空のはしで
新機軸一作目。楽しんでいただけたら幸いです。
「理解は進んでいるが。まだまだ。だな」
問題を解く。
正誤を確認する。
間違いの数は減っている。解答を導き出す速度は上がっている。記述はより要点を捉えて簡潔になっている。わからない問題を見ても硬直してペンが止まる時間は減っていた。
それでも満足には程遠い。試験で満点をとる必要はないのだから受験というものでは完璧を目指す必要はない。けれどベストを尽くす必要が絶対にある。
俺にとってベストを尽くすことは焦らず、投げ出さず、試験の時間の最後一秒まで地道な積み重ねを諦めないことだ。闘病を重ねる親友には及ばないだろうが、忍耐にはそれなりに自信がある。
親友である万洋の病を癒すため父親を超える名医にならなければならない。事故で風前の灯火だった俺の命を救い、今も万洋の命を繋ぎ止める所業は並大抵の名医であるという技術では足りないだろう。自らを全く顧みていない天に手を伸ばそうというほどの目標を前にすれば、志望校に合格することは医者になるという最初の一段を達成するための土台に過ぎない。試験には万難を排して臨まなければならないから少し安心した程度では手を抜いてはいられない。
万洋は今この瞬間も闘病を続けているのだから。
「おうい鑑ぃ。僕はもう帰るんだけど。お前も帰った方がいいんじゃないの。こんな時間まで居座ってたら先生も迷惑だと思うけどなあ」
「そうか。いやそれもそうだな。ありがとう。村上」
いつも最後まで自習室にいるのは自分だ。勉学に打ち込んでいることを先生方は認めてくださっているけれど、悪戯に校内に残るのも先生方の残業時間を増やしてしまうことになる。
「演奏会の都合で一日学校を空けなきゃいけないんでこんな時間まで残ってみたら自習室の電気がびっかびかだったもんなあ。でぇ。こんな時間まで自習なんかしてるのは一人しかいないだろうなって覗いてみたら案の上だよ。はぁははははは」
なるほど。普段は自習室に来ないはずの村上が来たのは俺を茶化したいからか。演奏と学業の両立を目指すには自習室なんかで道草を食ってる暇はない。というのが村上の言い分だ。俺のように黙々と自習をこなしているようなのは滑稽に見えるだろう。俺の使っているテキストをパラりと捲って物色しているけれどたぶん興味本位だ。
「へー。真面目に学校指定の使ってんのか。まぁいいんじゃない。変に色々手を伸ばすよりはさ。で、まだやるわけ」
「今日はもう帰ろうと思う。煮詰まった頭で考えてもしょうがない」
学校を出て村上と別れた後、家路から外れてほんの少しだけ寄り道をすることにした。
最近は夜風に当たることが趣味になっている。日付が回るほど遅くまでいるわけではないし、騒がしいところに出向いて夜遊びをするわけでもない。通学路から少し外れたところにある公園まで歩いて月を眺める。飽きたら帰るだけで月見以外は何もしない。一刻一秒が惜しい身にはちょっとした贅沢だ。
美術部の部長の仕事に邁進している時は何も考えないでいい時間が欲しくて仕方なかった。けれど、いざ引退してみると部活動に勤しんでいた時間がそのまま自習に転化されたので思ったより晴れ晴れとした気分にはならなかった。
親友の万洋と話している自習以外に何も思いつかなくなった夜はとりあえず動いて気を紛らわせることにした。疲れたから何もかも面倒になったわけではなくて、また動くための休息が欲しかったのはわかったから。
今夜は晴れている。公園にある池のはずれにかかっている橋に行けば夜の景色を独り占めできる。
と思ったがうまくいかないことはある。洋々と足を運んだはいいものの、橋の中央には既に先客がいた。他校の制服を着ている女子がぼんやりと水面を眺めている。このまま立ち去るのは惜しいけれど明日の天気が晴れていることを祈って今日は帰ろう。
彼女の邪魔をするつもりはないし、どうせ明日にも来る場所だから。
「おい鑑。聞いてるのかよ」
村上と会話をしている内に今日の月齢がふとしたきっかけで気になって考え込んでしまった。敢えて無視をしたつもりはなかったが、会話をしている相手にぞんざいに扱われればいい気分はしないだろう。
「も、申し訳ない。無視をするつもりはなかった」
「まったくさぁ。部長譲ってからちょっと弛みすぎなんじゃないのお前」
返す言葉もない。美術部を引退してやることが減ったからといって、自らがおろそかにしてしまうのは良くないことだ。後輩たちに後を任せて部活動から離れた結果として弛んでしまったというでは後輩や諸先輩方に申し訳が立たない。気合を入れなおさなくては。
「ほうらまたしょうもないこと考え込んでるんだろ。春になっちまえば遊んでる暇なんかなくなるんだぜ。今のうちに遊ばないと損なんだってどうして考えらんないかなあ」
言われてみれば村上の言う通りかもしれない。部活動の次は受験勉強。一難去ってまた一難というつもりはないが、学生らしい遊び方ができる時間が実はもうないのかもしれない。
一晩くらいならいい経験になるだろうから次の土曜日は万洋とゲームセンターに行ってみよう。
「参ったな」
村上の言う通りにもっと遊んでおいた方がいいのか。実感できる研鑽の成果は僅かなのに志望校に合格できるのだろうか。志望校に合格しても受験勉強とは遥かに専門性が違う医師試験を通過できるだろうか。予定通り医者になれたとしても父を超える名医になれるかはわからない。
不安に駆られながら布団に入っても眠れる気がまったくしなかった。歩けば気も紛れて適度に疲れるだろうと思っていつもの公園まで月を眺めに来た。
のだが先日みかけた彼女がまたいた。昨日よりだいぶ遅い時間だから大丈夫だろうと思ったがそうはいかなかったらしい。
昨日もいたのだから場所を譲って欲しいとお願いするのもほぼ毎日橋へ赴いている自分が言えたことではないだろう。いい場所だと思うから他の人にも楽しんで貰いたいという気持ちもある。
橋の袂から見る夜空だって悪くない。木々の枝やそよ風が奏でる葉の重なる音を聞きながら眺める夜空にも味わいがあるから。
「あぁ。いい月だ」
昨日のように雲一つない夜空に燦然と輝く月もいいが、今晩のように曇りがちな夜空の朧な月輪を眺めるのもいい。空に伸びた枝や月にかかる雲の濃淡が無機的に輝く月光に有機的で穏やかな彩りを与えているのが風流だ。
