夏の日の約束
二学期の開始早々、転校生を前にしたクラスメイト達は活気づいていた。
担任の鷲崎先生から呼ばれて教室の中へと入って来たのは、秋野さんの情報どおりに薄いブラウンのセミロングに軽いウエーブのかかった子で、目鼻立ちがはっきりしていて、まるでテレビで見るアイドルみたいに可愛らしい女の子だった。
男としてはそんな可愛らしい子がクラスメイトになるなんて喜ばしい限りだけど、俺はそんな転校生を見てちょっと困惑していた。
「それじゃあ、自己紹介をお願いね」
「はい。みなさん初めまして、私は朝陽瑠奈と言います。親の転勤でこちらに引っ越して来ましたが、小学校四年生の最初の頃まではこちらに住んでいました。久しぶりにこちらに帰って来れて嬉しいですが、色々と様変わりしていて戸惑う事もあると思いますので、色々と教えて下さい。よろしくお願いします」
そう言ってるーちゃんがペコリと頭を下げると、パチパチと拍手がクラス中から起こった。
俺はというと、他のクラスメイト達みたいに拍手をする余裕は無く、明るい笑顔でそう言うるーちゃんを見ながらただ唖然としていた。
まさかるーちゃんが転校生としてこの花嵐恋学園にやって来るなんて、思ってもいなかったからだ。
「では朝陽さん、窓際の一番後ろの席に座って」
「はい」
先生にそう言われたるーちゃんはこちらの方を見て一瞬微笑むと、スタスタと俺の後ろに用意されていた席の方へと歩いて来た。
「よろしくね。たっくん」
横を通り過ぎて後ろにある席に座ったるーちゃんが、俺にしか聞こえないくらいの小さな声でそう言ってきた。そんなるーちゃんの言葉に俺は後ろを振り向く事もできず、何度か小さく頭を縦に振るくらいしかできなかった。
そして先生からの連絡事項が終わり、朝のホームルームが終了したあと、俺はるーちゃんから話し掛けられるんじゃないかと少し身構えていたんだけど、その予想は見事に外れた。なぜならるーちゃんは多くのクラスメイトに囲まれ、早速あれやこれやと質問を受けていたからだ。
「龍ちゃん。ちょっといいかな?」
その事に少しだけほっとした気分でいたその時、右斜め前の席に居る茜が話し掛けて来た。
「何だ?」
「ちょっとこっちに来て」
「お、おい!?」
茜は何やら険しい表情で俺の腕を掴んで無理やり立たせると、そのまま廊下の方へと引っ張って行く。
「何だよ! こんな所まで引っ張って来て」
強制的に廊下の一番奥の方まで連れて来られた俺は、茜の手を強引に振り払ってから少し強めにそう言った。
「龍ちゃん。転校して来た朝陽さんて、あの時の子だよね?」
茜は俺の言葉に一切動じる様子も無く、相変わらずの険しい表情でそう聞いてきた。
「何だよ。あの時って」
茜の言っている言葉の意味はすぐに分かった。
でも、俺はその意味が分かっていながら分からない振りをした。だって真実を知ってしまえば、茜とるーちゃんは絶対に仲良くできないだろうから。
「どうしてとぼけるの? あの子は龍ちゃんをあんな酷い目に遭わせたんだよ? 忘れちゃったの?」
忘れるわけがない。あの時の事は今でも鮮明に思い出せるくらいだ。
だから少なからずあの出来事に関係している茜が、こうして憤る気持ちは分かる。
「おいおい。ちょっと落ち着けよ。どうしてあの朝陽さんがあの時の子だと思うんだ?」
「……だってあの子、席に座った時に龍ちゃんに向かって『たっくん』って言ってたから。龍ちゃんの事をその呼び名で呼んでたのって、あの子以外には居ないもん」
どうしてあの小さな囁き声が茜に聞こえていたのか不思議でしょうがないけど、茜はもう、るーちゃんがあの時の子だとはっきり認識しているみたいだった。
「……仮にそうだったとしてもさ、そんなのはもう過去の話だろう?」
「龍ちゃんはまだあの子の事が好きなの? だからあの子を庇うの?」
「えっ? そ、それは…………」
「私は嫌だよ……龍ちゃんがまたあんな目に遭うかもしれないなんて、想像しただけで嫌……」
茜はそう言うと、しょんぼりと肩を落として教室へと戻り始めた。そんな元気の無い茜の姿は、一時期疎遠になっていた当時の茜の事を思い起こさせ、茜を追いかけようとした俺の足を動かなくした。
どうして茜の問い掛けに対し、すぐに『違う』と言えなかったのか。それは俺にもよく分からない。ただ、あの頃のモヤモヤとした気分を思い出したのは確かだった。
そして茜とそんなやり取りがあったあとの最初の授業。俺の隣にはるーちゃんの姿があった。
「ごめんね。邪魔にならないかな?」
「いや。大丈夫だよ」
授業が始まってすぐ、俺の席の横に自分の席を付けたるーちゃんが、小さくそんな事を言った。
るーちゃんはまだ転校初日という事もあり、教科書の一部が揃っていない。だから一番近くに居る俺が、るーちゃんに教科書を見せる事になっていた。
――そういえば昔もこんな事があったな。あの時は俺が教科書を見せてもらってた方だけど。
