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「ねぇ、キスしてみよっか」
その言葉はやさしく甘美で蟲惑的で、孝一の脳髄を痺れさせた。
いけないということは分かっていた。
だが、なぜいけないのかを、孝一は本当には理解していなかった。
例えばそれが麻薬の痺れに似ていて、ぼろぼろに擦り切れて初めて知れる痛みの後悔に似ていることを、孝一はまだ知らなかった。
それに。
「孝ちゃん」
口付けは、甘い花のような味がしたのだ。
さて、ピーター・パン討伐にあの彰が加入するというニュースはソルガル世界を震撼させた。
孝一は知らなかったが、そのあまりのギルド嫌いと高すぎる実力によって、彰はピーター・パンの隠れ幹部なのではないかとすら疑われていたのである。
その彰が加入するということの意味は、単にスーパープレイヤーが戦力化されたことにとどまらない。
多くのソルガルプライヤーがこう感じたのだ。
ついにこの世界が終わるときが来たのだと。
孝一と莉子も参戦を決めた。
彰が孝一達の家を訪れた翌日の、アヌビスこと、開放ギルドマスター小百合の興奮といったらなかった。
長身の妙齢の美女が、期待と熱意で瞳を潤ませ頬を上気させる様は、たとえ下心がない人間であれ魅了するものがあった。
ついに終わるのだ。
一体どのくらいの時間続いて来たのかすら明瞭ではない、この不可思議な現象がやっと終わり、元の世界に帰れるのだ。
多くのプレイヤーの心が、突如持ち上がった希望に向けて収斂されようとしていた。
彰加入の効果は、ピーター・パンではないにしろ、彼ら寄りの思想を持つプレイヤーの心を、ゲームクリアに掻き立てる役割も担った。
ゲームクリアをあきらめ、順応したこの世界での生活が続くことを甘受し始めていた彼らは、今一度その心を奮い立たせたのである。
ピーター・パン討伐はいつしか「聖戦」と呼称されるようになり、参加するもの達は自分達を「開放軍」と名乗り始める。
一ヵ月後の決行は長すぎるという意見すら出始めた。
だが実際には、この作戦の成功率は百パーセントには程遠い。
現在のソルガル内の勢力状況を正確に知るものはいないが、今回の開放ギルドを中心とした「聖戦」への参加者の数は、約五百名に上っている。
これはプレイヤーの総人口が千五百名程度と言われているソルガル世界の、約1/3が反ピーター・パンとして立ち上がったことを意味する。
対する、ピーター・パンのプレイヤーの数は、およそ八百名と言われている。
数の上では、未だピーター・パンに絶対的なアドヴァンテージがあるのだ。
ここで戦況を左右すると予想されるのが、数名のスタープレイヤーの動向である。
「よく集まってくれた」
サクラハ草原。
全てのプレイヤーが最初に訪れるこの戦闘フィールドに、武装した数人のプレイヤーが肩を並べている。
彰が「聖戦」参加を表明して一週間後。
その中にはソフィとリリスの姿もある。
「流石に、早々たる顔ぶれだな」
アヌビスこと小百合が指摘する通り、その場に集まったのはソルガル世界で勇名を馳せるいずれ劣らぬスタープレイヤー達であった。
「僭越ながら、私から自己紹介をさせてもらう。皆さんも順にお願いします」
そう言ってアヌビスが一歩前に出る。
薄布一枚を器用に体に巻きつけた、緑髪の天女の姿をした開放ギルドマスターは、一礼して己を名乗った。
「私はアヌビス。開放ギルドの長を務めている。
プレイヤー名は小百合。シングルだ。フェアリーを使っている」
ざわり、と一瞬場の空気が変わる。
アヌビスがフェアリーを使っていることを知らないものもいたのだろう。
フェアリーとは、何らかの要因でひとりとなってしまったプレイヤーの救済の為に用意されたシステムである。
