夏のひと時
まひろお姉ちゃんが私の存在を認識してから、約一年ほどの月日が流れていた。
普通なら私みたいな存在を受け入れるというのは、容易い事ではないと思う。けれどまひろお姉ちゃんは、戸惑いながらも徐々に私という存在を受け入れてくれた。
まひろお姉ちゃんの心の中で生まれた私は、言ってみればお姉ちゃんの心の一部。だから極端な事を言ってしまえば、私とお姉ちゃんは同一人物と言う事になる。だけど私とまひろお姉ちゃんは、物事の考え方や感じ方に細かい違いがあるから、その点では別人と言えるのかもしれない。
そしてそんな私とまひろお姉ちゃんの関係は、まさに『共存』と言う言葉が相応しいと思うけど、それでも複雑な間柄だとは思う。
まひろお姉ちゃんが私という存在を認識して以来、私達はお互いを知る為に交換日記を書いているんだけど、お姉ちゃんと交換日記を交わし始めてから、いくつか分かった事がある。その一つが、私がお姉ちゃんの記憶をほぼ共有できない――と言う事と、お姉ちゃんは私が活動している時の記憶をほぼ共有できる――と言う事だ。だから私が表に出ていない間の主な情報源は、お姉ちゃんとの交換日記と言う事になる。
「よしっ。これでいいかな」
二年目の夏休みを迎えた七日目の朝。
部屋にある全身鏡に自分の――正確に言えばお姉ちゃんの姿を映しつつ、私は出掛ける準備を整えていた。
今日は龍之介お兄ちゃんと二人っきりで海へ遊びに行く事になっている。
役割的に私はまひろお姉ちゃんの代わりだけど、それでも今までの間で龍之介お兄ちゃんの事を知った私は、個人的にもお兄ちゃんが気になっていた。だから今回の海へのデートは、個人的にとても楽しみだった。
時々お姉ちゃんの代わりにこうしてお兄ちゃんと遊ぶ事があるけど、それはお姉ちゃんのストレス解消も兼ねている。
私がお兄ちゃんと遊ぶ事が、お姉ちゃんのストレス解消になっているのかと言われれば疑問に思われるかもしれない。けれど、お姉ちゃんが私の活動中の記憶を共有できる事が幸いしているおかげか、この入れ替わりデートはなかなかの効果を出していると思える。
私の体験した事や記憶を頼りに、お姉ちゃんはその出来事を体感する。この事象を分かりやすく言うと、ちょっと主旨は違うかもしれないけど、バーチャルリアティを体験して気分をすっきりさせている――みたいな感じだと思う。
でも今はこれでいいと思うけど、いつかは絶対、お姉ちゃんは自分自身でみんなと正面から向き合わないといけない。それはお姉ちゃんも分かっている事だろうから、私からいちいちそんな事を言おうとは思わないけど、それでもやっぱり、気弱なお姉ちゃんの事は気になってしまう。
× × × ×
「わー! きれーい!」
よく待ち合わせで利用している駅前の時計搭下で龍之介お兄ちゃんと合流し、そこから約一時間ほどをかけて移動をした私達は、二人で一緒にキラキラと陽の光を反射する海を目の前にしていた。
「去年は俺も海には行かなかったから、何だか懐かしく感じるなあ」
お兄ちゃんはそんな事を口にしながら、大きく広がる海を見つめていた。
そして去年は行かなかった海に私と一緒に来てくれたという事が、私にはとても嬉しかった。
「お兄ちゃん! 早く行きましょう!」
お兄ちゃんと初めて訪れた海に興奮していた私は、お兄ちゃんの左手をギュッと握り、グイグイっとその手を引っ張りながらそう言った。
× × × ×
水着に着替えて待ち合わせ場所に向かうと、腕で汗を拭いながら砂浜に座って居るお兄ちゃんを見つけた。私は自分の身なりをもう一度しっかりと確認したあと、ゆっくりとお兄ちゃんに歩み寄って行った。