そんな昔の事を少し懐かしく思いながら隣のるーちゃんをチラリと見ると、るーちゃんは先生が黒板に書き出す文字を一生懸命ノートに書き写しながら、平行して教科書の文章にも目を通していた。
「ん? どうかした? たっくん」
「えっ? ああ、いや、何でもないよ」
何度目かのチラ見をした時、偶然るーちゃんと視線が合った。
チラチラとるーちゃんの様子を窺っていた事が恥ずかしくなり、俺は慌てて視線をノートへと移した。
「そお? 授業はちゃんと聞かないと駄目だよ?」
「う、うん」
そう言うとるーちゃんは小さく微笑み、再びノートにペンを走らせ始めた。
そしてそれから午前中の授業が終わるまでの間、美月さんが転校して来た時とは違い、特に俺が慌てふためく様な事は起こらなかった。それというのも、その端整な姿から注目が集まったからなのか、休憩時間になればすぐにクラスメイト達から囲まれていたので、俺がるーちゃんとまともに話す時間が無かったからだ。
しかしまあ、今朝の茜の事を考えると、むしろそれで良かった気がする。でも、るーちゃんに教科書を見せる必要がある授業の度に、茜がこちらを向いて複雑な表情を見せるのだけはやたらと気になった。
× × × ×
るーちゃんの存在と茜の気持ちに板挟みにされている様な、そんな居心地の悪い気分で今日を乗り切り、放課後になったところで俺は逃げ出す様にして教室を出てから帰路を歩いていた。
「待ってー!」
少しぼやーっとした気分で帰路を歩いていたその時、不意にるーちゃんの声が聞こえて俺は後ろを振り返った。
するとるーちゃんが手を振りながら俺のところへと走って来ていた。
「はあ~、やっと追い着いた。ねえ、たっくん。一緒に帰らない?」
「うん。いいよ」
「ありがとう」
特に断る理由も無いので快諾したけど、そのあとで思わず茜が近くに居ないかを確認してしまった。我ながら茜の事が相当気になってるんだなと、そんな風に思ってしまい、少し気恥ずかしくなった。
そしてそんな事を考えている内にるーちゃんは息を整え、俺はそんなるーちゃんと一緒に帰路を歩き始めた。
「ねえ、たっくん。私が転校して来て驚いた?」
「そりゃあ驚いたよ。まさかるーちゃんが転校して来るなんて、夢にも思ってなかったから」
「そっか。ごめんね、驚かせちゃって。本当は前に会った時に言っておくべきだったと思うけど、ちょっとたっくんを驚かせてみたくなっちゃったから」
「もう驚き過ぎて心臓が止まるかと思ったよ」
「ええっ!? そんなに?」
「いや、さすがにそれは嘘だけどね」
「もうっ! たっくんの意地悪」
「あはは。ごめんごめん」
なんとも他愛ない会話を交わしながら、二人でのんびりと帰路を歩いて行く。
まるで仲良くしていたあの頃の様な、そんな懐かしい感覚に俺は少し頬を緩ませていた。
「そういえばさ、親の転勤でこっちに戻って来たって言ってたけど、こっちにはどれくらい居られるの?」
「うーん……正直どれくらい居られるかは分からないけど、少なくとも、花嵐恋学園花を卒業するまでは居られると思うよ」
「そっか。それじゃあ、改めてよろしくね」
「うん。こちらこそ、よろしくお願いします」
お互いにペコリと頭を下げあう。
こんな調子で本当に何気ない会話を交わしながら歩き、もうそろそろ俺の自宅が見え始める位置の十字路付近まで来た時だった。
「あの、たっくん。ちょっと聞いてもいいかな?」
「ん? 何?」
ピタッと足を止めたるーちゃんが、少し神妙な面持ちで声を掛けてきた。
「朝のホームルームのあと、一緒に教室の外へ出て行った女の子が居たでしょ? もしかして、あの時の子?」
「えっ!? それは…………」
茜といい、るーちゃんといい、今日は本当に答え辛い質問が飛んで来る。
――さてと、どう答えたらいいかな……茜にもすぐばれた手前、とぼけるのもどうかと思うし、かと言って正直に答えるのもな……。
「あっ、ごめんねたっくん、変な事を聞いて。今の話は忘れて」
「えっ? でも」
「いいの、ちょっと気になっただけだから。あっ、それからこれ」
そう言うとるーちゃんは鞄からハンカチを取り出し、それを俺に手渡してきた。
それは約七年ぶりに再会したあの夏休みの日に、俺がるーちゃんに手渡したハンカチだった。
「あの時はありがとう」
「こちらこそ、わざわざありがとう」
「ううん。ちゃんと約束を守れて良かったよ」
そう言ってにこにこと笑顔を見せるるーちゃん。
――そういえばあの時、『必ず返しに来るから』とか言ってた気がするな。つまりはあの時点で、既に花嵐恋学園へ来る事が決まってたって事なのかな?
「それじゃあ、私はこっちだから」
「あっ、うん。気を付けて帰ってね」
「ありがとね、たっくん。バイバイ」
「バイバイ、るーちゃん」
るーちゃんはそう言って十字路を右に曲がり、ぽつぽつと歩いて行く。
そして遠ざかって行くるーちゃんの後姿を見ながら、俺はまた懐かしい感覚を思い出していたんだけど、同時にこれからの事を考えて少し気が重くもなっていた。