10
『彼女』はああして、時折平次をどきりとさせる。恐らく無自覚なのだろう。平次に見せる刹那の柔らかさが、棘となる。妖なのだ、と自らを戒めなければ己を止められない。
好きだ。
好きだ。
好きだ。
その思いが一番の障害になっていると、承知している。
容易く触れることさえ許されない相手だと。決して結ばれることのない相手だと。
惚れている――等と、気安く言える以上の感情を、抱いてはいけないと。
「わかっているのに……そろそろ限界か。もっと時間があれば」
するりと口をついた言葉に、平次は愕然とした。
時間があれば、何になる? 何のために時間を欲している? 浮かんだ答えにぐしゃぐしゃと髪をかきまわした。そうして手のひらを見下ろす。数年前では考えられない程、握力が落ちた手を。床についてばかりで筋肉の殺がれた身体を。
そのとき、木戸を叩く音が響いた。小さく控えめなそれに、平次は表情を改める。影法師が去ってから、妙な気配があったのだ。いつでも戦えるように神経を尖らせながら、平次は懐に小刀と護符を忍ばせる。戸にゆっくりと近づき、開けることなく誰何した。いつでも蹴破れそうな扉にも護符は貼ってある。『彼女』は難なく突破したが、平次の許しがなければ本来は開かない。押し通るなら、護符で強化した扉を壊すしかない。
少し高い少年の声がぼそりと何事かを囁いた。平次はその聞き覚えのある声に、苦笑を洩らす。佐之助だ。走ったのか、息を切らせていた。戸は開けずに、平次は話しかけた。
「律儀だなぁ。わざわざ知らせになど来なくてよかったんだぞ」
「明後日の決行が、決まりましたから。つきましては……再度招集に応じて頂ければと、思いまして」
「そんなことを重蔵が言うか? くたばりぞこないを引っ張ったって、仕方ないだろうに。必要な情報はすべて渡したろう。あとはお前たちの問題だ」
「ですが、平次殿が居られるのと居られないのでは、士気が――」
平次は苦笑した。あなたが心配なのです、と佐之助が訴えているのが伝わってきたためだ。
思い出す。六郎爺さんを連れて、一日ほど歩いた山間の小屋に待ち人はいた。佐之助が教えてくれた女性は、やはり六郎爺さんの娘のたえだった。たえは、柳のようなほっそりした女性、日和と共にいた。六郎を見てとると涙を溢れさせた。しがみついて離れようとしなかった。気丈な人が、幼い少女のように小さくなって身体を震わせた。
一晩のうちに何があったのか。何をされたのか。たえは決して口を割ろうとはしなかった。佐之助が言うには、彼女はどこかへ運ばれている途中だったようだ。妖たちの不穏な動きを、平次は楽観視し過ぎていたのか。
激しい後悔が渦巻いた。たえが大怪我もせず生きて戻っただけでも僥倖だったとは、思えない。偶然重蔵たちが通りがからねば、たえの命は失われていたはずだ。
平次を責めず――むしろ感謝の言葉を並べる六郎に、顔向けできなかった。気休め程度の護符は近所に巡らせていたが、その網を抜けると効果はない。少し力のある妖になると、悠々と通り抜けることも出来る。これは、平次のおごりが招いた結果なのだ。
「俺が、もっと気を張っていれば……」
この親子が傷つけられずに済んだのに。
すると、突如左肩の辺りに激痛が走った。身の内でお前のせいだ、と罵る声がする。お前が至らないせいで、彼女はああなったのだ。お前は人の痛みが理解できない冷血漢だ。ありがとう、とあの爺さんは頭を下げたが、違うよな。あの言葉を受け取る資格も持たないよな。
(そうだ。俺は……見殺しにしようとしていた)
妖を退治する者として些事を切り捨てようとした。大事の中の小事にかかずらってはいられない。そんなものより大局を見据え、どう動くことが最善か考えていた。身体に染みついた習慣だ。根幹を取り除くべく枝葉は無視してきたが、それにだって痛みはあるのだ。頭の中でわかっていたことが、まるで理解しちゃいなかったと痛感する。
一際鋭い痛みが走り、視界がぐるりと回った。目の前が暗転する。平次、と己を呼ぶ声が聞こえ、揺さぶられた。だが、それさえ遠くなる。あの日は、みっともなく大勢の人間のいる前で、気を失ってしまったのだ。
