文化祭最終日
無事に花嵐恋学園の文化祭初日を終えた翌日。
昨日と同じ様に晴れ渡る空を自室の窓から見た俺は、素早く制服に着替えてから簡単な朝食を済ませて自宅をあとにした。
冬は陽が登るのが早いとはいえ、やはり早朝の空気は冷たい。まるで大型冷蔵庫の中にでも居る様な冷たさを身体に感じながら、まだ人がほとんど居ない通学路を歩く。
「――七時か。少し早かったかな……」
やって来た最寄り駅の時計塔の下。
そこで吹いて来る風に身を震わせながら、俺はまひろに扮したまひるちゃんが来るのを待っていた。
A班との勝負もあるから気合を入れなければいけないが、今日はまひるちゃんが楽しく文化祭を体験できる様に、そしてまひるちゃんがまひろと入れ替わっている事がばれない様に最大限のアシストをしなければいけない。だからきっと、昨日よりも大変な一日になるだろう。
しかしそう思う反面、兄妹入れ替わりという非日常的な事をしようとしている事にわくわくしているのも事実だ。
「――お、おはようございます……」
寒さに身を震わせながら白い吐息を思いっきりふーっと出した時、俺の左側から少し遠慮がちな声の挨拶が聞こえてきた。
「あっ、おはよう」
その声に些かの緊張を感じながら振り向くと、そこには俺の予想通りにしょぼくれた感じの表情をしたまひるちゃんが居て、とても申し訳なさそうに俺を見ていた。
まひろにこの前の事を気にしない様にまひるちゃんに伝えてくれとは言ったものの、おそらくそれが気休め程度にもならないだろう事はなんとなく分かっていた。この兄妹はそういった事を何よりも気にする似た者兄妹だから。
「昨日はよく眠れた? 緊張して眠れなかったりしなかった?」
「はい。あ、でも、やっぱりちょっと緊張して眠れませんでした」
まひるちゃんは俺の質問に苦笑いを浮かべながらそう言った。
おそらく今言ったまひるちゃんの言葉に嘘はないだろう。でも多分、緊張していた原因は文化祭以外にもあると思う。
しかしそれを俺が意識してしまうと、余計にまひるちゃんを萎縮させてしまう可能性が高い。ここは意地でもあの日の事をまひるちゃんに意識させない様にしなければいけないだろう。
「そっか。実は俺も最終日だからって色々と考えていたせいか、なかなか寝つけなかったんだよね」
「そうだったんですか?」
「うん。おかげでちょっと寝不足でさ、今朝なんて制服のワイシャツを裏返しに着ようとしてたんだよ」
「ふふっ。なんだかお兄ちゃんらしいですね」
俺のちょっとした馬鹿話を聞いたまひるちゃんから浮かない表情が消え、いつものにこやかで可愛らしい笑顔を見せてくれた。
「はははっ。さてと、それじゃあみんなが集まらない内に学園に行こっか」
「はいっ」
まひるちゃんが快活な返事をしたあと、俺はゆっくりと学園の方へ歩き始めた。
朝が早いからか、通学路に花嵐恋学園の生徒の姿はまだ一人もない。でもまあ、そのおかげでまひるちゃんと普通に話をできるんだから助かる。
「今日は和服を着て接客する事になると思うけど、大丈夫?」
「はい、大丈夫です。着付けも自分でやれますし」
「へえー! 自分で和服の着付けができるなんて凄いね。そういえばまひろも自分で着付けができるみたいだけど、誰に教わったの?」
「あっ、それはうちのママに習ったんですよ」
「えっ? でも確か、お母さんて外国の人だったよね?」
「実はうちのママ、昔から日本文化に凄く興味があったみたいで、日本に来てからは着付けとかお茶とか色々やってたみたいなんですよ。だからその影響で、私やお兄ちゃんもそれを一通り教えられてたんです」
「ああー、なるほどね。これでまひろも着付けができる理由が分かったよ」
まひろは昔からあまり自分の事や家の事を話さなかった。だから親友である俺でさえ、知らない事は案外多い。
もちろん俺も色々と聞いてみたい事はあったけど、まひろがそれを避けている以上、無理やりご家庭事情を聞くわけにはいかない。誰にでも知られたくない事や話したくない事はあるだろうから。
「でもさ、まひろはそういうのを嫌がってたんじゃない?」
「そうでもないですよ? ママから教えてもらってる時はとても楽しそうでしたし」
「そうなんだ。結構意外だな」
「どうしてですか?」
まひるちゃんからそんな質問をされた俺は、その理由を話していいものかと少し迷った。
まひろは昔から女性的に見られるのを嫌っている。その女性的に見られる事に対して嫌がる態度を見せる根底にあるのは、小学校時代に可愛らしいからとイジメを受けていた事に原因があるのは間違い無いだろう。
俺はそんなまひろの事情をまひるちゃんも知っていると思っていたけど、今のまひるちゃんの反応を見た時、もしかしたらまひるちゃんは、まひろがイジメられていた過去を知らないのかもと思った。
よくよく考えてみれば、まひろは自分が傷付いている事を自分から口にするタイプではない。それは良い意味で我慢強いと言えるのかもしれないけど、そんなまひろの奥底にあるのはおそらく、他人に迷惑をかけたくない――とか、心配をかけたくない――とか、そういう思いなんだと思う。
だからそんなまひろが、妹に対してそんな話をするとはやはり思えない。
「ん~。ほら、まひろって可愛らしい顔付きをしてるからさ、昔からそういうのを少し気にしてたりしたんだよね。だから女性的な習い事とか好きじゃなさそうに感じたんだよ」
返答としてこれが最良だとは思えないけど、とりあえずぼかし過ぎず言い過ぎずの返答にはなっていると思う。
「確かにそういった感じはありましたけど、楽しんでいた事は間違い無いですよ?」
「そうなんだ。まあ俺は、まひろが納得の上で楽しんでるならいいんだけどね」
「大丈夫です。そこは私が保証しますから」
自信満々にそう言うまひるちゃん。俺の知らないまひろの姿を知っているからこその断言なんだろうけど、それが俺には少し羨ましかった。
まひろとは小学校二年生からの長い付き合いだけど、それでも茜に比べればやはり知らない事は多い。それがなんとなく寂しく感じてしまうからだ。
「そういえばまひろお兄ちゃんに聞いたんですけど、昨日はA班に僅差で売り上げ負けちゃったらしいですね」
「そうなんだよね。だから今日はどうしても勝たないと。まひるちゃんには苦労をかけるかもだけど、よろしくね」
「大丈夫です! 今回もお兄ちゃんにはお世話になってますし、精一杯頑張ります!」
「頼もしいね。期待してるよ、まひるちゃん」
「はい! 任せて下さい!」
にこやかな表情を見せながら、まひるちゃんは元気に頼もしい返事を聞かせてくれた。
今日の最終日、やはり集客の鍵になるのはまひるちゃんなのは間違い無い。とは言え、やはり親友の妹をこれ見よがしに利用するというのは気が引ける。
――なるべくまひるちゃんに苦労をかけない様に頑張らないとな。
そんな事を考えながら生徒の姿が無い花嵐恋学園への通学路を歩き、俺は文化祭最終日への気合を入れ直した。