偽りの自分
まだまだ寒さの緩まる様子が見えない2月14日の朝。
俺は暖かい布団から嫌々抜け出すと、窓の方へと近寄ってからカーテンの片側をシャッ――と横に引く。すると窓の外から明るく暖かな陽射しが部屋の中へと射し込んできた。
ここ最近は悪天候続きでどこか気分の晴れない日が多かったけど、今日は本当に珍しく暖かな陽気が窓の外から伝わってきている。
本当ならここで、珍しくいい天気になったな――などと口にするところだろうけど、今日の俺は天気の良さによる晴れやかさを感じていられる気分ではない。
その理由は言うまでもないだろうけど、今日がバレンタインデーだからだ。
えっ? バレンタインデー? なにそれ、新発売の栄養ドリンク? リ〇ビ〇ンD的な? ――みたいな感じですっ呆けることができるのなら、この日を快適に過ごせるのかもしれない。
けれど望む望まざるに関わらず、この日は多くの男共が、憂鬱な1日を強いられるのはほぼ間違いないだろう。
俺はこのバレンタインというイベント自体を否定する気はないけど、それでもこの日本独特のバレンタインのあり方には異議を唱えたい。
そもそも日本におけるバレンタインとは、女性が男性に対し、親愛の心を込めてチョコレートを渡す――というのが主流だけど、この日本独自の風習が広く浸透した理由が、チョコレート業界の販売戦略だというのは、広く世間に知られているだろう。
そしてこの販売戦略が広く日本に浸透してきたのは、意外にも1970年代後半のことだそうだ。ちなみにホワイトデーは、1980年代前半頃に登場したらしい。
まあ、チョコレートを扱う会社も品物を売らなければ会社が潰れてしまうのだから、色々な方法を考えるのは仕方ないだろう。
だけどこの日本独自とも言うべきバレンタインシステムが誕生したことにより、いったい毎年どれだけの男が肩身の狭い思いを強いられてきたのだろうかと考えると、涙が零れ落ちそうになる。
これは俺の友達の話になるけど、そいつはクラスで自分以外は女子しかいないという高校へ通っているんだが、去年のバレンタインデーに電話でそいつの口から語られたエピソードが、もう聞いていて悲惨だった。
なんでもその友達は、1個くらいは義理でもチョコを貰えるだろう――などと淡い期待を抱いていたらしいのだが、結局誰からもチョコを貰えなかったらしい。
そこまでならまあ、どこにでもあるようなバレンタインデーストーリーだが、その内容がキツイんだ。
なんでも教室で平静を装って本を読みながら周りの様子を窺っていたらしいのだけど、クラスの女の子たちは取り出すチョコレートの箱を、同じくクラスメイトの女の子友達に手渡していたんだそうだ。最近は巷でもよく聞く、“友チョコ”というやつらしいが、そいつはその光景を見ながら、ずいぶんと肩身の狭い思いをしていたらしい。
もしも俺がそんな状況に置かれたとしたら、きっと学校を早退して家で布団を被って泣いていただろう。ホント、日本のチョコレート業界は余計なシステムを考え出してくれたもんだ。
そんなバレンタインデーのネガティブな話を思い出しつつ、俺は制服へと素早く着替えてからリビングへと下りて行く。
× × × ×
「おい杏子、大丈夫か?」
花嵐恋学園へと向かう途中、俺は今日何度目かになる問い掛けを杏子にした。
杏子は今にもそのまま地面に伏して寝てしまいそうなくらいに、うつらうつらとしている。
「うん……大丈夫大丈夫――」
昨日から寝る間も惜しんで作っていたというチョコレートが入った紙袋を左手に持ち、フラフラとおぼつかない足取りで歩く我が妹のその姿は、誰がどう見ても大丈夫そうには見えない。
杏子には結構凝り性なところがある。だから今年のバレンタインのチョコレートも、相当に張り切って色々な物を作っていた。
