山』じゃねぇ」
人がどんどんその領域を伸ばしていることには、気付いていた。闇を、自然を、侵してはならぬ領域を、人は容易く踏みにじっていく。どれだけの『神』が失われただろう。殺されただろう。混沌としていた時代は、終幕を迎えようとしている。
火渡の示した未来は影法師が薄々感じていた不安と同じだ。今はまだ良い。だが、百年後、二百年後……その先を見据えたとき、妖に未来はあるのか。人の脅威はその知恵にある。時間はあちらの味方だ。確実に流れゆく時の中、変わろうとしなかった妖もまた、変化を求められているのか。
「これはもう意地なんだ。止めてくれるなよ」
火渡は決して逆上してはいなかった。むしろ冷静に現状を把握していた。その上で妖を率いて人間と対立すると言うのだ。率先して人狩りを行っていた昔を思えば、ずいぶんと丸くなった。あの揺るがない炎のような意思に惹かれ、妖たちは集まるのか。
(だが、その役をぬしが負う必要はあるのか)
今の火渡では力不足が否めない。もっと成長してからでも遅くなかったはずだ。その役を、もっと上位の妖に委ねることだって――
影法師は沈痛なため息をついた。高位の妖たちは、低級がいくらざわめいたところで何の痛痒も感じない。彼らが動くときは、己に関連したときのみだ。東の騒ぎさえ歯牙にもかけないだろう。火の粉が降りかかるまで傍観を決め込むのだ。
もっとも影法師とてそれは変わらない。率先して面倒ごとに手を出すなど、愚の骨頂である。
(あのたわけが)
本心では、止めたかった。
火渡は、大妖になる素質を秘めていたはずだった。こんなところで折れてもいいのか。
他の妖など放って、力を蓄え、己のことだけ見ればいいと、言いたかった。
(……妖をも喰らうのが人間か。あのたわけ者が……)
妖が人へ近づくのと、人が妖に近づくのと。
ぬるい風が稲穂を揺らしていた。ほどなく夏も終わりを迎え、秋が訪れる。虫の音も、涼やかなものに変わっていた。だがまだ蒸し暑いのだろう。隣では男が汗ばんで歩いている。そのとき、チカリと小さな光が視野に入った。ぼうっとした青白い光が闇夜に浮いている。
「なんだ、明かりが」
皆まで言わせず、影法師は平次の口を塞ぐ。そのまま押し倒し草むらに身を伏せた。遠くに見えたふわふわと宙を漂う光は、狐火か。一つだけではなく、二つ、三つ、と見る間に増えた。木立の中を、列をなしてぞろぞろ山へと進んでいく。あれは妖の集まりだ。
呼吸さえ忘れて見守った。数が多い。両手では収まらない。どんどんその列は続いている。影法師であっても、単体で大量の妖を相手するには限度があった。まして、人間を庇ってなど……
鼻の利く妖ならば、この距離であってもこちらに気づくかもしれない。緊張が高まった。位置はこちらが風下である。大丈夫、見つかりはしない。伏せさせた平次が顔を上げる。それを上から押さえつけた。顔の白さは闇の中で浮いて見える。他の部位に比べて目立つのだ。
光がぞろぞろと通り過ぎ、しばらく様子を窺って、ようやっと影法師は平次を解放する。急いでこの場を離れることを伝えた。他方からも何かが寄ってくるかもしれない、と。
予想以上の数であった。人間に不満を抱く妖は、これほどまでに多いのか。
草をならして走りながら、平次は興奮した声を出した。
「ははっ、驚いた。さっきの光は妖か。ずいぶん多かったな。山へ入らなくて正解だ」
「見つかっておれば、ぬしなど酒の肴にされようぞ」
あれは恐らく東から流れてきた連中だろう。この近辺の妖は、影法師の知る限り大人しいものだった。あまりに暇で、影法師など必要ないのに人を襲ったほどだ。だが、近頃は一変している。人に恨みを持つものへ感化され始めている。
今宵の集会は、何やら不穏なものを感じさせた。全ての妖を確認したわけではないが、人間との共生を望む穏健派の姿がなかった。
(決起が近いということか、火渡)
苦いものがこみあげる。不意さえ撃たれなければ、恐らく妖側に分があるだろう。しかしこんな衝突に加わるものたちは、火渡を筆頭に良くも悪くも一途だ。狡猾に挑もうとせず、正々堂々と真正面から打って出ると予想できる。それが彼らの誇りだ。
そして、弱みでもある。
影法師は人間を決して侮っていない。ゆえに、旗色の悪さに気付いていた。火渡もそれは承知しているだろうが――
影法師は唇を結んだ。町からこの男を連れ出せたのは運が良かったのやも、と考えを改める。このまま遠くへ連れて行けば、巻き込まれずにすむかもしれないのだ。
「お前は行かなくてよかったのか」
「何故……、わしが行かねばならん」
予想以上に不機嫌で重たい声色となった。男がきょとんとした。
強制的に集めようとするなら、影法師が屈する相手でなくてはならない。妖はほぼ完全な格差社会だ。力がすべてものをいう。高位の者による呼集だったら出向いただろう。しかし、今回は……。
影法師の苛立ちに気付いたのだろう。男は苦笑を浮かべた。
「なるほど、そちらの社会も一枚岩ではないか」