「お、お待たせしました……」
「おおっ!」
緊張で小さくなってしまった私の声にも素早く反応をし、お兄ちゃんは私の方へと振り返った。
「あ、あの……ど、どうですか? 似合ってますか?」
こちらへと振り向いたお兄ちゃんに対し、私はドキドキしながら両手を重ね合わせてそんな質問をした。
「すっげー似合ってるよっ! まひるちゃん!」
「ほ、本当ですか? 良かったです……」
私の質問に対し、お兄ちゃんはすぐにそんな返答を聞かせてくれた。その言葉はとても嬉しく、勇気を出して海へ誘う事をお姉ちゃんに頼んでもらって良かったと思った。
そして私がお兄ちゃんに向かってほっとした気持ちを口にすると、なぜかお兄ちゃんは海の方へと視線を向けて深呼吸を始めた。
「ふうっ……さて、まずは何をしよっか? さっそく海に入る?」
見ていた海から空に視線を移してしばらくしたあと、お兄ちゃんは私を少しだけ見つめてからそう聞いてきた。
「えーっと……それじゃあ、まずはアレをしてほしいです!」
「えっ!? アレをやるの?」
私が指差したのは、パラソルの下に居るひと組のカップル。そこではカップルの彼氏が彼女の背中に日焼け止めを塗ってあげていた。
せっかくお兄ちゃんと海に来たんだから、色々と挑戦してみたい事はあった。結構恥ずかしいけど、これもその一つ。そしてそんな私の提案に、お兄ちゃんは明らかに動揺していた。
相変らずベッドの下に隠しているエッチな本を見ているみたいだけど、お兄ちゃんはこう見えて結構純真な人だから、意外とこんな風に動揺を見せる事は多い。そしてそんなお兄ちゃんが、私には可愛らしく思えてしまう。
「そうです。その為にまず、一緒にパラソルを立てましょう!」
「あっ、ちょ、ちょっと」
私は動揺を見せるお兄ちゃんの右手を握り、海の家の方へと引っ張って行った。
そして海の家でレンタルのパラソルを借りた私達は、強い陽射しが照りつける砂浜で一緒にパラソルを立てる為の穴を掘り始めた。
こうしてお兄ちゃんと穴を掘っていると、小さな頃に戻って砂遊びをしているみたいで楽しい。もちろん小さな頃の記憶はお姉ちゃんのものだけど、お姉ちゃんが私を認識する前までの記憶は私も共有しているから、やっぱりどこか懐かしいという感覚になる。
「お兄ちゃん。これくらい掘ったら大丈夫ですか?」
「うーん……あともう少しかな。まひるちゃんはもう手が届かないだろうし、あとは俺が掘るから手を洗っておいでよ」
「はいっ! それじゃあ、あとはお兄ちゃんにお任せしますね♪」
お兄ちゃんの言葉に返事をし、私は楽しい気分でハミングをしながら手洗い場へと向かった。
「――新たな穴を掘って埋めてやりたくなるぜ」
手洗い場から戻ってお兄ちゃんに近付くと、そんな呟きが私の耳に届いた。
「何を埋めたくなるんですか?」
「えっ!?」
私がお兄ちゃんの横に来てそう尋ねると、かなりびっくりした様子でこちらを振り向いた。
「な、何か聞いた?」
「はい。『新たな穴を掘って埋めてやりたくなるぜ』とか言ってましたよ? だから何を埋めたくなるのかなーって思って」
動揺を見せるお兄ちゃんに対し、私は素直にそう答えた。するとお兄ちゃんは相変らずの動揺した様子を見せたまま口を開き、たどたどしくその言葉の意味を説明し始めた。
「そ、それはその……あっ、この前ゲームを貸していた渡って奴が俺のゲームデータを消しやがってさ、それで反省の色が無いそいつを反省させる為に、新たな穴でも掘って埋めてやりたいなーと言ってたんだよ。うん」