彼女が見る月も昨日のものとは甲乙つけがたいものだろう。
月を眺めている内に、橋の中央で今夜の月を独占しているのがいったいどんな人間なのかふと気になってしまった。
月から降ろした目線を橋に向けてみたが、おぼろげな月明かりでは微かな輪郭でしか彼女のことはわからなかった。月光を吸って微かに輝いている長髪になぜか胸が締め付けられるような心地がする。
きっと月の光のせいだろう。
放課後、自習室に向かおうとすると村上にいきなり肩を掴まれた。
「おい鑑。ちょっと面貸せよ」
「わかった。手を貸すよ。なにをすれ」
「朝から湿気た顔してるんならリフレッシュの仕方を教えてやるってんだよ」
体調は良好だが不調があるように見えるなら詳細を聞くべきだ。と思ったが村上は疑問を呈することも許さず俺を連れて校舎を離れていく。
「ほらみろよ鑑。またジャックポットだぜ。こんなヤル気ない調整じゃこのゲーセンすぐ潰れちまうんじゃないの」
「そんな簡単に出せるものなのか。大当たりは」
目まぐるしく点灯する画面にガラガラと吐き出されるメダル。マシーンの中でメダルが擦れ合う音やメダルがマシーンからカップへ出される音。騒々しい場所だが村上の好きそうな場所だとは思う。
村上に言われるままメダルを買ってメダルゲームの椅子に座ってみたが、正直に言えばメダルゲームの楽しみ方がよくわからない。
タイミングよくメダルを入れて、タイミングよくボタンを押せばゲームが進む。一定量ゲームを進めれば運次第で大当たりを引いてメダルが大量に入手できる。らしい。
調子の良さそうな村上に比べると、俺はタイミングを掴むのが下手な上に運もないようだった。千円出して買ったメダルはあっという間に音と光を出すよくわからない機械に吸い込まれていく。
大当たりを引いた村上からメダルの入ったカップを幾つかわけて貰ったがこれも吸い込まれていった。
そういうわけで村上が楽しそうにメダルを機械に注ぎ込むのを見ている。
「なに。もうメダル使い切ったわけ。ホント仕方ないよな。また僕のわけて」
村上は得意げな表情で溢れんばかりに今度はメダルが山積みに入ったケースを渡してくる。だが村上の金で手に入れて、村上が自分で入手したメダルだ。これ以上俺が受け取るわけにもいかないだろう。
「いいんだ。俺はこの手のゲームには向いてないみたいだから。貰ったメダルがすぐになくなるのも勿体ない。俺は村上が遊んで楽しんでいるところを見てればそれで」
「はぁあああああああ。おまえさあ。鑑、僕と遊びに来たんだよね。なんで僕がお前にゲームしてるとこ見せなきゃいけないわけ」
苦虫を噛み潰したようになってしまった村上はメダルをまた別の機械に預けてしまった。
メダルゲーム以外も遊ぶぞと誘われるままにリズムゲームやレースゲームにも取り組んだが、どれもよくわからないまま終わってしまった。
村上はどのゲームもとてもやりこんでいるらしい。一緒に遊んだ射的ゲームで俺は当てることもできなかったのに、村上のおかげでゲームクリアまでしてしまった。
「見たかよ僕のスーパープレイング。感謝しろよなあ。初見じゃ一面クリアだって難しいんだぜ」
「あ、あぁ。凄いんだな村上は」
その後も村上に導かれるまま様々なゲームに取り組んだ。だいたいがよくわからないうちに終わってしまったが。ユーフォーキャッチャーでお菓子のたくさん入った大きい袋を手に入れたのがよほど嬉しかったらしく村上は上機嫌で帰っていった。
「どうしたものかな」
戦利品と言って村上はユーフォーキャッチャーで取った山ほどのお菓子を半分ほど分けてくれた。村上の好意に申し訳ないが生憎と俺は甘いものにさほど興味がない。貰わないでおけばまた怒らせてしまうから受け取ってしまったけれど、父さんも辛党だから家に甘い物を食べるような人間がいない。万洋は甘いものに目がないけれど食事に制限がある。
部室まで足を運び後輩たちの労を労うとして差し入れてしまうのが一番よさそうだ。と思って現部長に連絡を入れようとしたが送信する前に気づいてしまった。村上が知ればとても怒らせてしまうだろう。
お菓子の処遇を考えている頭が煮詰まってしまった。ゲームセンターとゲームをプレイしている時の村上が想像以上に騒がしかったので少し神経過敏になっている気もするし、頭をさっぱりさせるために橋へ行くことにする。
落ち着いてゆっくり休む時間にもなるだろう。
公園に入ってしばらくすると開けた場所を巡る風の心地よさと僅かに聞こえる梢のざわめきが刺激に疲れた身にしみる。夜の空気で肺を満たしながら空を見上げる。あの真円の端を削ったような月は十三夜月と言ったはずだ。満月ももうそろそろだろう。
この前が上弦だったからもうそろそろ満月か。
満月に想いを馳せて見上げる月も乙だと思ったが、橋の中央には昨晩の彼女がまたいた。
毎日のように通っている俺が思うのもなんだが、彼女もよほど暇なのだろうか。いい月が見られる場所だった。いつの間にか毎晩のように通っていた場所だからこそいつまでも人に見つからないわけもない。
毎晩と同じ場所に何度も現れては気分を悪くするだろうから、ここに通うのも今日で最後にするのもいいかもしれない。
水面を見つめている彼女の邪魔にならないように橋のたもとで月を見つめる。片方が少しだけ削れている十三夜月は雲の合間を縫うようにして夜に浮かんでいた。岸から伸びた枝に乗って光る月の奥ゆかしさは橋の中央にいては知ることができないだろう。
月光は照らしはするけれど熱量はなく、だからこそいつまでも見ていられる。ここを去るのは本当に惜しいけれど大丈夫だ。他に綺麗な月が見られるところは探し出せるだろうし、どこで目にしようと月の美しさに変わりはないはずだから。
いつの間にか月は最初にかかっていた枝を通り過ぎていて、次の一本に被さろうとしていた。長居をしすぎたようだ。
橋を離れる前に中央で水面を眺めている彼女はどんな人間なのかが気になった。橋を渡るふりをしなながら意彼女の人となりを見てみようと思い、意を決して歩みを進める。
闇の中で輪郭がおぼろに浮かび始めたころ、月光が雲を切り裂いて彼女を照らし出し俺の歩みを止めた。
水面に浮いた月を反射しているのか。彼女の瞳は仄かに光を帯びていて、月光が彼女の肌と長い髪に艶を与えている。闇の中に美しく浮かび上がる彼女の姿はどこか儚げで、瞬きをすれば消えてしまうようにさえ思えた。
