03
「うぅ……死ね……」
「罵倒が安直すぎて捻りがないな。どうした、いつものキレは」
朝。ぐったりとして冒頭の言葉を呟いた私にいけしゃあしゃあとそんな返事を返してきた海音寺常盤は、私の顔をのぞき込んで満足そうにフッと笑った。その態度にもまた腹が立って、私は机の下で勢い良く常盤の脛を蹴りあげた。
「ぐぅっ!?」
見事その蹴りは常盤の脛にヒットして、常盤に盛大なダメージを負わせた。片足を抑えてプルプルと震えるその姿になんとも言えない満足感を覚えてふんと鼻を鳴らす。昨日の仕返しだ。
「~~~っ、なんだよ、せっかく人が恋路を応援してやろうとしたのに」
「人の心臓止めにかかったの間違いじゃないの? ……冗談抜きで今後目の前で人が死ぬのを見たくなかったらああいうのやめようね?」
「……なあ冬雪。前々から気になってたんだが」
「……なに」
「お前、雪路のこと好きなんだよな?」
「な、何を今更……世界で一番愛してるに決まってるじゃないですか!?」
「なんで敬語だよ……ってかそこまで聞いてないし……じゃなくて! そうじゃなくて……なんていうか、それなら雪路と付き合いたいとか、そういう感情はないのか?」
至極真面目な顔で問われたそれに、私は数秒の間を空けて、
「……つっ!?」
「えっ」
ボン、と顔から湯気が出そうなほど顔を赤くした。自分で見ないでもわかる、今自分は傍から見るまでもなく滑稽なほど、真っ赤になっている。いやだって仕方ないじゃないか。私と、雪路が、その、こ、こ、恋人、だなんて。そんな。
「つ、付き合うなんてそんな、いや、あっ嫌じゃないけど!! うわわわ、ちょっ、なんてこと言うの!?」
「色々言いたいことはあるがどうしてぼくが怒られなきゃいけないんだ」
「とっ、常盤がそんな夢みたいなこと言うから……」
「……? 夢なのか」
「え、いや……夢でしょ、だって。私が今雪路さんに存在を認識してもらってるだけで奇跡みたいなことなのに、そんなまさか、こ、恋人になんて……」
「何を言ってる、このぼくと友達になっておきながら、雪路には存在を認識されているだけで満足しているなんて。……なんかこう、雪路のほうが格上みたいじゃないか……?」
「何を今更……」
「当然のことみたいに言うな!」
どうやら常盤は雪路よりも下の存在として扱われているのが気に入らないらしい。いや私としては常盤と雪路を上だとか下だとかそんな風に見たことは一度もないのだが、まあそれは面倒なので伝えずに置こうと思う。
ぷんすかと怒っている常盤にどうしたものかと思っていると、ふと足りないものに気付いて首を傾げた。
「常盤。今日は雪路さんは一緒じゃないの?」
「……なんだ、会いたかったのか?」
「いやまあ会えたらそりゃ嬉しいけど……珍しいなって?」
「ふん、今日は日直だと。まったく、あいつが毎日日直なら静かでいいのに」
「ふーん……」
いつも朝っぱらから心臓が止まりかけていることを考えれば、私も常盤のそれには賛成だ。……がしかし、どうにも朝姿が見られないとなるとそれはそれで寂しい。これぞ複雑な乙女心である。
会話が途切れてすぐ、朝のホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴った。常盤がそれに倣って前を向いたので、朝の会話は完全に打ち止めになった。先生も入ってきて話を始めた。しかしそれを聞く気もなかった私はぼんやりと窓の外を眺めた。
「恋人……」
ぼそ、と、誰にも聞こえないように呟いたそれに答えるものはもちろん誰もいない。
▽
私は隼瀬雪路と言う人に恋をしている。前世で雪路をひと目見た瞬間から今までずっと、『叶わないのが当たり前』の恋をしてきた。だって相手は実際には存在しない、イラストに声と台詞があてられただけの『キャラクター』。隼瀬雪路という一人の人間として、私の前に存在することなど有り得なかった人物なのだ。