目覚めたとき、心配そうに顔を覗きこんでいる四角い顔があった。厳ついそれを歪ませるのは、重蔵だ。目を転じると、その妻日和の姿もあった。そして叱られた。お前は何をやっているんだと、声を大にして。殴られそうな勢いだった。
あなた、騒がないで。
そう重蔵を止めたのは日和だった。日和は柔らかに微笑む芯の強い女性で、治癒の力を持つ特別な人だ。その特別さゆえに、孤独を強いられてきた人だった。妖に狙われる中、重蔵と平次が彼女を助けた過去がある。
平次はこの傷を受けたとき、彼女なら助けてくれるとたかを括っていた。死をもたらす瘴気さえ笑い飛ばせた。しかし頼みの綱の日和は、払えるはずの瘴気を、払えなかった。……妊娠していたのだ。他者と交わった穢れが、彼女から類稀な能力を奪っていた。
愕然としたのは平次だけではなかった。日和自身が混乱し、狼狽え、泣きだした。彼女は自分が妊婦である自覚もなかったのだ。その中で一番衝撃を受けていたのは重蔵だった。日和が腹に宿したのは、重蔵の子だったから。
その後、平次は仲間の元を離れた。元々単独行動の多かった平次が欠けても、退治屋の一門に迷惑はかからない。重蔵と日和の仲を、ぎくしゃくさせるようなことはしたくなかった。
――平次! どこへ行くんだ、その身体で。
――都。そこなら瘴気を払える者について、何かわかるかもしれないだろう。じっとしているよりよっぽどいいから。
腫れものに触わるような同僚たちと、重蔵と日和の悲壮さに堪えていた。にじり寄ってくる『死』に怯えた、無様な姿も晒せなかった。一度それを許してしまうと、歯止めが利かなくなりやしないかと恐れたのだ。死への恐怖心を抑えきれず、仲間に当たり散らすのではないか、と。彼らは――特に重蔵と日和の二人は――平次の暴力を甘んじて受けたはずだ。
その確信ゆえに、平次は発ったのだ。己の弱さや惨めさから蓋をして。
(やはり、ここには来たくなかったなぁ)
頭領の後を継いだ重蔵がいて、日和がいて、同じ一門の仲間たちがいて。大切だからこそ、重荷になることは避けたかった。飛び出して二年が過ぎようというのに、色あせない。
――お前、日和を好いてたんじゃないのか。俺は……お前に何度謝っても謝り足りない。どうしたらいい……
――重蔵。俺は元々風来坊だったんだ。変わらないさ、何も。お前が負い目など感じなくていい。絶対この怪我、治してくるから。
そんなやり取りを交わした過去が、遠い。
久方ぶりに顔を合わせた二人は、父親と母親の顔をしていた。二人の間にできた赤ん坊は、日和の腕の中にいた。日和は綺麗な顔を蒼白にさせながら、目をそらさず無言で処置に当たってくれた。
それだけで良くないのだと、平次は穏やかに悟った。唇を噛み締める彼女から見ても、肩の傷は悪化しているのだ。怪我が治らない限り妖に関わるなと、口を酸っぱくして警告を受けたが……ここいらが限界なのか。二年は持ったと思うべきなのか。
佐之助が駆けてきたのは、そのためだろう。何のかんのと理由をつけて、心配してくれている。一人で倒れたりしないよう、孤独を感じさせまいと。
「俺がいて何になるよ。大丈夫だ、お前たちは強い。そうだろう」
重蔵を中心に、退治屋の一門は活動している。平次がいなくても機能している。その事実は曲がらない。曲げようがない。
すん、と洟をすする音がした。泣いているのだろうか。
「すみません……差出口を挟みました。残念です、……本当に……平次さま」
戦えないという言葉を吐かせることなく、すっと少年は身を引いた。そこに惜しむ色が窺えて、平次はひっそりと笑みをこぼした。やさしい少年であると知っている。合間を見つけては足しげくここを訪れてくれた。甘味だ、果物だ、酒だ、と置いて行くその背景に、かつての仲間の励ましを見た。元気でやっているか。ちゃんと身体を休めているか。無茶をしていないか。言葉のない言伝を、そこに。
「佐之助」
去ろうとした気配に声をかけた。平次は一まとめにした荷物を引っ掴むと、戸を開けた。最後まで開けまいと律していたが、あんな声を聞いてしまっては仕方がない。振り返った少年に向かって、放り投げる。
「お前にやる。大切に扱え。――気をつけろよ」