月を映していた瞳が自分に向けられる。射止められたように俺は目を逸らすことさえできなかった。
不躾なことをしているのはわかっている。けれど生まれて初めて誰かに見惚れてしまっていることもわかってしまったから。こういう時は万洋ならなんていうんだ。助けてくれ。
「よく、来ていますよね。ここに」
幸いに口を開いてくれたのは彼女の方だった。
はい。と返すことはできた。動揺を悟られないよう手すりに手をかけようとしたらガサリという音がした。そういえば村上からもらったお菓子を手に持っていたままだった。
「食べますか。どうぞ。貰い物でよければ」
ようやく我に返ったと思ったらこれだ。彼女の目もパンパンに膨らんだビニール袋に向けられている。とっさの判断でビニールを広げてお菓子を勧めてしまったが照れ隠しにもやり方があるだろう。
しばしの沈黙。もう固まるしかない。
どれだけ時間が経ったかはわからないが、彼女が袋に手を伸ばして菓子を受け取ってくれた。
「甘い」
一口齧って彼女が口を開いた。相手にだけ手を伸ばさせるのも失礼なので袋の中から一つ出して自分も食べてみる。チョコでコーティングされたウエハースだった。チョコが少し甘すぎる気もするけれど、甘いお菓子なのだからこんなものだろう。
「苺味ですね、これ」
「甘いものは嫌いですか」
「食べ慣れてなくて」
質問されてしまうくらいには微妙な顔をしていたのだろうか。好みのものはないかと袋の中身を覗いても月明かりだけではどんなお菓子が入っているかはよくわからない。手触りからしてクラッカーとかお煎餅の類は入っていなさそうだが。
「意外。そんなにたくさん持ってるのに」
「あぁ。これは貰い物といったんですけれど。半分押し付けられたというか。断り辛くて」
「城南大付属の人でしょ。同じ制服を着た人、知ってます。あなたの知っている人かは別ですけど」
制服までセットで覚えられてしまうほどの生徒とは誰なのか思いを馳せる。村上の顔しか浮かんでこないが邪推というものだろう。
「否定はできないのがなんというか」
その後もなんとなく楽しい話が続けられた。ように思う。彼女が一つ小さなくしゃみをしてその場はお開きになった。同じ学年だということがわかったくらいで、あとは取り留めもない会話をして楽しく過ごせた。と思う。
橋の中央から望む月の美しさについても話せばよかったと帰り際にふと気づいた。
「よお鑑。少しはマシな顔になったじゃないか。感謝してほしいね」
「えっ。ん。ああ。そうか。そうだな」
昨晩のこともあって妙に気分がいい。意図せず顔にでてしまうほどだったか。でもなぜ村上に感謝を。なんとなく同意してしまったが別に心当りは。
あった。昨日行ったゲームセンターか。
「だろぉ。やっぱ遊ばないとダメなんだよ。僕たち優等生は特にさ」
「優等生をやってるつもりはないんだが。勉強だけはしてるが今はもう何もやって」
「だからだよ。部活終わらせてすぐ受験モードになんかなれる奴なんてそういないし。遊び惚けるどころか問題を起こすまでやつまでいるじゃないか。上等なんだよ先生方からすりゃあ僕たちはさ」
村上のようにトップ層の学力を持ちながら、個人でコンサートを行えるほどの演奏技術をもつ学生は確かに優等生だろう。だが、俺は村上が同列に語るほどの何かを持っているだろうか。
問題を起こしていない生徒。課外活動や模試で優秀な成績を残した生徒。彼らが全員優等生ならこの学校の半分以上は優等生だろう。そもそもの話になってしまうが程度の差こそあれ、世間一般から見ればこの学校のほとんどの生徒が優等生だと俺は思うのだが。
「今日はレッスンの日だからお前には付き合ってやれないんだ。僕が遊ぶときにはまた誘ってやるから首を長くして待ってるんだねえ。あっはっはははははは」
笑い声を残して村上は手を振りながら校門に向かっていった。村上の後姿はいつも自信に溢れていて不思議だ。どれほどの努力を重ねれば俺もああいう風になれるのだろう。
真似をしてみるか。
「俺は遅刻早退欠席なしなんだぞー」
うん。村上に対抗してみたが自慢話は向いていない。そもそも村上の早退や欠席はコンサートやレッスンのためのものだ。なんの後ろ暗いこともないだろう。
いつも通り自習室に行こう。
問題を解くだけが勉強のやり方ではない。
学習した単元の単語を片っ端からノートに書き起こして関連する単語同士を繋げていく。どれだけ覚えるだけかを把握するかを知ることができるだけでなく、単語と単語の繋がりや関係。覚えた内容をどれだけ理解できたのかがワンページで客観視できる。
あまり考えすぎず時間をかけないで進めていくのがコツだが、難問を解いたり簡単な問題を百問ほど解くのとはまた違う脳の使い方だ。
「だいぶ。いい感じだな」
覚えている内容が少なければノートに書きだされる単語は少ない。内容を理解していなければ単語と単語が繋がらない。理解が浅い内は路線図のように近隣の単語が繋がっているだけだが、理解が深まっていく内に遠くの単語同士が繋がって脳細胞のような複雑な図になっていく。
今回はノート一面が単語で埋まって間を縫うように無数の線が走っている。安心できる結果だ。
「気晴らしでもしないとな」
村上を見習ってゲームセンターで。というわけではないが意識的に休憩を取ることにした。時間で区切ると時間が気になってしまうし、疲れるまでやると休憩しても長続きしない。疲れそうだなと思う前には十分ほど座って目を閉じて小休憩を取ることにしていたが、トイレや水飲みのついでも兼ねて校舎をしばらく散策して過ごそうと思う。
昨日が十三夜月だから明日は満月だろう。今日の月はたしか小望月というはずだ。自信はないが。明日は満月小さな望み。で小望月だと覚えたが間違っていたらどう覚えなおそう。
「今日もだ」
袂の近くまで足を勧めると、橋の中央に彼女がいるのが見えた。
昨日も来たから今日も来る。自分がそうなのだから彼女も同じだろう。彼女が見ている月がどのように見えているのかが気になった。雲こそ幾らか空にかかっているけれど、月の光を邪魔をしていない。むしろ月光に照らし出された雲が夜闇に淡い輪郭を浮かべているのが風情がある。
なかなかいい光景だ。彼女もこの景色を気に入ってくれているだろう。たぶん。