だから前世の記憶を思い出して、星宮高校という学校があることやその他の要素からここが『イケ学』の世界だと確信したあとも、私はどこか『隼瀬雪路』を存在しないキャラクターとして捉えていた部分はあったと思う。だって『叶わない』のが、『存在しない』のが当たり前だった。当然だった。それなのに、今当然のように『隼瀬雪路』は私の世界に存在していて、私という存在を認識している。雪路の前で挙動不審になってしまうのも仕方のないことだと思う。
まあそんなわけで、当然のように私は『隼瀬雪路』と恋人になるなんてことを考えたことがない。
そのくせヒロインに雪路を取られるのは嫌だし、その他の女に取られるのも勿論考えただけで泣きたくなってくる。女に取られるくらいなら常盤に、とも言ったがこれも私の中では中々厳しい。男だからというか、雪路を常盤に取られるのが辛い。まあ常盤を見ている限りではそれもなさそうだが。
雪路が他人と恋愛するのは嫌だ。だけど自分がどうこうなるのも考えたことはない。自分でも中途半端だと呆れるが、そうは言っても自分でもどうしたらいいか分からないのだ。
これを常盤に話すとなると転生云々の話もしなければならないので、勿論彼には言えない。言ったこともない。だからきっと、常盤の目に私は『雪路のことを好きだ好きだと言いつつ特に何も行動を起こそうとしないしむしろ傍にいることを嫌がっている』不思議なやつに見えているだろう。その通りなので何も弁解できない。
だが私も早いところこの考え方をどうにかしたい。そしてどうにかこれから始まるだろうヒロインと雪路の恋を阻止したい。せっかく目の前に雪路がいるのにただ指を加えてみているだけなのは嫌だ。
……とはいえ。
「おや、篝様。こんにちは」
いざ本物を目の前にするとなるとそれはまた違うわけで。
放課後、誰もいない教室で、私は雪路と対面していた。
「こ、こんにちは……」
「今日の朝と昼は私が日直で会えませんでしたねえ」
「あっ、いえ、は、はい、そ、そうですね……」
「ところで常盤様の姿が見当たらないようですが……どちらに行かれたのかご存知で?」
「あのっ、えっと、お、女の子に、……その、あの……」
容量の得ない返事に苛つくわけでもなく、雪路は私の言葉を正しく理解したようで「なるほど」と顎に手を当て頷いた。え、すごい。これで怒らないの? 雪路ってもしかして聖母様なんじゃないの……? ゲームの雪路はもうちょっと厳しかった気がする。なんて言ったって『毒舌』って設定があったのだ。「何を仰っているのか分からないので日本語で喋ってもらえますか?」くらいは言ってくるはずなのだが。
しかし思い返せば雪路に出会ってから今まで、一度もそういった厳しいことは言われていない気がする。もしかして現実の雪路はゲームの雪路より性格が柔らかいのか。いや常盤の話を聞いている限りだとそんなこともなさそうだけど。常盤の話に出てくる雪路はゲームの通りの毒舌を発揮している。
「女性の方に呼び出されたのですね。もしかしなくても告白でしょうか」
「あ、はい、その……多分」
「流石常盤様、普段は少々……いえ大分自惚れ屋なところはありますがやはり女性にはモテますねえ」
「そ、そう……ですね」
あ、ちょっと毒舌屋の片鱗が出てきた。今のは常盤に対しての毒だったけど。いやでも、やっぱり雪路のこういうところも好きだ。こんな優しそうな顔して厳しい事をサラッと言ってしまうところなんかギャップが素晴らしい。私も雪路に厳しいことを言われたい。いやMじゃない、断じて。雪路が好きなだけだ。
にしても、『自惚れ屋』か。自信家で態度の大きいところはあるが、それに伴う実力をしっかりと身につけてもいる常盤をそんな風に称してしまえるのは幼い頃から常盤に付き従った雪路だからこそだろう。常盤から聞く雪路の話もそうだけど、雪路から聞く常盤の話も節々から仲の良さが滲み出ていて大分羨ましい。当たり前だけど。高校で出会ったばかりの私より二人の仲がいいのは当然だけど。なんか、ちょっとざわざわする。
「……篝様? 大丈夫ですか?」
「えっ?」
