角隠しの桜
風が色付く。薄紅の色だ。散る花弁が後から後から降り注いでくる。花が吹雪いて結耶の視界を覆っていた。なのに枝を飾る花々は減った気配がない。今が盛りの桜の木は、時折その両腕を重たそうにしならせていた。
「あぁ、角隠しの桜だ」
皆藤が懐かしむように言った。結耶は角隠し、と首を傾げる。角隠しといえば最近東で流行りの嫁入り装束だ。男の皆藤が被るには不似合いな代物だろう。結耶の疑問に答えはなく、皆藤は灰色の外套を翻して桜の元へ近寄った。上背があるせいか、結耶を振り返るその顔の、丁度上半分が桜へ覆い隠される。酷薄そうな口元だけが薄紅から覗いていた。
「ねぇ結耶。ここの桜は見事だろう」
頷く結耶に皆藤は満足そうに口の端をあげる。皆藤に誘われてやって来た里の外れだったが、こんな場所があるとは知らなかった。
「昔、この辺りには鬼がいたんだ。だけど、この桜が鬼の角を隠してしまえるほど見事に花を咲かせるから、鬼は鬼でなくなってしまったんだよ」
いつものように皆藤の唇が戯れ事を紡ぎ出す。母方は華族と繋がる家系だというのに、皆藤はよく夢物語のような話を結耶に聞かせた。西洋被れだが、育ちの良い坊だと人は言う。結耶はその評価を聞く度に半分納得し、もう半分に変わり者だと付け足した。
「ある日、鬼はこの桜の木の下に立って花見をしていた。そこへ鬼を知る少女が通りかかり、言った。鬼がいなくなってしまったわ。だって、桜で角が見えないんですもの、と。だからこの桜の木の下に立った鬼は、鬼でなくなってしまうんだよ」
皆藤が桜に紛れて笑う。花弁がまた溢れて散る。ざざと風の音が響いた。
「今からざっと百年ほど前の話だ」
結耶の祖母の家はこの近くにある。しかし、そんな話は一度たりとも聞いたことがなかった。また皆藤の悪い癖が始まったのだ。昔のことをさも見知っているかのように語るのは。大方、小難しい本の読みすぎで、夢と現実が混ざっているのだろう。
「お前はいつの時代も信じないね」
皆藤が苦笑する。結耶はその嘘に慣れ親しんでしまっている。皆藤が誘うように手を伸ばし結耶を枝の内へと引き寄せる。満開の桜の下の皆藤に鬼の角はない。どこか楽しげな眼差しが結耶を見下ろしていた。
「私は人に嫁ぐつもりなんですから」
「そうだった。今度はお前に角を隠して貰わないと」
<了>