なんとなく、お兄ちゃんが口にした言い訳は嘘なんだろうなと思いつつも、そんな事を必死に考えてそう言ったのかと思うと、そんなお兄ちゃんが可愛らしく思えて笑みが浮かんだ。
「あはは。そうだったんですね。お兄ちゃんは色々な人と仲が良さそうでいいなあ」
「まひるちゃんだって沢山の人と仲良くしてるでしょ?」
その言葉を聞いた私は、思わず表情を曇らせてしまった。
まひろお姉ちゃんはともかくとして、私がまともに話をした他人は、龍之介お兄ちゃんしかいないからだ。
「私、こう見えて結構人見知りなんですよ? 同性でも話すのは苦手だし、異性になると龍之介お兄ちゃんくらいしかまともに話せませんし」
私は嘘にならない程度にそんな事を言った。
実際に人見知りなのは確かだし、お兄ちゃん以外の異性と話すのも苦手だから、嘘をついた事にはならないと思う。
「えっ? そうなの?」
「はい。だって私、他の男性の前では震えちゃって話もできませんから」
「でも、俺と初めて会った時とか普通に感じたけどね」
「あの時だって、本当はすっごく緊張してたんですよ?」
「そうなの?」
「そうですよ。だって、初めてまひろお兄ちゃん以外の男性とお話をしたんですから。ずっと心臓がドキドキして、どうしようかと思ってたんですよ?」
「そ、そうなんだね」
まひろお兄ちゃん――って部分は嘘だけど、初めてお兄ちゃんを見た時にドキドキしていたのは本当だ。
「はい。でも多分、まひろお兄ちゃんから色々と龍之介お兄ちゃんの話を聞いていたから、少しは平気だったんだと思います。最初はちょっと恐かったけど……でも、まひろお兄ちゃんから聞いていたとおり、龍之介お兄ちゃんは素敵な人でした」
「そうだったんだ。まひろってさ、普段は俺の事をどんな風に話してるの?」
照れた感じの表情を見せながら、そんな事を聞いてくるお兄ちゃん。私はそんなお兄ちゃんの可愛い顔を見るのがとても好きだ。
「そうですね……ラブコメ作品が大好きで、そんな物語の恋愛に憧れているとか、世の中のカップルを敵視しているとか、他にも変な独り言が多いとか、妹さんを溺愛しているとか、ゲームが大好きだとか、他にも色々です」
お姉ちゃんとの交換日記を通じて知った事や、元々お姉ちゃんの記憶を私が共有していた部分を総合してそう答えると、お兄ちゃんはなんだか妙な表情を浮かべて黙り込んでしまった。
「ど、どうかしました?」
「えっ!? あ、いや、なんでもないよ。ほら、帰って来たんだし、早くパラソルを立てよう!」
「そうですね」
お兄ちゃんが私の問い掛けにハッとした感じで我に返ると、何かを誤魔化す様にしてそんな事を言った。私としては何を考えていたのか聞きたいところだけど、しつこく聞いて嫌われたら元も子もない。
私は色々と質問をしたい衝動を抑え、お兄ちゃんと一緒にパラソル立てを行った。
「――まひるちゃん。本当にいいの?」
「は、はい。自分で頼んだ事ですから。よろしくお願いします……」
一緒に立てたパラソル。その下に敷いたレジャーシート。私はその上で、いよいよ日焼け止め塗りをお兄ちゃんにやってもらおうとしていた。
「そ、それじゃあ、脱いでもらってもいいかな?」
「は、はい。優しくお願いしますね?」
「りょ、了解……」
お兄ちゃんのその言葉を聞いた私は、その言葉が少しエッチに聞こえてしまい、ちょっと恥ずかしくなった。
私はその恥ずかしさを必死で抑えながら、ビキニタイプの水着の上に着ていたワンピース型水着を脱いでいく。
「そ、そんなに見ないで下さい。恥ずかしいです……」
水着を脱ぐ時から食い入る様に私を見つめていたお兄ちゃんの視線が気になり、私は両手で身体を隠す様に抱き包んでからそう言った。