去年のバレンタインなんて、俺はチョコレートの塊から削って作ったという、可愛らしい猫の彫刻の様なチョコレートを杏子から貰ったんだが、あれは完成度が高くて食べるのが本当にもったいないと思ったくらいだった。
あれはかなりの大作だったので、その猫チョコの写真は今でも俺の携帯の写真フォルダに保存されている。
「凝り性なのもいいけど、ほどほどにしとかないと身体がもたないぞ?」
「分かった~、気をつけるぅ~」
そう言いながらフラフラと定まらない歩き方をする杏子を時折支えながら、俺は杏子と一緒に花嵐恋学園へと向かって行った――。
「あぁ~」
教室にある自分の席に座った俺は、両手を上に思いっきり伸ばしながら開口一番に疲れた声を上げた。ご丁寧にも我が妹である杏子を、教室まで送り届けて来たからだ。
その時に杏子と同じクラスメイトである愛紗から、『先輩も大変ね』――と、ちょっとした同情をいただいたのだが、なぜかその時の愛紗の表情はとてもにこやかだった。
「ようっ、龍之介。今日はいい天気だな」
「なんだ渡か。言っておくが、お前に貸す金はないぞ」
「俺、まだなにも言ってないんだけど……」
「なんだ? 借金を頼みに来たんじゃないのか?」
「ちげーよ! まあ、小遣いが厳しいのは確かだが……まあそれはそれとして、俺の用件はこれだ!」
渡はそう言うと、さっきから後ろに隠していた両手を俺の前へと出してきた。
その手には一つの小さな箱が握られていて、それは俺が見る限り、この時期にはどこの店にでも置いてありそうな感じの、バレンタインチョコが入った箱のように見えた。
「なんだ? バレンタインのチョコを貰ったって自慢でもしに来たのか? だとしたら10秒以内に俺の前から立ち去らないと、無言で腹パンを決めてお前を気絶させたあとに、トイレの便器に頭を突っ込むぞ」
「お前さあ、そうやって平然と怖いことを言うなよ」
「いーち、にーい、さーん――」
引いた表情でそんなことを言う渡の言葉を無視し、俺は断罪へのカウントダウンを始める。
「待て待て! 違うって! これは女の子に貰った物じゃない。俺が自分で買ったんだよ!」
自分で買った? てことは、これが今世間で言われている“自己チョコ”とかいうやつだろうか。
「なんでわざわざ自分のためにチョコを買ってるんだよ。虚しくないか?」
俺が哀れみの視線を向けてそう言うと、渡は『違う違う!』――と言って自己チョコであることも否定してきた。
「これはな、お前に渡すために買ってきたんだよ」
「…………」
俺はその言葉を聞いて身体がピシッ――と硬直したのが分かった。
今コイツはなんと言った? 俺に渡すために買ってきたと言ったのか? なぜだ、なんのためにだ?
「――渡、アホも休み休み言えよ?」
「誰がアホだ! 俺は本気だよ!」
「本気で俺に惚れてんの!?」
「馬鹿言ってんじゃないよ! 最近はな、男友達に送る強敵と書いて“とも”と読む、強敵チョコってのがあるんだよ。知らないのか?」
「そんなものは知らん。知っていたとしてもいらん!」
「ええー!? そんなこと言うなよ~。せっかく面白そうだから買ってきたんだし」
そう言って渡はグイグイと箱を押しつけてくる。そうこうしている間にも、俺たちのやり取りは周りから奇異な目で見られていた。
「分かった! 分かったから落ち着け!」
「ふふん、分かってくれたらいいのだよん。んじゃ、ホワイトデーの3倍返しに期待してるからな~」
渡は無理やり押しつけた箱を俺が受け取ると、満足したようにしてそう言いながら教室を出てどこかと行ってしまった。
それにしても、ふざけたことを言うやつだ。あんなセリフは俺が貸している千円を返してから言えってんだよ。
バレンタインで最初に受け取ったチョコが渡からなんて、今年は厄年だったのかな、俺は……。
なんとも憂鬱な気分を抱えながら、渡から貰った強敵チョコを机の中へとしまい込み、俺は大きな溜息を吐き出す。
こうして俺のバレンタインデーは、不吉な様相を感じさせながら幕を開けた。