つい橋の方へと目を向けてしまう。無作法だとは気づけたのに目線は既に彼女を捉えてしまっていた。
彼女は相変わらず橋の中央にいたれど月を眺めてはいなかった。橋の欄干に手を添えてじっと俯いて水面を見つめている。彼女が橋に来ているのは呑気に月見をしにきたわけではないことをやっと理解した。
俯きながら苦しそうな表情で足元の闇に広がる闇を見つめるさまは。これ以上続く言葉を思い浮かべるのは不吉なので敢えて言葉にしなかった。
他人が抱えている問題は本人に求められていない限り立ち入るべきではないと考えている。無理に聞き出そうとしたり余計な詮索をするのも余計なお世話だろう。
どうするべきか迷ったが、万洋なら声をかけにいく。だから俺は万洋と知り合えたし友人になることができた。友がいたからこの場所に立てたと思っているのなら万洋のようにはいかないだろうが、俺なりに何かをするべきだろう。
「こんばんは。今夜の月はお好きですか」
橋の中央まで歩いて彼女に声をかける。
一定の線を設けようと決めていても、うかない顔を少しでも明るくしたいという我儘から声をかけてしまった。自力では解決はできないことはたくさんある。けれどもほんの少しの間だけ目を逸らすことは有効な対処だと思った。
共通の話題が思い浮かばないからこんな話の振り方になってしまったが。
「えっ月。あぁ。綺麗」
「はい。今夜の月はとても綺麗です。改めてそう思いました」
彼女に釣られるように月を見上げる。橋の袂で見あげた時より美しく見える。さっきまでと何が違うのだろう。月がより高く天を登ったからか。周りに障害物がないからか雲や空気の加減か。なぜだろうか。
「月を見るのが好きなんですね」
「確かに好きですけど、なんというか休む時間が欲しくて。でも何もしないでいると色々と考え込んでしまって。なんとなく月を眺めることに集中して頭と心を休ませるというか」
慌てて答えてしまったけれど俺が月見をする理由なんて結局のところ長い一息のようなものだ。本当に好きなら写真に残したり他の場所でも見に行ったりするのかもしれない。でも俺はこの場所での月しか見に行かないし、見たとしても綺麗だな以外は特に思うことはない。月が好きなように振舞っておいてこの返答だから彼女をがっかりさせてしまったのかもしれない。
「よかった。私も同じだった」
「え」
「私みたいなのがいて、月見の邪魔をしてしまうの迷惑なんじゃないか。ってあの後考えてしまって」
「そんな。全然迷惑じゃないというか。俺も同じ心配をしていたので安心したというか」
ほんのちょっとした共感が得られただけでなぜかほっとしてしまった。一緒に月を見たいという同意を取れたわけではないけれど同じ場所にいることは許されたような。たぶん彼女も同じはずで。
そこからはお互いに何を言うでもなく月を眺めていた。
「綺麗。こんなに」
彼女がふとそう漏らしたのが聞こえたけれど。それから先は聞こえなかった。
「っしゅん」
夜風が鼻をくすぐったのかくしゃみをしてしまった。雰囲気を崩してしまい恥ずかしいやら申し訳ないやら。ただでさえ崩してしまったこれ以上崩さずどう謝ればいいのか。沈黙が長引けばそれだけ気まずさが増していく。
こういう時はどういう対応をすれば。人懐っこい笑顔を浮かべた万洋が思い浮かぶ。俺のにはあの愛嬌はない。助けてくれ、万洋。
「もういい時間になっちゃいますね。帰りますか」
なんとか。暖かい対応をしてもらえた。よかった。
「そうですね。帰りましょう」
「電車に乗って帰るんです。帰り道ご一緒しませんか。同じだったら。ですけど」
「はい。家が駅の向こう側なので」
しれっと嘘をついてしまった。間違いなく人生で一番うまくつけた嘘だろう。
帰り道はお互いに言葉を交わさずまっすぐ駅へ向かっている。何か話すべきだろうか。
実を言うと人付き合いの幅が広い方ではない。同級生や先輩方、後輩に比べると俺は人より多くの人との付き合いを必要だと感じない性質。だと思う。事故で入院をする前は違ったかもしれないが。礼儀を失していたり人の気分を害しているわけではないのだから困っていない。
と思っていたのだが今まさに困っている。
父さんや万洋のように付き合いの長い人たちはおしゃべりが大好きだし、村上はやかましくするのが好きだ。俺は周りにいる人たちの態度や性質に甘えて自分から意思伝達や感情の共有を怠っていたのではないだろうか。
自省は後でやればいい。今は周りの人たちがどうしていったかを参考にするべき時だから。
「どうかしました」
気づかれたけれどもうやることは決まっている。焦らなくていい。ちゃんと伝わるように話すべきだ。できれば、自然な笑顔で。
「俺。俺は鑑英雄。っていいます。よろしく」
「かがみひでお」
「はい。鑑定の鑑にヒーローの英雄。名前負けしないように頑張ってるつもりです」
「いい名前を大事にしているんですね。わたしは」
彼女が微かに微笑んで名前を告げようとした時、呻くような声が背後に響く。
「あ。あぁ。っぁあああああ」
その声は耳に覚えがあって。
「村上」
怒髪天を衝かんばかりの形相を浮かべた村上が俺たちを指さしていた。いいや、正確には俺のとなりを指さし睨みつけている。
「仲陽ぅ!なんで鑑がそこにいるんだあああああああ」
その後、仲陽さんは首を振って別れを告げると改札を向こう側に行ってしまった。俺は村上に胸倉を掴まれて問い詰められた。村上は興奮していて要領を得なかったし、俺は明らかに様子のおかしい二人に狼狽して村上の求めた答えを提示することができなかった。
家に帰った後湯船に浸かりながら俺は何か間違ってしまったのではないかと考えたが、どうすればいいか分からず答えは出なかった。今度万洋に聞いてみよう。
翌朝は普通に登校したが、通学路の途中にある学校の最寄り駅の改札前で村上に出会った。俺は自習の為にかなり早く学校に向かうことにしているが、村上は遅刻こそしないが登校してくるのはかなり後の方だ。俺とかち合うようにするにはいつもよりかなり早く家を出なければならないはずだ。
訝し気な表情をしているようにでも見えてしまったのか目が合った村上が顔を背けてしまった。昨日のことをまだ怒っているのかもしれないが、無視されるのも村上には嬉しくないだろうから。
「おはよう。村上」
