≪三章≫砕かれた記憶は ①
「――――あっ」
石動冬弥の思考はすでに真っ白になっていた。
少年――カエデは大きく両腕を開いて一歩ずつ距離を詰めてくる。
まるで死のカウントダウン。
この場にいる者でまともに身動きできるのはカエデただ一人。
あえて挙げるのなら、冬弥の中の“誰か”だけが、あらん限りの敵意を少年に放っている。
「どうしたツカサ。何をそんなに怯えている?
七年ぶりの再会だ。もっと喜んでくれてもいいのではないか?」
微笑みながらも口調はやはり嗜虐じみた恍惚のみ。
二度も名を呼ばれた司は苦悶に表情を歪め、唇を強く噛んで泣くのを堪えている。
記憶のない冬弥はカエデに見覚えはない。
なにより昨夜の記憶さえも封じられた彼に、目の前の魔術師を思い出すことなどできない。
無論、カエデと司が過去にどのような軋轢を抱えているのかなど、知る由もない。
「………………ァ……」
「だんまりか? 昔と変わらんな。
年月を費やせば多少は忘れるものだと思っていたが、やはりあの出来損ないが死んだ事実は薄れぬか」
「――――――――――――ッ!」
ビクリッと、恐怖に固まっていた司の肩がさらに強張る。
カエデがその様子を見てククッと、喉の奥で嗤う。
冬弥はカエデの不気味さに、命の危険を感じる。
得体の知れないモノが目の前にいる。
たしかにそれは恐怖を抱くには十分な理由だ。
生物として当然の本能だ。
だが、未知なるモノを眼前にした時とは根本的に異なる恐怖が、心の底へとどす黒いタールのように沈殿していく。
これが死への畏怖だというのなら、カエデは少年の姿を借りた死神以外の何者でもない。
「七年前、貴様を取り逃がしたのは完全なミスだと思っていたが、むしろ状況は好転していたようだな。
ありもしない罪に囚われ、自虐によって他者を傷つけ、己の存在を己こそが否定している。
ある意味もっとも愚かで愛おしい負の連鎖を抱えて育った貴様は、今こそ喰らうに値する。
よろこべツカサ。貴様はようやく死ぬことができるぞ。クククッ、クハハハハハハ!」
大きく開かれた口が裂けるほどに割れる。
死神の哄笑はどこまでも高く夜空に轟く。
月明かりのない夜の闇は事実、カエデから湧きでる黒く不吉な妖気と同化する。
ときおり雷鳴を奔らせる黒雲は冬弥と司の心境を映すかのように、その重みを増していく。
司は震えながらついに視線を下げた。
高く嗤う死神を見る勇気は初めからない。
その声すらも拒絶するように強く耳を抑えてうずくまる。
されど、その禍々しい気配は消えない。
もはや一刻の猶予もない。
このままでは司の精神は、すぐにでも壊れてしまう。
「ククッ――嗤わせてくれる。
アレの死がそこまで貴様を苛んでくれるとは予想外だった。
おかげで貴様の自我はいつでも破綻寸前だったらしい。
それだけ自己防衛が不全となっていれば“魂”の抽出にも時間はかからぬ」
「――――――――――――やめ、て」
「何をだ? 七年前に死んだあの小僧の話をか?
それともまだ死にたくないのか?」
「やめ……て…………」
「ククッ、それだけではわからん。何をやめてほしい?
よもや隣にいる矮小な人間を殺すなとでも?
冗談は程々にしておけ。いまさら貴様と関わった人間が何人死んだとしても変わるまい」
「ッ! ――――――――ッッッ」
震える両手を組んで懇願する司の姿がカエデにはどれほど愉快に映ったのか。
歪な嗤顔はさらに歪み、嗜虐を映す瞳は喜色を孕む。
きつく眼を閉じて、なおも怯える司と嗤うカエデを見比べる冬弥は、ここに至ってようやく、何をすべきか判断した。
「しかし不思議なヤツだ。昨夜は大人しく死んでくれた貴様が、今になって闘争を巡らすか。しょせん人の身であろうよ。
それとも何か、昨夜の出来事は忘却したか?
どいつの手法かは知れぬが、不完全な蘇生式では記憶の復元までは至らぬか」
言われて初めて気づく。
冬弥はカエデから司を隠すように、司からカエデが見えないように、二人の中間に立っていた。
「昨日のことなんざ覚えちゃいねぇよ。テメェになんて逢ったこともねぇ。わけわからねぇことくっちゃべってんじゃねえぞ」
精一杯の虚勢を張るが、全身が大きく震えている。
笑った膝が一秒たりとも制御できない。
それでも彼は大切な者を守るために、死神と対峙する。
「ふん、やはり忘却しているか。それもそうだな。どうやら貴様は魔術の素質がないゴミらしい。
他の人間と同様に、無能として扱われているのだろう?
ならば魔術師にとって不都合な記憶は抹消されて然りだ。
しかし解せぬ。昨夜は確実に息の根を止めたはずだ。それこそ蘇生できぬほどに。
如何にして黄泉返った? その問いにのみ発言を許可しよう」
「わけわらかねえって言ってんだろクソガキ。とっととどっかへ失せやがれ」
不吉なナニかと言葉を交わし、冬弥はその一言一言に頭痛を覚えた。
骨を内側から割られる感覚に近い。
少年は記憶を忘却されたと言った。
ならば、この頭痛は封じられた記憶が甦ろうとしているからなのか。
――思イ出セ。忌マワシキ記憶ヲ――
“誰か”はしきりにそう訴える。
しかし冬弥は、獣の言いなりになるつもりも、カエデの台詞を熟考する余裕もなかった。
たとえ記憶が消されているのだとしても、いまさら記憶の一部が思い出せないくらいで不安定になるほど精神的に弱くもない。
たとえ一度殺されていたのだとしても、いま生きているこの時こそが、唯一の事実であると割り切った。
そして何より。怯える義妹を守るために、震える脚で地面を踏みしめる。
「御託はいいからさっさと消えろ。テメェがいると、司と一緒に帰れない」
「回答だけを許すと言ったはずだが、そうか……貴様はそんなに死にたいのか」
殺される。
そう宣言された冬弥はあまりの威圧感に一歩退きそうになった。
何よりも、後ろで蹲っている司が、より激しく肩を震わせた。
「やってみろよクソガキ」
「ッ! だ――――」
「ならば死ね」
「ダメェ!!」
司の抑止は間に合わなかった。
カエデはすでに指を弾き、どこからともなく出現した無数の木の葉が一枚、弾丸となって冬弥を襲っていた。
司にとっては二度と見たくなかった光景が再び、司の精神を侵す。
カエデにとっては、とるに足らない命を滅殺するための魔の弾丸。
冬弥にとっては、絶命必至の襲撃。
しかし、
――カワセ、トウヤ! ――
“誰か”の声が懐かしい響きを冬弥に与えた。
「!?」
割れるような頭痛に霞んでいた視界が刹那の閃光にかき消され、体内を駆け巡る雷に流星の軌道を覚える。
開けた視界には音速で迫る一発の弾丸が……。
されど冬弥の感覚でそれは、現実の千分の一の速度に見える。
(遅い!)
「なに!?」
「――――ぇ?」
三者三様の反応だけが残った。
撒き散らされるはずの鮮血も、転がるはずの死体も、愚かさを嘲笑う声もない。
放たれた魔弾ははるか彼方。
冬弥は亜音速で飛翔した弾丸を、回避していた。
次回は12/1
21:00投稿予定です。




