≪三章≫目的
空が暗がりから明け方へと移行するより前に、秋夜は礼拝堂の信徒席にいた。
礼拝堂の内部は暗闇が支配していた。
その暗闇に、わずかばかりの光が入る。
締め切っていた扉が開かれ、まだ遠い朝の気配を背に入ってきたのは、腰まで届く長い黒髪を結った夏流だ。
「首尾は?」
夏流は扉を閉め、秋夜の座る信徒席ではなく、赤絨毯を挟んだ隣の席に腰をおろす。
「記憶は、消したよ」
その声にいつものような明るさはない。
どこか力の抜けた、泣き出しそうな弱い返答だった。
記憶を消したというのは、冬弥のことを指している。
もし目覚めたときに自分が殺された記憶が残っていては、人間の精神などたやすく崩壊してしまう。
だから秋夜と夏流は、いまだ昏睡状態に陥っている冬弥の記憶を昨夜の数時間分のみ消去した。
「そうか」
問いかけた秋夜もやはり疲れているのだろう。
隠そうとしている疲労感が言葉の端々から滲んでいる。
「ねえ、兄さん……」
「なんだ?」
「冬弥くん、死…………死なないよね?」
言い淀んだ夏流の声は震えていた。
「……」
夏流の問いに、秋夜は答えられない。
あんな事象は、長らく生きてきた秋夜にとっても初めての経験だった。
カエデの使役する魔術の特性として木の葉でつけられた傷は、術者が解呪するか、術者を倒すかしなければ、どのような治癒魔術であっても回復できないはずなのだ。
にもかかわらず冬弥の肉体には――心臓を抉られるほど深かったはずの傷が、一切残っていないのである。
それどころか破れた心臓まで再生され、生命活動を維持していた。
完全な蘇生は魔法に分類される。
魔術ですらおよばない神秘の域である魔法を、ろくに魔術を知らない冬弥が発動できるはずがない。
理に適わない異常であるのに、現実に起こっている。
仮に魔法が正常に発動していたとして、また冬弥が人間として再起できるかは不明だった。
答えが返ってこないという答えを得て、夏流はすがるように訊く。
「……もう、終わったんだよね?」
夏流の表情は、泣き出してしまいそうなほど弱々しい。
争いごとが苦手な夏流は、誰かが血を流すような事態を嫌悪している。
もともと心優しい彼女には戦闘行為を甘受できるような豪胆さはなかった。
加えて、彼女に流れる鬼の血が他人の血を見てしまうことで、高揚してしまうのだ。
血生臭い戦場に慣れていない夏流は鬼の血が濃くなると、ヒトとしての理性を保ちにくくなってしまう。
今回はなんとか血の誘惑を振り切れたが、万が一にでも次があれば、耐え切る自信がない。
しかも、魔術師の世界とはほぼ関係のない冬弥が犠牲になったことが、よりいっそう彼女を苦しめている。
できることならヒトとしての平穏を望んでいる夏流は、もう二度と、このような事態に直面したくないと思っているのだ。
だが……
「いや、まだだ」
つたない希望は、真っ向から否定された。
「どうして? だって、兄さんはカエデを倒したんでしょ」
「あの化け物がそう簡単に滅んでくれるのなら、誰も苦労しない」
苦虫を噛み潰したように秋夜は眼を細めた。
「ヤツの魔術の一つに、自分と同性能の分身を造るモノがある。
本体はあの場にはいなかった。情報収集が目的だったんだろう。
やつの目指す魔術の特性上、満月でなければ効果を最大限に発揮できないからな」
二百年前。
カエデと同行していた時期があった秋夜だけが知る、目的と魔術特性。
それはいくつかの条件に縛られている。
カエデも魔術師であるからには、その目的は世界の始まりたる“原初”への到達に他ならない。
ただし、そのための手法が特殊なのだ。
まず通常の魔術師は、一種の魔術を究極にまで昇華し、個人が世界に影響をおよぼすことで“原初の門”に干渉しようとする。
カエデの場合、もとより“原初”に近しい存在――いわゆる『神』を現世から天界へと追いやることで“門”を開こうとしているのだ。
そのためには『神』の“魂”を身の内に宿す『転生体』から“魂”を抽出しなければならない。
通常の魔術師では、じかに『神』に干渉できるような超高度な魔術を個人で発動できたりはしない。
しかしカエデは『神』と同じく神代から存在している魔導書を使用することで、この問題を解決していた。
その魔導書に記された“魂”の抽出法に、もっとも魔力が濃くなる満月の晩が発動の最低条件として記されている。
さらに術式発動時の条件として、カエデみずからが『転生体』に触れる必要性がある。
「それじゃあカエデの目的は……」
それらの事実を知らされたうえで、夏流は嫌な予感を抑えられなくなる。
カエデが秋夜との再会を目的にやって来たのでなければ、当然『転生体』を狙ってこの地に来たことになるのだから。
最悪なことに、この教会では七年ほど前から一人の『転生体』を家族として迎えいれている。
「あぁ、あいつの狙いは……司だ」
世界でも数少ない魔術師。
その中でも司は、希少な『転生体』であった。
「どうやってここを嗅ぎつけたのかはわからないが、向かってくるのなら倒すしかない。できれば先刻のうちに決着をつけておきたかった」
悔しさがそのまま声になってこぼれていく。
秋夜が早々に決着をつけていられれば、冬弥が瀕死に陥ることもなかっただろう。
もっと言うなら、何度も夏流にいらぬ心配をかけるのを悔いているのかもしれない。
だが、それは違った。
常に冷静に状況を分析していく秋夜が、すでに遅れた対処に捉われているわけがない。
そうと考えて夏流はようやく、秋夜の意図を汲みとった。
カエデが“魂”を抽出するための術式を発動するためには、満月であることが必要不可欠だ。
ならば、敵はもう一度、ここを攻めてくる。満月の夜……つまり、次の夜に。
「俺はしばらく眠る。さすがに日中に手を出してくるほど余裕のない雑魚ではないからな」
席を立った秋夜がまるで闇に飲まれるように遠退いていく。
もう二度と会えなくなるような幻視に苛まれて、夏流は思わず叫んでいた。
「兄さん!」
「心配するな。お前らには指一本触れさせん」
重たい扉が開き、空の色が垣間見えた。
黒から紺に変わろうとする空は、まるで夏流の心象風景を映すように、不吉な曇天に隠されていた。
次回は11/21
22:00投稿予定です。