いつも通りに自分から挨拶をすることにした。
「よ、よう鑑」
村上には不似合いな表情と態度だった。村上へ昨日のことをどう説明しようか、黙っておいた方がいいことがあるのか迷ってしまう。俺の隣へ行く十数歩の内に村上はいつもの態度に戻って横に立っていた。
「悪かったな鑑。昨日は騒がして」
「え」
「一度言えばわかんだろ」
歩き始めた村上を追いかけるように俺も歩くと村上はまっすぐ前を向いたまま言葉を続ける。
「仲陽十日。なかなかいい演奏をするピアニストさ」
村上が人の紹介をするときに自分の自慢を交えていない。ならば仲陽さんという彼女の実力を村上が相当認めているのは間違いない。ピアノの腕を一番大事にし誇りにしている村上がそこまで評価するということは。
もしかしたら仲陽さんは村上を超えるほどの。
「勘違いするなよ鑑。気になるようだから教えてやるけど去年のコンクールの金賞は僕が取ったんだからな。その前もだ」
見透かされてしまった。それも浅はかな考えを。
村上に勝つだけなら昨晩のように敵視されるようなことはないはずだ。むしろ、自分より優れた相手ならスポーツマンシップのような競争心を抱いて友好的に接してくるはずだ。
烏滸がましいかもしれないがたぶん俺がそうだから。
なのに。なぜ自分より下と認識している相手に敵意を向けているのかがわからない。
「僕は金賞。奴は銀賞。だけど審査員賞を総ナメしやがった!あいつらは僕の演奏を素晴らしいとは言ったが気に入ったのは仲陽だって口を揃えて言いやがったんだ」
「特別賞の類は表彰台に登れなかったが、評価されるべき技能や心構えをもった団体や参加者に与えられるべきものだ。そんなものおかしいだろう」
「普通はそうさ。でも奴の演奏は特別なんだよ。こればかりは認めるしかないんだ、業腹だけどねえ!」
村上は眉をしかめ、歯噛みをしながら憤怒の表情を浮かべている。出来が悪いなら侮蔑するだろうし、自分と肩を並べる相手なら自慢を交えて嬉々として話し出すだろう。後者の例を俺は知らないが、村上が俺の話をしているときはそうなるらしい。
素晴らしいと魅せられながらも、憤怒を浮かべて評価した音楽を否定しようとする。一見して矛盾しているが嘘はないはずで、だから理由がある。
「僕は音楽を人間に奉仕するものだと思ってる。感動させるにしろ落ち着かせるにしろ、音楽は人の心に仕えるものじゃなきゃいけないんだ。僕も演奏するときはそうであるよう心掛けている」
たしかに俺は村上の演奏が好きだ。聞けば盛り上がるし、疲れているときはとても安らかになれる。
文化祭や各種行事の時に村上の演奏が全校生徒に披露される時も周りの生徒は息を呑み圧倒される。先生方は耳をそばだてて聞き入る。村上の演奏が高い評価を受けているのも築いてきた技術だけでなくて、人の心を癒し活力を与えてくれるからだろう。
「だが奴の。仲陽の音楽は違う。王道じゃないんだよ。何があったか知らないがアイツは自分の悲惨な感情を音に乗せて垂れ流しているんだ。人の心を?きむしって痛めつけてそれっきり。自分しか見ていない音楽。あんなのは僕の美学に反していて不愉快なんだよ」
「だからあんなことを」
「そこは反省してるさ。仲陽がお前と仲良くしたとしても自由。お前にも付き合いは選べなんて大人げないことも言わない」
でも仲陽のことでなにかあっても俺に伝えようとするなよ。と釘を刺されてその話は終わった。
音楽に詳しくはないから俺は村上に音楽の話を聞いては来なかったし、同じ理由で村上もあまり話すことはなかった。ある意味では切磋しあう関係である以上、意味のない理解は村上にとって必要のないものらしい。
「なんというか。聞けて良かった。村音楽を誇りにしているのは知っていたけれど、どういう気持ちで向き合っているのかは知らなかったから。立派というか尊敬できるものでなんというか。嬉しい」
「お前だって似たようなものだろう鑑。親父さんの病院を継ぐんだからさあ。なってからの方が大変だろうし、稼ぐだけならお前にはもっと楽にたくさんやれる方法はあるってのに。僕にはわからないなぁ」
過大評価のように思えてしまうけれど、実際にはそれ以上のことをやり遂げなければならないのだから笑って受け止めることにした。
『ごめん。だめそう』
放課後にこっそりとスマートホンを覗き見るのは校則違反だろうとこういう知らせを見逃さないためだ。
放課後の発展演習を欠席し、校門を出てバスを使い直接向かう。
目的地は蓮蔓病院。父が建設した白亜の病棟を並べる大規模医療機関だ。
院長の養子であること。一時は自分もここで長期間入院をした場所であること。万洋用に病室が確保してあること。要因は様々だが病院に入ってさえしまえば病室に着くまではすぐだ。
「早かったね、英雄。冷蔵庫にプリン入ってるけど食べる」
「万洋。絶対安静だろう。楽にしてくれ」
「はは。バレちゃった。ありがとう」。
横たわる際に起こる血圧の変動で意識に問題を起こさないよう、万洋の肩に手を添えてゆっくりと寝かせる。無理と決めればすぐに休むし人を頼るが、そうでなければどこまでも平然と我を通せてしまうのが万洋だ。
生きていくということにすら多大な負担を強いられる身体で自分として生きていたいから困難が伴っても学校生活まで送ろうとしている。家族や学校の理解。父さんのように万全のサポートを提供するかかりつけ医の存在。なにより鋼と形容するのも生温いほどの当人の覚悟がなくてはできなかっただろう。
「今週もなんとかと思ったんだけどダメだったみたい。いつも通りで土日は検査入院だろうから、ごめん。約束守れなかった」
「いいんだ。週末はこっちで過ごそう」
父さんの本棚を漁ったり、ネットのアカウントを貸してもらって論文を読んだりしているから実習をしていないだけで初年度の医学生よりは人の健康については理解があるつもりだ。
しかし、人体への理解が深まるほどに万洋への不安は募るばかりでここに足を運ぶたびに不安になる自分がいた。
非力さに呑み込まれそうになる俺を万洋が救い上げる。
「ありがとう。ところでね。サボってたつもりはないんだけど課題がちょっと積もってて。姉さんに情けないとこ見せたくないからちょーっとだけ手伝ってほしいな」
「もちろんだ。人に教えるということは俺の理解にも繋がる」
「じゃあよろしくね。かがみセンセ」