「あっ、ごめんね、まひるちゃん。可愛かったもんだからつい」
お兄ちゃんから飛び出したそんな言葉に、私は素直に嬉しくなった。例えこれがお世辞だったとしても、やっぱりお兄ちゃんから褒められると嬉しい。
「ほ、本当ですか? だったら許しちゃいます……でも、もうじっと見ちゃ駄目ですよ? 恥ずかしいですから……」
「分かったよ。それじゃあ、そのままうつ伏せになってもらっていいかな?」
「はい」
私は大きくなっていく恥ずかしさを堪えながら、言われた様にレジャーシートの上でうつ伏せになった。
自分で頼んでおいてなんだけど、やっぱり凄く恥ずかしい。お母さんにも見せたりしない自分の背中を、しかも素肌をお兄ちゃんに見られているかと思うと、今にも身体が発火しそうなくらいに熱くなる。
そして燃え上がりそうなほどの恥ずかしさを感じていると、私の背中にお兄ちゃんの手の平が優しく触れたのが分かった。
「んんっ……」
「大丈夫?」
「は、はい。ちょっとくすぐったいですけど、大丈夫です」
お兄ちゃんがその手を動かす度にくすぐったい感覚が身体に走り、その感覚に身を捩じらせてしまう。私はそんな感覚に耐えつつ、お兄ちゃんにこんな事をしてもらえる喜びを存分に味わっていた。
そしてお兄ちゃんに日焼け止めをしっかりと塗ってもらったあと、私はお兄ちゃんとの海水浴を満喫し始めた。
こうしてお兄ちゃんと二人で海へやって来るのは、まひろお姉ちゃんにも経験の無い事。だからしっかりと楽しい思い出を作っておきたい。お姉ちゃんの為にも、そして、私自身の為にも。
× × × ×
沢山遊んでお昼を過ぎた頃。私はお兄ちゃんと一緒に海の家で焼きそばを買う為に並んでいたんだけど、買い終わってパラソルの下に戻る頃には、強い陽射しのせいで少し具合が悪くなってしまっていた。
「まひるちゃん。大丈夫?」
「は、はい。大丈夫です……」
「顔色も良くないし、無理しなくていいから少し横になってていいよ?」
「ありがとうございます……それじゃあ、少しだけ……」
「うん」
二人で立てたパラソルの下で横たわろうとした時、お兄ちゃんは持って来ていたタオルを何枚か重ね合わせ、そこに頭を乗せて横たわる様に言った。
そして私がそのタオルに頭を乗せて横になると、お兄ちゃんは私の身体にそっと大きなタオルを被せてくれた。そのさり気ない優しさが本当に嬉しい。
「ごめんなさい、お兄ちゃん……せっかく海まで遊びに来たのに……」
「そんなの気にしなくていいよ。まひるちゃんとは話す機会もなかなか無かったし、こうして喋ってるだけでも楽しいもんだよ」
「……お兄ちゃんは本当に優しいですよね」
「そうかな? 自分ではよく分からないよ」
お兄ちゃんは私の言葉に苦笑いを浮かべてそう答える。
お姉ちゃんも言っていたけど、本当にお兄ちゃんは自分の事をよく分かってないみたい。
「そうですよ。これじゃあ私まで……」
「ん? 私まで何?」
「……ううん。何でもありません」
私まで本気になっちゃいそうです――そう言い掛けて私は言葉を止めた。それは絶対にお兄ちゃんに聞かせてはいけない事だから。
「それよりもお兄ちゃん。学園での面白いお話を聞かせてくれませんか?」
「学園での面白い話? うーん……そうだなあ……」
自分の言い掛けた事をまた質問されない為に、私は話題をガラリと変えてお兄ちゃんとの会話を続けた。
こうしてお兄ちゃんと会話をしながら身体を休めていた私は、しばらくして体調も持ち直した。そしてすっかり冷めてしまった焼きそばを二人で食べたあと、私は一人でトイレへに行ったんだけど、そのあとで困った状況に陥ってしまった。