プレイヤー一人でも、本来男女が融合したアバターであるクレセントガールになることが出来る。
この世界に来るとき、人は誰しも男女の一組であるが、彼らは時にパートナーを失い、行動を別にすることがある。
クレセントガールは戦闘フィールドにおいて不死身だが、市街フィールドにいる間の生身のプレイヤーは、食事を取らなければ餓死するし、命に危険が及べば死亡すらする。
命があれば、市街の「医療施設」を訪問すれば完全に治癒されるが、失われた命は二度と戻らない。
こうしてパートナーを失った人々は、実は少なくない。
そうした人々はシングルと呼ばれている。
ちなみに意図的にシングルになる方法は二つしかない。
これをセパレイトと呼ぶ。
協議のもとお互いの同意が得られれば、システムコンソールがある市街フィールドの施設に行って申請をする。
もしも同意が得られない場合、もう一つの方法を取るものも稀にいる。
パートナーの殺害である。
この方法を取るものも、実はそれほど少なくないのである。
統計的に、セパレイトしたプレイヤーはピーター・パンになりやすいと言われている。
アヌビスがシングルであることが判明して、みながざわついたのも無理はない。
だがアヌビスはあわてずに、逆ににこりと笑って見せた。。
それは後ろ暗いことなどなにもないという、笑みだった。
「一年前、私は不幸にもパートナーを失った。
彼は現実世界での恋人で、アヌビスのメインはもともとは彼だった。
彼は、もうこの世界のどこにもいない。
もとの世界に戻っても、彼はいない。
それでも私は、まだ彼の魂がこの世界に捕らわれているような気がするんだ。
死んだあとも、永遠にこの世界に。
私は、それが我慢ならない。
必ずこの世界を終わらせると、逝ってしまった彼に誓ったんだ。
皆と思いは同じと信じている。
このふざけた世界を終わらせる為に、力を貸してほしい」
一礼して下がるアヌビス。
知らず皆が、それに礼を返していた。
堂々とした、本当に文句の付けようもない、堂々とした挨拶だった。
「流石だな。感動したよ。次は俺が挨拶でいいかな。
はじめましての奴は、いないみたいだが。
こんにちわ。リリスだ。ソロで気侭にやっている」
すっと場の温度が下がった。
アヌビスが人を高揚させる声音を持つとしたら、リリスのそれは人の温度を下げる。
赤髪を肩口でばっさりと切った美少女が、にたりと人の悪い笑みを口元に浮かべた。
リリスは天女の様なアヌビスの衣装とは正反対の、漆黒のドレスを身に纏っていた。
胸元が大きく開き、豊満な胸の谷間を惜しげもなく晒すドレスには、いたるところに白いレースがふんだんに用いられている。
ほとんど下着が見えそうなほど短いスカートと、やけに装飾華美な編み上げブーツの間には、白い太ももが眩しく光る。
頭には白いカチューシャを着け、大きな瞳に良く似合う。
腰元には翼のようにも見える大きなリボンがついていて、知っているものはそのふざけた衣装が、レア度5を誇る「悪魔乙女」リングが実体化するツール、デイモン・メイデンだと知っている。
この無垢そうな少女こそ、ソルガル世界で最強の噂とそして何かと悪名高いソロプレイヤー、リリスなのだ。
リリスはやはり、その美少女の相貌を台無しにする、にたりとした笑みで皆に笑いかける。
「まぁ。
これまで色々あったけど、水に流していこう。
所詮この世界は強いものが正しい。
今残ってる奴が、つまり正しく強い奴らだということ。
俺が参加する以上、つまらない結果にだけはならないと保証する。
以上だ。
よろしく」
そう言って一歩下がったリリスが、目が合ったソフィにウィンクしてみせる。
アヌビスの演説でせっかく温まった場の空気を完膚なきまでに破壊するリリス。
味方も多いが、敵も多いプレイヤーだと聞かされてきた意味が、孝一にはうんざりするほどわかった。
「次はあたしかな?