「おだてても代わりにはやらないぞ」
「僕の宿題なんだから英雄にはわけてあげませーん」
万洋が入院した場合にこうやって雑談できるのは幸運だ。だから世間的にみれば入院という不幸な出来事でもお互いにゆるい雰囲気で過ごす。
万洋は真剣な表情で課題に取り組みつつ、時折助けを求める体で俺に雑談を振りにくる。何気ない会話で浮かべる笑顔がどれだけの無力感と諦めを踏み越えて浮かばれたものか。全てではないが、言葉と表情に浮かべてくれたぶんだけは俺が知っている。
「万洋」
「なあに英雄」
万洋が口を開いた瞬間に病室のドアが勢いよく開かれた。
大粒の涙をこぼしながら万洋の姉さんがベッドまで駆け寄り万洋を抱きしめる。こういう時は父さんが出張ってくるまでずっと離さないんだが、万洋には嬉しいことだろう。
あとは姉弟の時間だ。邪魔をするつもりはない。
あの後に父さんからのメールで万洋の体調に早急に対処しなくてはならない異常はないとわかった。静養も兼ねてしっかり休めば週明けにはまた元気に通学を再開できるだろう。とのことだ。父さんが言っているのなら間違いはない。その点は安心だ。
今の俺にできることは万洋が早く回復するように祈るくらいのことしかできない。日本での医師免許取得まで最低八年。臨床経験を積んで一人前になるまで最低二年。あと十年はこうやって祈りながら万洋を見守るしかない。
もし間に合わなかったらという考えが脳裏を過る。長い道のりだとわかっていて決意はしたが、まだ覚悟が足りていないのか問題外として断じることができない。
既に出ている答えを何度も反芻してやはりこれしかないと再認識する。万洋が諦めていないのだから現実を受け入れたいが、父さんの医者としての能力を信じているからこそ俺の能力を実感して目を背けそうになる。
悶々と過ごすうちに昼の時間になってしまった。正直に言えば午前中の授業は身が入らなかった。予習はしてあるからある程度は問題ないとはいえ、午後もこの体たらくでは悩むまでもなく万洋の回復は夢に終わるだろう。
「おい鑑。ランチに行こうぜ。悪いことはないからさ」
村上がクラスメイトや友人を置いて二人で食事をしようというのは初めてだったので付き合うことにした。
村上と向かった購買は人だかりに溢れている。ゆっくり食事を取りたい俺には快適な場所ではなかったが村上といるとまた勝手が違った。
「ありがとう。中村さん。また明日みんなでランチにしようか」
村上についていくまま食堂に購買を抜けて食堂に進むと座席の一角があっというまに空席になり、座っていた女子が挨拶をして去っていく。水を取りに行こうとすると村上に止められ、自慢話に付き合っているといつの間にか一番高い定食が運ばれてきた。
「へえ。ここの生徒も思ったよりはいいもん食ってるんだねえ。ま、食事を楽しもうじゃないか。鑑」
「いただきます」
なるほど。村上はランチはここで女子に作ってもらった弁当やらお菓子やらを摘まんで過ごしていたのか。目の敵にする連中がいるのもわかる。俺もこうして村上と席をともにしてランチをしている以上やっかみの相手をすることになるのだろうか。
それも仕方ない。村上とそれなりの付き合いをしているのは事実なのだから。
「おい鑑。食事中は静かにしようという作法が身についてるのはいいが場所は選べよ」
「すまない。クラスメイトとこうやって席を並べて食べるのはほとんど初めてで」
「そんな寂しい学生生活なのかよ。僕が毎日誘ってやってもいいんだぜ」
余計な関係の構築は確かにしていないつもりだ。寂しいと言われればそうかもしれない。
「思えば勉強以外なにやってんだお前ってばさ。絵を描くのだってすきじゃないだろ。作品を見ればわかるんだよそういうのは」
「勉学だけに打ち込む学生生活というのも歪だ。楽しかったかは別として美術部では貴重で素晴らしい経験を積むことができたと思っている」
「それだって医者になったときに患者と話合わせられるようにだろ。真面目なやつはこうだから」
絵を描くことや何かを刻むことに打ち込めたり、打ち込めなかったり。向き合っているものが好きだったり、そうでなかったり。部員としての活動に打ち込んでいたり、在籍しているだけでそういうものを億劫だと感じていたり。
自分も含めて彼らの悲喜こもごもは勉学に励むだけでは理解できなかっただろう。
「ったく。いつまでもそんなだと人を治すしか能のない人間になっちまうぜ」
「その境地に達することすら難しいと思っている。なれるのなら本望だ。むしろ」
「鑑。それは違うぜ。程度の低いところで満足するなよ」
「なに」
人それぞれに聞き流すことのできない言葉はあるだろう。村上は俺にとってまさにそういう言葉を俺の目の前で告げた。
人を治すしかない男。父が冷笑交じりに自分を揶揄するときに使う形容。だが、父がそういう人間だったからこそ俺も万洋を命を繋げることができた。知る限り、世界で一番の医者がそう言っているのだから俺もならなければならない。
極点に辿り着くには今の我が身でも重すぎるというのに。
「一意専心で上手くやれるなんて僕は信じないね。学校も音楽も遊びも優先順位はあるが、向き合う時はいつも本気さ!」
楽器に触れている時も。ゲームセンターでメダルマシーンを稼働させている時も。こうやって女子から受け取った菓子に手を伸ばしている時も。村上は常に本気を出しているという。
村上にとって価値のあるものなら理解のできる概念だ。俺と成績を競い合う時。他者に自らの実力を見せつける時。黄色い声援や先生方の激励に応える時。村上は確かに全力だろう。誰かと競い勝利し、見せつける。悪い言い方をしてしまったが村上が好むのはよくわかる。そうしている時も、その為の努力も村上にとっては千金の価値があるのは間違いないだろう。
けれど村上が本気で向き合うと告げた範囲は自己を顕示することに繋がる場面だけではない。だからこそ理解できなかった。
「お前が嫌いなものや見下している相手にも同じことが言えるのか。嫌いなものを避けることや見下している人間を馬鹿にしたり除け者にしようということにも全力を尽くすということは信じられない。お前は贅沢好きだろうが浪費は好まないだろう」