「あ、あの……そこをどいて下さい……」
「えー? 何て言ったの?」
「そんなに怖がらなくてもいいじゃん。一緒に遊ぼうよ」
「そうそう! 絶対楽しいからさ!」
トイレから出てお兄ちゃんの居る場所に急いで戻ろうとしていた時、私は通りにある木の下で三人の大学生らしき男性に声を掛けられた。
その内容は『一緒に遊ぼう』というものだったから、いわゆるナンパだと思うけど、私はお兄ちゃん以外の男性にはまったく興味が無い。だから本当に困っていたんだけど、私は知らない男性を前にして萎縮してしまい、はっきりとその誘いを断る事ができないでいた。
周りにはもっと可愛い女性が沢山居るのに、どうして私なんかを誘うんだろう――と、本当に泣きたくなる気分だった。
そんな事を考えながら、私はしつこく迫る三人に囲まれる形で身を縮こまらせ、固く口を閉ざしていた。怖さで身体が震え、その場から一歩も足を動かせない。
――助けて、お兄ちゃん……助けて……。
「なあ、俺達と一緒に遊ぼうよ!」
「ちょっと待って下さい!」
三人の内の一人が私の腕を掴んで引っ張ろうとするのに抵抗し、心の中でお兄ちゃんに向けて必死に助けを求めていると、私の耳に力強くそんな声が聞こえてきた。
そして私がその声がした方に顔を向けると、お兄ちゃんが私の腕を掴んでいる男性の手を振り払い、まるで自分の身体を盾にするかの様にしてその間に割って入った。
「えっ!? 何? 誰?」
「お、お兄ちゃん……」
私は来てくれたお兄ちゃんの大きな背中にしがみ付いた。
「ああっ! この娘のお兄さんだったんだ!」
「ねえ、お兄さん。ちょっと妹さんを俺達に貸してもらえませんかね?」
そんな事を言ってケラケラと笑う三人を前にお兄ちゃんは何も答えず、黙って身体を小さく震わせ始めた。
「お、お兄ちゃん? だい……じょうぶ?」
「この子は俺の大切な彼女なんです! だからちょっかいを出さないで下さいっ!」
「えっ!?」
「行こう。まひる」
お兄ちゃんは力強くそう言うと、私の右手を掴んでから足早にその場から連れ出してくれた。
「――まひるちゃん、ごめんね。怖い思いをさせてさ……」
「あっ、いいえ。あれはお兄ちゃんのせいじゃありませんから」
お兄ちゃんに助けてもらい、パラソルの下へと戻って来た途端、お兄ちゃんは本当にすまなそうに私に謝った。
「ありがとう、まひるちゃん。もう怖い思いはさせないからねっ!」
「は、はい。ありがとう、お兄ちゃん……」
お兄ちゃんのそんな言葉に私はつい嬉しくなってしまい、思わず表情を緩ませてしまった。でも、そんな表情をお兄ちゃんに見せるわけにはいかないので、私はすぐに顔を俯かせた。
「お、お兄ちゃん。ちょっと喉が渇きませんか?」
「そうだね。何か飲み物でも買いに行こっか」
「はいっ!」
そんな自分の状況を誤魔化す為にそう言うと、お兄ちゃんはにこやかな笑顔でそれを了承してくれた。そして私達は一緒に飲み物を買いに向かった。
「まひるちゃん。どれがいい?」
「えーっと、そうですね……」
二人でやって来た近くの海の家。
その店先にあるパラソルの下で、氷水の入ったステンレス製容器に入っている飲み物の数々。パラソルの横から射し込んで来る太陽の光が、水に浮かぶ氷をキラキラと煌かせていてとても美しい。
「――まひるちゃん。どれがいいか決めた?」
「えーっと……あっ! お兄ちゃん。私、あれがいいです」
そんな容器の中にある飲み物を見ていた時、私はふと店内の方へと視線を向けた。