フレイヤです。よろしくね」
そう言って笑顔でその場を和ませてくれたのは可憐と言う言葉が良く似合う花の様な少女だった。
ウェディングドレスのような白いレースの衣装を身に纏ったフレイヤは、腰まで伸びる豪奢な金髪を揺らしながらころころと笑う。
その鈴が転がるような音色が、プレイヤー達の心を和ませる。
だがこの少女が、槍を取らせれば右に出るものがいないスタープレイヤーであり、レア度5を誇る「魔神槍」リングの持ち主である事を忘れてはいけない。
「アリアだ。
出来ればこれを最後にしたいもんだ。
二年も女を待たせてるんでね」
そう言ったのは栗色の髪を結い上げた怜悧な美女である。
大きく張り出した二つの乳房をゆったりとした光輝くドレスに包んだ超然とした美女である。
一部では有名で「初夜のアリア」と呼ばれている。
メインプレイヤーは男だが、結婚初夜にソルガル世界に迷い込み、以来二年間ももとの世界に戻る術を探しているとか。
事に触れては残してきた女性のことをねちっこく話すので、「初夜のアリア」などというあだ名がついたのだという。
「ギルド『黄金ザクロ』のマスター、テオだ。
ギルドとともに、全力を尽くす」
金色の全身鎧に身を包むのは、今回集まった中ではアヌビス以外で唯一ギルマスを努める、テオだった。
レア度4の「金色鎧」リングを好んで纏うテオが、十代前半の年端もいかない少女の姿をしていることは周知の事実である。
そのあまりに威厳のない姿の為に、いつも全身鎧を身に着けていると言われている。
「黄金ザクロ」は百名ほどの団員を持つ「開放ギルド」に告ぐ有名ギルドであり、今回の「聖戦」は、この二つのギルドの協力なしでは現実にならなかっただろうと言われている。
そうこうするうちに、ソフィの番になる。
いずれ一線級のつわものぞろい。
孝一は場違いさを感じて、やや気後れしながら自己紹介をする。
「ソフィ、です。よろしくお願いします」
そういってぺこりと頭を下げてみる。
言葉少なであったが、皆の注目がソフィに集まって、孝一は思わず面食らった。
「君が、ねぇ」
隣に立っていた、最後の女性がつぶやく。
ネクタイをしたスーツ姿の女性で、おかっぱのような黒髪が印象的な美人だ。
ソフィが彼女を見返すと、女性はおっと言って一礼した。
「失礼失礼。噂の『二天一流』がどんなものかと思ってたけど、素直そうな少年で安心したよ。
あの、リリスの愛弟子というから、警戒してたけど大丈夫そうだ」
「連れないなぁ。どういう意味だよ、キース?」
「言葉どおりの意味だよ、リリス。
お前が今回の討伐に参加するなんて、僕はいまだに信じてないくらいだからね」
そう言って、リリスにきつい視線を向ける美女は、その名をキースと言う。
その目つきから並ならぬ感情を感じ取った孝一であったが、続くアヌビスの声にあわてて彼女の方を向きなおした。
「さて、今日集まってもらったのは、皆さんの意思の確認と、具体的な戦略の打ち合わせの為だ。
だがその前に。
ここに集まった以上、あなた方は心を同じくする同士だ。
それは忘れないでほしい」
そう言って静かにキースに視線を向けるアヌビス。
だがその視線はすぐに、面白そうに事態の推移を見守るリリスにも向けられる。
「皆、思うところはあるだろう。
だが、私は今回リリスを信用することに決めている。
彼がいなくても、討伐は成功するかもしれない。
だが彼がいることで、それはより容易になるだろう」
「頼むから後ろから切り付けないでくれよ、リリス」
「隙だらけじゃなかったらな」
面白そうにキースの挑発に答えるリリスにアヌビスはため息をつく。
「キース………」
「すまない。でもな、アニー。
こいつを混ぜてもろくなことに―――――」
キースの発言をさえぎり、穏やかな筈の草原に爆音が轟いた。
なんとこの会談のさなかに、巨大な火の玉が投げ込まれたのである。
「馬鹿なっ!」
アヌビスが瞬時にレーヴァンテインを実体化する。
皆も思い思いの武器を実体化し、ソフィもまたムラサメを実体化する。
「普通、襲ってくるか?
このお歴々をさ?」
「普通じゃないから、ピーターなんかになるんでしょ」
アリアの苦情に、フレイヤが冷たくこたえる。
「くるぞ!」
テオがギルドリーダーらしい口調で、しかし愛らしい少女の声で告げたとおり、草原の向こう反対側から、百人に迫ろうという人の群れが、彼らに向かって押し寄せようとしていた。
「なぁ、少年」
いつの間にかとなりにきていたキースがソフィに話しかける。
「極秘のはずの会談が、こうも簡単にばれちまうものかね?
どう思う?」
キースの発言が含む意味を悟り、ソフィは不平で口を尖らせながら言う。
「………何があったか知りませんが、彰さんは裏切るような人じゃありませんよ」
この世界で最初に孝一たちを助けてくれたのは彰だ。
恩人を悪し様に言うものを、好ましく思えるはずもない。
「おおっと。悪い悪い。でもどうにも昔からね。うさんくさくて。
ちょっと待て。おいおい。あれは、イオマンテか………?」
キースの視線の先、百の軍勢を率いて来たるは、黒い長髪を風に流れるに任せる、長身の美女の姿であった。