≪三章≫幕間 ~ちいさなちいさな逃避行 ①~
日が沈むころに美月は帰宅した。
自分の呼吸音だけが耳に届く部屋の中で、冬弥は眠れずにいる。
もう充分に体力は回復したのだが、夏流から「絶対安静」とベッドから出ることを禁じられていた。
せめて話し相手がいれば楽なのに、夏流も秋夜もカエデの対策に余念も余裕もないため、冬弥にかまっている時間はない。
一人寂しく時間を浪費しようにも、宿舎内を徘徊していると夏流から大目玉を食らうので、やはり大人しくしているしかない。
布団に潜って目を閉じていると、ほんのわずかに廊下が軋む音がした。
もしかしたら夏流が様子を見に来たのかもしれない。
(ちょっと驚かせてやろう)
ほとんど足音を鳴らさず、ゆっくりと気配が近づく。
誰かはベッド脇で止まり、声をかけてくる様子もない。
冬弥はタイミングを計り、飛び起きようとした。寸前に、
「――――トウヤ」
細い吐息のような声音に、動きを止めた。
(司……?)
予想外の人物の来訪に戸惑う。
それきり司は一言も発しない。
ただ黙って冬弥を見ているだけだ。
この少女は自分の思っていることを口にすることがまずない。
いつだって彼女は心を閉ざしたまま、誰とも口を利こうとしない。
ごく稀に話したとしても一言ですませてしまい、眼を見ても何を考えているのか予想がつかない。
そんな司がどうして冬弥の部屋を訪れたのか。
ありていに考えれば冬弥を心配してのことだろう。
けれどなんとなく、冬弥は違うと思った。
はっきりと断言はできないが、司の声は物悲しく、そして孤独だと感じた。
司は手を伸ばして冬弥に触れようとする。
しかし触れるのを躊躇してすぐに引いた。
未練がましい自分を諌める。
こんな私が誰かを求めてはならないのだと。
「…………さよなら……」
消えいりそうな声で、冬弥にも届かないほど小さな声で、司は別れを告げた。
愚かな自分を、弱い心を押し殺して、背を向けた。
けれど歩むことはできなかった。
病的に細い、簡単に折れそうな手を、掴む手があった。
「どこに行く気だ?」
布団から這い出た冬弥が、霧散してしまいそうな司を引き止めていた。
「……起きて、いたの……?」
「答えろ。どこに行くつもりだ」
「…………」
答えられるはずがなかった。
行く当てなどないのだから。
どこへ行こうが関係なかった。
きっと逃げられないと理解しているから。
もうこれ以上、誰にも傷ついて欲しくなかった。
だから「さよなら」を告げに来た。
冬弥にも夏流にも秋夜にも知られぬまま、消えてなくなりたかった。
自分のせいで不幸になってほしくなかった。
きっとみんな心配するだろうとわかっていた。
だから本当は誰にも「さよなら」を告げずに去るつもりだった。
けれども、それはできなかった。
唯一の心残りだけは、どうしても無視できなかった。
「家出か?」
冬弥は優しい口調なのに、いつになく厳しく問いただす。
表情こそ変わらないものの、司の心は大いに揺れていた。
ずっとこの手を繋いでいたい。
放さないでほしい。
側に居たい。
夏流と居たい。
秋夜と居たい。
冬弥と居たい。
ここにいたい。いたい。いたい。イタイ。イタイ――――痛い。
「…………」
「…………」
無言のまま時間が過ぎる。
冬弥は問い詰めたりはしない。ただ、掴んだ手は絶対放さないと眼で語る。
司は気持ちを言葉にしない。ただ、本心を隠して消えてしまいたいと願う。
どれほどそうしていただろうか。
先に折れたのは冬弥だった。
「……しょうがないな」
ちょっと待ってろと言いおいて、ベッドから降りる。
着替えようとして、司がずっと凝視しているので、途中で止まった。
「あっち向いててくれ」
「…………」
おもむろに着替え始めたくせに、変なところでヘタレな男である。
「よし、行くか」
ジーンズにフェイクムートンのジャケットという軽装で、冬弥は司の手を引いて先行した。
冬弥の意図が読めないまま、司はなし崩し的にそのうしろについていく。
次回は11/23
22:00投稿予定です。