するとそこにはひと組のカップルらしき男女が居て、小さなテーブルの上にある一つの飲み物に、ハート型のストローを挿して飲んでいた。それを見た私は、飲み物が入った容器内を真剣に見つめるお兄ちゃんの腕を軽く引っ張りながら、店の中に居るカップルを小さく指差した。
「……ねえ、まひるちゃん。あれってどんな飲み物なのか知ってる?」
「えっ? あれって何か特別な物なんですか?」
私が指差したカップルを見たお兄ちゃんは、困惑の表情を浮かべてそんな事を聞いてくる。
とりあえずお兄ちゃんの言っている事の意味はなんとなく分かるんだけど、私はあえて分からない振りをした。
「えーっと……あれはね、恋人同士が注文する物なんだよ?」
「それじゃあ、恋人じゃないと注文はできないんですか?」
「いや、絶対に恋人同士じゃないと注文できないって事は無いと思うけど……飲んでみたいの?」
「はい……」
「……いいよ。それじゃあ、一緒に飲もっか」
「いいんですか?」
「うん。いいよ」
「本当ですか? ありがとう、お兄ちゃん!」
やっぱり無理かなと思っていたところに、お兄ちゃんからの思わぬ返答。私はあまりの嬉しさに、お兄ちゃんの腕に飛び付いてしまった。
それからお店の中へと入った私達は、『ラブラブカップル限定★恋のブルースパークリングソーダ』を頼んでから、一緒にそのドリンクを飲んだ。とても近くにお兄ちゃんの顔があって凄く緊張しちゃったけど、本当に楽しくて嬉しい時間だった。
× × × ×
「まひるちゃん。大丈夫?」
「はい! 大丈夫です!」
お兄ちゃんと海の家を出たあと、私はパラソルの下に敷いたレジャーシートを少し横にずらして穴を掘り、そこにお兄ちゃんを寝かせてから一生懸命に身体に砂をかけていた。海に来た人はこんな遊びをすると聞いていたけど、実際にやってみると結構楽しい。
「まひるちゃん。ちゃんと水分補給をしながらやるんだよ?」
「はいっ!」
砂遊びの楽しさに夢中になりながらも、私の事を心配するお兄ちゃんの言葉はちゃんと聞こえていた。どんな時でも私を気遣ってくれるお兄ちゃん。そんな優しいお兄ちゃんが、私は大好きだ。
「――完成しました!」
砂をかけては固めていく作業に夢中になっていた私は、完成した砂山を見てお兄ちゃんにそう言った。でも、私の言葉にお兄ちゃんからの返答はなく、それを変に思った私は、お兄ちゃんの顔を覗き込んだ。
「あっ。お兄ちゃん寝ちゃってる」
沢山の砂を身体に被せられているお兄ちゃんは、小さな寝息を立てながらすやすやと眠っていた。
「沢山私と遊んで、私の為に色々な事をしてくれたから、疲れちゃったのかな……ごめんね、お兄ちゃん」
すやすやと眠るお兄ちゃんを前に、私は呟く様にしてそう言った。
「お兄ちゃんは本当に優しくて、いつも私を笑顔にしてくれる。そんなお兄ちゃんが私は大好き」
お兄ちゃんが起きている時には絶対に言えない言葉を私は口にする。そしてそんな言葉を口にしてお兄ちゃんの顔を見つめていると、私の中にとある一つの欲求が芽生えてきた。
これはもしかしたらお姉ちゃんの持っていた欲求なのかもしれないけど、でも、それをお姉ちゃんが持っていた欲求と考えるには少し無理があった。だってこの欲求は、別の形で一度お姉ちゃんは叶えているんだから。
だから私が感じているこの欲求は、素直に私自身が欲しているものだと考えるのが自然だった。
私は眠っているお兄ちゃんの顔に、自分の顔をゆっくりと近付ける。
寝ているお兄ちゃんにこんな事をするのは卑怯だとは思うけど、それでも私の中に芽生えた欲求は止められなかった。
「あなたに出会えて、本当に良かった」