「いいねえ。熱くなってきたじゃないか鑑。能がない癖にいけすかない奴とかもそりゃいるさ。僕は結果を出してるからねえ。僻まれることもある。だけど、音は届く相手を選ばないしそんなカスみたいな連中だって僕の才能の肥やしになる。わざわざ排除する七面倒な真似するかよ」
「肥やし」
「失礼。食事中だった。でもなそういう連中から学べることだってあるってことさ。アホな連中だって他山の石にはなるし、もしかしたら演奏に役立つことだってあるかもしれない」
高飛車だが真剣な物言いだった。
「学校も遊びも全て使って僕は演奏へ生かすんだよ。お前や仲陽みたいに邪魔だとか余計だとか理屈をこねて捨てたりい見ないふりなんかしない。あらゆるもの全部使って僕は演奏をさらに上へ昇華させるんだよ」
と告げて村上はお茶を飲み始めた。
目から鱗というほどではないが、村上の発想に感嘆はあった。俺は目標に有益だと思えることばかりを選んできた。
だからこそ理解するべきだ。
「相互作用か。本来まったく関係のないものに類似性を見出して互いの理解が深まる。本来想定されていなかった効用や利益が結び付くことで発揮される。シナジー。マリアージュ。そういうことを伝えたいのか」
「そこらへんはやってみて考えてくれないかあ。まあ、鑑には程度の低いやり方を改めるチャンスだろうし」
父と同じように人を治すことばかりを考えていても父と同じことしかできないだろう。父と肩を並べることのできる医者になっても万洋の病は癒せない。むしろ俺に父と同じ才能や体力がなかったら実現の不可能が確定してしまう。なら村上の考え方こそが俺を父以上の医者にして万洋を助けることのできる方法に近づけるのかもしれない。
「んじゃ。前置きが長すぎたな。ほら鑑もお菓子食えよ。多めに持ってきてもらってるんだから」
「うん。改めていただきます。あとでお礼を言わなくては」
「僕が言った方が喜ぶから僕に言え。こいつの分もねえ」
村上がどこからか取り出した封筒を差し出してくる。受け取れば封筒は上質な素材でできていて、封蝋のしてある格式の高いものだった。
「今度のコンクール決勝の招待状さ。お前の湿気た顔見るのもいい加減不愉快なんだ。再来週やるから来いよ。家族とか何人か連れてきてさ」
「仲陽さんもいるんだろう」
「だろうなそういうと思ったよ。だけどな、僕はあいつに勝つし。お前が聞いたその日一番の演奏は僕の演奏だ。わからせてやるよ」
「ありがとう。気が楽になった気がする」
「僕も楽しみだよ。仲陽のやつに僕の演奏を聴いたお前の顔を見せてやることがやっとできるんだからな。僕の実力を再認識できるんだから鑑も今から感謝するべきだね。はぁあはっはははははは」
「今日はいないのか」
橋の袂に来たのだけれど仲陽さんはいなかった。少し前までは一人で見あげていたはずの月がなぜだか物足りなく瞳に映る。
「あらゆるものを利用する。か言ってみるのは楽だが」
ためにならないと思ったものを気にしないことが俺には簡単だ。注視するべきだと思えば観察を続けることもやぶさかではないが、村上のように学び取ろうなどとは思わなかった。同じことをやろうとするのに必要な気力体力は決して今に劣るものではない。
目的への方法論が変わったところで自分が変わったわけではないから悩みの根源は変わっていない。
「万洋。俺は」
やっと固めることのできた決意に諦めろという声が囁きかけてくる。
自分や親友の命を救ったあの名医を俺が超えられるものか。
父さんなら俺が後を継ぐというだけでも喜んでくれるはずだ。
仮に父さんを超えたとしても万洋が生きているかはわからない。
日本での医師の資格を取得し一人前と言えるだけの能力を得るころには俺はもう三十代に足が届く年齢になってしまう。万洋の病状を思えば途轍もなく遠い未来の話だ。そこから父さん以上の技術を俺が手中にするにはいったいどれ程の時間がかかるのだろう。
黒々とした水面に思考が沈んでいく。欄干に手を預けたまま立つこともできずただ蹲る。
「鑑さん」
仲陽さんの声が背後でする。邪魔をしてしまうのは嫌だったから動こうとしたけれど、どんな顔をしているのかがわからない今の自分の顔を見せてしまうかもしれないことが嫌だった。
荒くなった呼吸を癒すように背を撫でながら仲陽さんは言葉を続ける。
「いいんです。私もここに来るのはあまり気持ちのいい理由じゃないから」
なら、少しくらいこの暗い気持ちを吐き出してしまってもいいのではないだろうか。魔が差したと気づいたときにはもう気持ちが溢れだすのを抑えられなかった。
「わたし、ここで月を見てるんじゃないんです。なかったんですよ」
話して気が楽になってしばしの沈黙のあと仲陽さんが口を開いた。月と星以外の光から隔離されたうねるような闇に互いの弱さが滲み始めた。
「両親とわたしは全員仲が良くなくて。レッスンをすれば家に帰らなくていい理由ができるから練習に打ち込んで。練習の成果があるうちはあの人たち気持ちよくなれるから必死に賞を取ってコンサートを開いて。ずっと家に帰らなくていいように頑張ってて」
外食とサプリメントで顔を合わせないようにしている。学業と音楽活動に打ち込んで、お小遣いでやりくりをすれば家はベッドで朝になるのを待つだけの場所になる。成績が月並みでも音楽で成果を出せば理不尽な折檻をうけることはないし、怪我をすれば活動できなくなるから放っておいて貰える。
医者というものは激務だ。その上で一つの病院を構えている身となれば家に帰る暇などはないだろう。俺と父さんは親子の時間を過ごした経験は人よりはないだろうと断言できるが、尊重しあっているとお互いに感じている。
だから、俺には彼女の気持ちを汲み取ることができないかもしれなくて。
「お互い、ままならないですね」
「ええ。本当に」
互いに傷を持っていることを知っていてもどこが傷ついているのかわからないから舐めあうことができない。互いの持っているもので事態の解決はできないし、どうにかしたいなら自分の手でやるしかない。
向いてる方向も進む方向もまったく別で、抱えている思いも別。向こうも辛いのだなということが分かっただけで自分も相手もどうしようもなく苦しんでいくことがなんの救いになるのかはわからない。
「でも、よかった。鑑さんがどういう気持ちでそんなに努力しているのかがわかって」
「え」