黙り込んでいる私を不思議に思ったのか、雪路に声を掛けられてパッと顔を上げた。……と、すぐ目の前に雪路の顔。
「っ」
「? 篝様、どこか体調でも……」
「ひっ!? えっ、わっ、」
「っ、篝様!?」
見上げた格好のまま固まった私を心配した雪路が、近い顔を更に近づけてくる。驚いた私は、頭ごと背中を後ろに仰け反らせた。が、当然バランスを崩して後ろへ倒れる。訪れるだろう衝撃に、私はぎゅっと目を瞑った。
ガッターン、と椅子の倒れる音が教室に響く。椅子と一緒に倒れたはずの私は、その音と共にやってくるはずの痛みがないことに首を傾げた。ぐいっと腕を引っ張られる感覚があったので雪路が助けてくれたのだろうか。そっと閉じていた目を開ける。
「大丈夫ですか? お怪我は?」
「っ、~~~っ!?」
再度視界に飛び込んできた綺麗な顔に、私は驚いて雪路の体を押した。が、何故かびくともしない。というかなんだこれ、待って、今これ抱きしめられてないか。なんで。
ぐるぐると混乱していると、ガラッと扉の開く音。心臓が飛び跳ねた。
「……何やってんだ?」
「常盤様」
雪路の体で見えないがどうやら入ってきたのは常盤らしい。雪路の手と身体が私から離れて、常盤の方を向いた。漸く常盤の姿が見えて、目が合ったのでとりあえず片手を上げて応えておく。胡乱な目を向けられた。やめてくれ、私もこの状況がよくわかってない。
「用事は済ませられたのですか?」
「ああ……っていや、それよりなんで今お前ら抱き合ってたんだ?」
「? 抱き合っていた?」
「抱き合ってただろうが。こう、ぎゅっと」
常盤が何かを抱き寄せる仕草をしてみせると、雪路は少し考えたあと、ああと手を打って答えた。
「篝様が椅子から落ちて倒れそうになったので、引き上げたんです。……ああ、そういえば抱きしめた形になってしまいましたね……篝様、大変失礼を致しました」
「えっ!? あっ、いえそんな、む、むしろ助けてもらって……」
突然話を振られた上に頭を下げられて、私はテンパりながらも首を振る。距離の近さには驚いたけど、椅子から転げずに済んだのは助かった。相当、かなり、大分驚いたけど。
「……なるほど、ぼくのいない間にイチャついてたわけじゃないんだな」
「い、いちゃ……!?」
「いいえ、とんでもございません。そんなことありえませんよ」
常盤の台詞に一瞬赤くなって、しかしすぐに雪路の返事にガンッと何かで頭を殴られたような心地になる。今のは毒でも何でもなくて、雪路の心からの台詞だった。本心から私とどうこうなることはありえない、とそう言っていた。いや、まあ当然なんだけど。そうなんだけど。
「……」
「……。そうか。まあいい、帰るぞ」
「はい、常盤様。……篝様、よろしければ今日も車でお送りしますが」
「えっ、あ、いえ、その……きょ、今日は……大丈夫、です……」
「……? 顔色が優れないようです、どうかご遠慮なさらずに……」
「だっ、大丈夫です!」
「、」
また顔をのぞき込まれそうになって、私は慌てて大声を出した。なんか、薄々気づいてたけど雪路のパーソナルスペースは人より少し狭いような気がする。
普段(雪路の前では)あまり大声を出さない私が叫んだのに驚いたのか、雪路は目を丸くして固まっている。私は少し雪路から距離を取って、視線を彷徨わせてから、軽く会釈をして小走りで教室を出た。後ろから常盤の「じゃあな」と言う声が聞こえた。走りながら振り返って、手を上げて応える。明日また色々聞いてもらおう。明日は沢山聞いてもらいたいことがある。今日あったことは勿論、決意を――というと大袈裟だが――聞いてもらいたかった。
走ったまま校門を出て、私はようやく足を止めた。
「……好き」
ぼそりと呟く。誰に言うでもなく、自分で確認するように、呟いた。
「雪路が好き。他の人に渡すのは嫌だ」
ヒロインにも常盤にも、誰にも渡したくない。
「雪路に、私を好きになってもらいたい……」
絞り出すように絞り出したその言葉は、誰にも聞かれることなく、空気に溶けて消えていった。