佐之助はそれが何かわかったのだろう。息をのんで立ち尽くした。やがて顔をこすった少年から、「はい」と折り目正しい返事が戻ってくる。伸ばした背筋のまま、深々と頭を下げたのがわかった。踵を返して駆けていく背中を見送ると、ふと寂しさがよぎる。
もう、彼らと会うこともないかもしれない。
平次は疼く肩に触れた。熱い。そこだけ燃えるような熱さを感じている。平次が生を諦めたとき、この痛みに屈したとき、傷は総身へと広がるのだ。この痛みや熱は生きている証――自分が戦っている証とも呼べた。
着物を脱いで上半身を剥き出しにすると、肩から胸や背中にかけて黒い文様が描かれていた。傷を癒すためのもので、鎮痛の効果があると聞いている。そこへ水を浸した手拭いをあてた。
「……っ」
歯を食いしばって痛みに耐える。手ぬぐいはすぐに温かくなった。それをまた水に浸し、何度も肩にあてて熱を取る。こうしていると多少楽になるのだ。
――気休め程度の効果しかありません。でもこれぐらいしか出来ないから……
日和がこの文様を描いてくれた。しかし日を追うごとに痛みが増す。気休めにしかならないとの言葉が、内側をがんがんと叩いた。
死が、じわりと染み込んでくる。自分ではないものが、身の内側に溢れだす。
侵食される。
強がって旅立ってからはずっと孤独だった。向かった都でもろくな情報はなく、恐怖と戦う日々が続いた。それほど瘴気を払う力は珍しい能力なのだと痛感した。方々を流れて治癒の手段を求めたが、わかったことは絶望的な未来だけだ。
癒し手の日和を奪った重蔵を恨んだことは、一度ならずあった。彼女の能力が失われていなければ、と。
だが瞼の裏に現れる二人は、悲痛な表情ばかりしている。特に日和は、両手を顔に当てがってぽたぽた涙をこぼすのだ。
すまない、平次、すまない。ごめんなさい。何もできなくて、ごめんなさい。
ごめんなさい……
幸せそうに微笑んでいるなら、平次とて遠慮はしなかった。罵って、憎しみを抱くことができた。しかし誰よりも親しかった二人が謝る姿は、実際目の当たりにしたものだ。それが平次の暗い感情の矛先を変えてしまう。発散する当てを見いだせず、降り積もる闇が身の内で凝る。一人なのだ、と孤独を噛み締めた。
この町へ居ついたのは偶然だった。その頃には旅さえ続けられない己の身体に、気が滅入ったものだ。死を待つしかできないのか。見知らぬ者たちの町でひっそりと逝くしか。
人が襲われる物騒な噂を耳にしたのはその時だった。自棄になって夜の町を出歩いたのだ。もういいか。殺されても構わないかと。それなら最後に退治屋らしく、妖を探ってみるかと。
そして出会ったのだ。
不吉と呼ばれる赤い月の夜に。
舞い散る桜の花びらが視界を惑わす中、それはいた。
(俺は、ちっとも悔いてないんだ、重蔵)
影法師と出会ったこと、惹かれたことを一切悔やんでいなかった。身の内にこれほど強い感情が存在したのだと、安堵したほどだ。なんだ、俺の人生まだ全然枯れたもんじゃない。まだ誰かを好きになることができるのか、と。
(だから好きにやらせてもらう)
親しい者とも別れはできた。同胞とは別の道を歩むことだってできる。
どう行動したら良いか、正直なところずっと迷ってきた。ぐらぐらと小船のように揺れて、進まないのも手かと苦笑もした。
しかし、と平次は拳を握りしめる。
「まだ俺も、戦える」
明晩、「見せたいものがある」と影法師は平次に連れられ、街を出た。どうしても今夜行きたいのだと説得されたのだ。周囲に広がった田園を越え、街道を進んでいく。常に聞こえていた潮の音が、徐々に遠ざかる。隣を歩く平次が持った行燈の明かりが、頼りなく揺れた。それが不安を煽ったか。思わず影法師は話しかけていた。
「どこへ向かう。街道はそちらへ続いておらぬ。山へと入ってしまうぞ」
「いいんだ。こっちが近道だ」
「妖がそこここに潜んでおるが、それでも踏み入るか」
山間部は妖がひしめいている。明かりの多い街と違い、こちらは木々に覆われた闇が続くせいだ。風によって揺れる梢が、二人を脅しつけていた。どこから何が飛び出しても、不思議ではない。影法師は警戒のため、影をそっと広げていく。