「えっと。村上君からあなたの話は聞いてて。レッスンに使っている場所が同じだから、たまたま会って。鑑はお父さんの後を継いでたくさんの人を救うって決めてる凄い奴なんだ。逃げるために音楽を使ってるお前なんかより僕の方が相応しいよなあって言っててそうかもしれないと思ったら。なんだかここに来づらく」
「村上も買いかぶり過ぎる。俺は話した通りの人間です。友達を失うことが怖くて足掻いているだけで。もっと早くて確実な方法があれば。医者になることは別に」
と言いかえて何かが言葉を詰まらせる。父さんや職員の方々の姿。万洋や同じ病室に入院した人々が苦痛や恐怖に負けず闘病やリハビリに励む姿。彼ら彼女らの姿は事故のショックで自分の名前まで失った自分にどれほどの支えになったのかは言葉にできない。
万洋のおかげで気力を取り戻すまで俺の命を繋いでくれた方たちと肩を並べる気持ちが心のどこかにはあったのだ。
「重要じゃないこともないか。うん」
「やっぱり。立派せすよね。わたしなんか」
「今気づいたことです。仲陽さんが気づかせてくれたから。きっと仲陽さんにも」
「そんな。演奏をするのは全部自分のためで。嫌なことから逃げて現実を忘れるためで。それ以上に理由なんか。あってもわからない。今は」
確かに今はそうかもしれない。けれど逃げ込むならもっと上手なやり方があるのではとも思う。俺には思い浮かばないけれど、逃げるために便利な手段だというだけなら村上に敵対視されるほどの実力は身につかなかったはずだから。
だからこそ培ってきた演奏の技術と才能が、何か仲陽さんの人生の糧になるようになっていてほしい。
「なら聞きに行きます。友人も連れて、今度のコンクールで仲陽さんの演奏を」
「わたしの」
「村上から招待状を貰っていて。何かこう、誰かが聞いてくれるだけでわかることがあるんじゃないかと思ったから」
「聞いてくれるんですか。わたしなんかの音楽を。村上君のほうがよほど」
「仲陽さんの演奏を聞きたい。何が目標で背負っているものも違うけれど、プレッシャーの中で頑張ってるのは一人じゃないと思えたから」
「姉さんのライブ以外は言ったことないからこういうのは新鮮だな。変な格好してないよね」
「お互いに小綺麗な格好だから問題はないだろう。自信はないが」
調べた限りではスーツなどの一張羅で行くほどのものではないらしい。ラフすぎる格好でなければ私服だとしても浮いたり他の観客の邪魔をするほどではないだろう。
そういえば部の展覧会は制服で参加していた。学生なら母校の制服を着用して鑑賞に臨むのが定石だったか。いや、別に学校の代表や生徒として参加しているわけではないから問題はないはず。
村上から貰ったチケットで仲陽さんの応援に行くのだから私服で参加しても特に問題はないのではなかろうか。いや、その場合は二人に何か手土産なり応援の道具なり持って行った方が気が利いているか。
その場合何を持っていけばいいかは万洋なら直感的に当てることができると思うが。自分で選んだものの方がいいのか。いや時と場所をわきまえたものを調べた上で。
「英雄。何か考え込んでるでしょ。大丈夫だって、あそこの喫茶店で開演までのんびりしようよ。僕チョコレートパフェ食べるから」
万洋に手を引かれて近くの喫茶店へ一歩踏みだした瞬間に声が響く。
「へーーーーーーえ」
振り返ればきっちりと制服を着こなした村上がいた。楽屋の場所もわからないし、演奏前の大事な時間の邪魔をするつもりもなかったから連絡をしなかったが、迎えの誘いを断ったのは不味かったか。
「迷ったんじゃないかと思って探しにいこうと思ったんだけどねえ。鑑も意外にやるじゃないか。随分ボーイッシュだけど割と可愛いツラしてるよなあ彼女」
とても美人な姉によく似ているし、万洋もあやかって髪を伸ばしている。入院生活が長いから華奢で肌も白い。
でも万洋は男だ。目が腐っているのかこいつは。
万洋も万洋で笑顔で手を振っているんが何を考えているんだ。村上みたいな人種は珍しいとは思うが。
「初めまして。喜佐美万洋です。英雄ともどもよろしくね」
「ひ、ひで。ふーんそういう仲なのね。まぁいいんだけどさ」
そういえば裏声を使うと姉によく似た声を出すんだったな万洋は。あんなに自然に出されると日頃の鍛錬が尋常でないことを思い知らされるが、こういう形で発揮しないでもらいたい。
「こんにちは。鑑さん」
「仲陽さん」
「リラックスをしたいから表を歩いてたら村上君がずいぶん喧しくしてたから来ちゃった。村上君と話しているのが話してくれたお友達。挨拶していってもいいかしら」
「勿論。友人同士が仲良くしてくれるのは嬉しい」
コンテスト前の追い込みで橋の下で会うことは減ったけれども仲陽さんとはメールやSNSなどで連絡を取り合うようになった。
万洋はツールを使って作曲もしているから話も合うだろう。前々からお互いのことを知っているから、実際に顔を合わせることで互いの刺激になるならこれほど嬉しいことはない。
「初めまして万洋さん。仲陽十日です。よろしくおねがいします」
「よろしくね十日さん。君とか敬語は照れちゃうな。万洋でいいよ」
「ありがとう万洋。あそこの喫茶店で鑑くんとお茶しない」
「是非。仲陽さんの邪魔をしないなら」
「英雄。十日さんにも僕と同じように話しなよ。友達なんだから。十日さんもそっちの方がいいよね」
仲陽さん。改め十日さんに言われたら俺も異論はない。しかし。俺も万洋を参考にコミュニケーションを学んできたが本物には敵わない。
村上まで誘おうとしているのだから。
「いいね。村上君もどう」
「え、お前男なの。っていうか本番前の大事な時間をなんだと思ってんだよ仲陽」
「じゃ、行きましょうか」
仲陽さんに手を。万洋に肩を掴まれてまっすぐ喫茶店へ歩き出す。会って数分でここまで息が合うのだから俺も嬉しくて頬が緩む。
何か忘れ物をした気がして後ろを振り向くと村上が地団太を踏みながらこっちへ来ていた。
「お前ら僕をダシにしてなかよくするなあ!おい鑑ぃ!」
村上。お気に入りいただけたでしょうか。
村上。登場人物の中で唯一フルネーム決まってない。あるいは決めたけど忘れた。のどっちかなのに圧倒的存在感で作者は大変助かりました。
村上。お前がいなかったらこの話バットエンドだったぜ。
村上。いい奴でないのは間違いないけど悪い奴ではない。
おお村上。ああ村上。
お前主役にすると英雄の話しかしないから却下な。