自分の中にある素直な気持ちを口にしたあと、私はそっとお兄ちゃんの頬に唇を当てた。
「んんっ……まひる……ちゃん?」
「あっ……」
「えっと……何でまひるちゃんの顔がこんな近くに?」
その声を聞いた私は、慌てて自分の顔を上げた。
「いや……あのぉ……何か見ましたか?」
「うん……キスされた」
「ええっ!? あ、あれは違うんです! つい……と言うかその……あの、えっと…………」
頬にキスしたところを見られてはいないと思っていた私は、お兄ちゃんから出た言葉を聞いて慌てふためいてしまった。
私はどんな言い訳をすればいいんだろうと、考えを巡らせる。こんな事でお兄ちゃんに嫌われたくないと、それだけで頭がいっぱいになって泣きそうになってしまう。
「お、落ち着いてまひるちゃん! 俺はまひろにキスされた時の夢を見てただけだから!」
「えっ? お、お兄ちゃんに……ですか?」
「そうそう。まひろから聞いてないかな? 花嫁選抜コンテストの話をさ」
「あっ、聞いてます。そういえば確か、お兄ちゃんのほっぺにキスをしたところを撮影されたって聞きました」
「うん。ちょうどその時の夢を見ててさ、ほんの少し前の事なのに、なんだか凄く懐かしい感じがしたよ」
「そ、そうだったんですね。ちょっとビックリしました……」
その言葉を聞いた私は、ほっと胸を撫で下ろした。本当に際どいタイミングだったとは思ったけど、キスしたところを見られてなくて良かったと思う。
「そういえばまひるちゃん。『あれは違うんです!』とか言ってたけど、いったい何の事だったの?」
「えっ!? わ、私、そんな事を言いましたか?」
「えっ? 言ってたと思うけどなあ……」
「き、気のせいですよ!」
本当の事なんて話せるわけもないので、私は全てをお兄ちゃんが見た夢として済ませようとした。
「……本当に俺の気のせい?」
「本当ですよ!? お兄ちゃんはきっと寝ぼけてたんですよっ!」
「そっか。でも、いい夢を見たよ。そういえばあの時、何か言葉が聞こえたあとで頬に温かくて柔らかい感触があったんだよなあ……あれも夢だったのかな?」
「うにゅ……」
お兄ちゃんは私のした行為の事を話しているんだろうけど、自分のした行為の感想をこうして口にされると、とても恥ずかしくなる。
「どうしたの?」
「もうっ! お兄ちゃんなんて知りません!」
私はその恥ずかしさを誤魔化す為にそっぽを向いた。
「ま、まひるちゃん。俺が何かしたなら謝るよ」
「意地悪なお兄ちゃんは、帰るまでそこから出してあげません」
お兄ちゃんはそんな私を見て慌てて謝ってきた。でも私は、自分の誤魔化しをより強固にする為に、あえてそんな事を言った。
「まひるちゃん。俺が悪かったから、ここから出してくれよ」
「ダメです。私を置いて寝ちゃったお兄ちゃんは、そのままでお仕置きしちゃうんですから♪」
「ええっ!?」
私はお兄ちゃんの首の後ろに手を回し、そこをたっぷりとくすぐった。これは私とまひろお姉ちゃんだけが知ってる、お兄ちゃんの弱点だ。
「アハハハハッ!! まひるちゃん! そこだけは止めてー! 何でも一つお願いを聞くからっ!」
「本当ですか? 本当に何でも一つお願いを聞いてくれるんですか?」
「アハハハッ!! ホントホント!! だからくすぐるの止めてー!」
その言葉を聞いた私は、すぐにくすぐっていた手を止めた。
「それじゃあ、また一緒に遊んで下さい」
そして私は、小さくもささやかなお願いを口にした。
贅沢は言わない。お兄ちゃんと二人で居られる時間を少しでも多く作れるなら、私はそれでいい。
この時私は、自分の中に芽生えた想いをはっきりと自覚した。