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孝一の母の帰宅は日によってまちまちだ。
病院で看護師を勤める母は、今日は三交代の夜勤である。
母が昼ごろ作ってくれたのだろう夜食を食べて風呂に入り、布団に入るまで、孝一は正直言って莉子と不思議なゲーム「ソルガル」のことなどすっかり忘れていた。
翌日の準備をして明かりを消して、さぁ寝ようというときに、そういえばそんなことがあったとやっと思い出したのだ。
(明日、手島にでも話してやろうか?)
そう考えたが、切羽詰った莉子の表情を思い出すとそれも気が引けた。
なんということはない、子どもの噂だろうし。
そう思って、孝一は目蓋を閉じた。
そして、それが始まりとなった。
白い空間だった。
壁も天井もない。あるいは境がないから分からない。
床だけは、こうして踏みしめているから分かるが。
夢か、と孝一は思った。
しかし夢にしてもこれは、今まで見たこともない類の夢だった。
孝一はその時初めて自分が何も着ていないことに気づく。
たくましい胸板も、局部までもが丸見えである。
「なんて夢だ」
孝一は呆れながらもすたすたと何かがないかと歩いてさがした。
「きゃあああああああああああっ!!」
「?」
叫び声が聞こえて孝一は振り返る。
そこには、今日会ったばかりの木下莉子が絶叫している姿があった。
ただし全裸で。
「木下………、お前やっぱりすごい体してるな」
夢という気楽さから、孝一の口からいつにない言葉が発される。
「馬鹿、すけべ、変態っ!!」
白い肌を懸命に隠してうずくまる莉子は、目をつぶって何も見まいとしている。
(これが夢だとしたら、俺は欲求不満なのか)
孝一は少しだけ自己嫌悪になった。
『ようこそ』
その時、莉子以外の声が響いた。
空間そのものを響かせているような不思議な声だった。
あわててそちらを振り向く孝一と莉子。
そこにはいつの間にか美しい少女がいて、未来的なデザインのぴったりした制服のようなものを着ている。
22世紀にもデパートガールがいたら、こんな格好をしているのかなと、孝一は埒もないことを考えた。
「ずいぶん、派手な夢だ。でもわけが分からない」
『夢ではありません。選ばれた人たちよ。あなたたちは、素養あるものと見込まれこうして選ばれたのです』
「選ばれた?何に?」
そこで、少女はにこりと笑った。
やわらかいのに、どこか機械的な笑みだった。
『もちろん、ソルガルに。
あなたたちはこれからソルガルの世界で、ゲームのクリアを目指すことになります。
長い苦難の旅の果てには、どんな願いでも一つだけ叶えることが出来るでしょう。
ゲームのクリアはまた、すべてのプレイヤーの開放をも意味します。
世界にとらわれるすべての人々の運命を背負うことを、その心に刻んでください』
おかしい。
孝一はそう考え始めた。
莉子を見ると彼女もまた、その豊かな肢体を隠すことも忘れて、愕然と表情を殺している。
『ソルガルは、多人数のプレイヤーが同時に参加する多人数参加型のロールプレイングゲームです。
ソルガルには「市街フィールド」と「戦闘フィールド」があり、「戦闘フィールド」では二人の肉体と魂が融合し命と感覚を共有する、「クレセントガール」と呼ばれる戦士となります。
お二人の場合、上条孝一様がメイン、木下莉子様がサブとして登録されていますので、身体の操作は上条様が、「リング」の有効化/無効化を木下様が担当されます。
「リング」には呪文を扱う「スペルリング」とツールを扱う「ツールリング」とがあります。
レア1~レア5までのリングが存在し、基本的にはモンスターを倒すことで確率的に入手できます。 またスタート時には、一つだけランダムでレア1の「リング」が至急されます。
ソルガルでは「レベル」や「経験値」という概念がありません。
強敵に勝つにはプレイヤーの皆さん自身の能力をあげるか、より強力な「リング」を手に入れる必要があります。
手に入れたアイテムやリングを確認したいときは「ポーチ」と唱えてください。
目の前にリストウィンドゥが表示されます。
ポーチとは仮想のプライベートスペースとお考えください。
どんなものでも、どんな大きさでも、所有するものなら収納することが出来ます。
その中から対象を選択し、有効化すれば対象を実体化できます。
ただし、アイテムには市街で実体化できるものと出来ないものがありますのでご注意ください。
また、モンスターを倒し、入手した素材などを売却すれば資金が手に入ります。
ただし、初期の資金は1,000vmが支給されています。Vmは通貨の単位です。
以上の説明は、ポーチ内の「取扱説明書」を有効化して詳細をご確認ください』
長い説明を、孝一はほとんど聞いてはいなかった。
衝撃と予感で、それどころではなかったのである。
人としての直感が教える。
これは断じて、夢ではない。
では、なんだ。
「ソルガル………?」
莉子が呟く。
その声音には、恐怖の響きが混じる。
にっこりと、再び女がほほえむ。
その目がちっとも笑ってなどいないのだということに、孝一はいまさらながらに気づいた。
「おい、よく分かんないけど、今すぐ俺達を帰せ」
孝一がやや声を荒げて詰め寄ると独特の迫力がある。
全裸でよくもまぁあそこまで強気に出られるものだと、莉子は場違いに感心した。
女はしかし顔色一つ変えはしない。
相変わらずの薄っぺら笑みを張り付かせているだけだ。
『辞退という選択肢はありません。あなたたちは選ばれたと同時に選んだのです。ソルガルを』
「だから、よくわかんないってっ」
孝一がついに女の胸倉をつかむ。
豊かなふくらみがぴったりとした服の中で弾む。
女はいよいよにんまりと笑った。
『ソルガルへようこそ』
そこで、光の奔流が突如孝一と莉子とを包む。
「なんだ!?」
「きゃあっ!?」
まるで濁流に流されるかのように、二人の体が光の中に飲み込まれていく。
「孝一くんっ!」
「木下っ!」
光の中に消え去った二人の後には、何も残ってはいなかった。
ただ空虚に笑みを貼り付けた、美しい少女の他には。
『あなた達の旅に、祝福と幸多からんことを』
「で、どう思う木下?」
「ごめん、上条くん。今話しかけないでくれる………」
気がつくと、二人は見知らぬ町の中にいた。
談笑して行き交う人々の中で、呆然と立ち尽くす二人。
幸い服は着ていた。
孝一はパンツ一枚。
莉子は異様に布地が小さいセパレイトの水着の様なものをきているだけだったが。
さきほどから莉子はじっとうずくまっている。
大きすぎる胸を布地がぜんぜん隠せていないため、はずかしくて仕方ないらしい。
「………裸を見られて、こんな格好で、もうお嫁にいけない………」
なにやらぶつぶつと唱えるように呟く莉子。
「それどこじゃ、ないと思うんだけどね」
孝一は短く嘆息した。
「とりあえず服屋を探すか」
「ごめんね、上条くん。貴重なお金かもしれないのに……」
「いいよ、別に」
あのままうずくまられているよりはずっといい、とは口には出さなかった。
とりあえず服装を整えた二人は、腹も減ってきたので街の中の食堂ではらごしらえをすることにした。
なんだか分からないもののシチューに見たこともない葉のサラダ。
原材料をたずねるのは恐ろしいが、とりあえず口にしてみれば美味かった。
莉子にはワンピースのチュニックを買ってやり、自分用にはシャツとたっぷりとした腰布を買った。
街を見ると、中世ヨーロッパのような建物で構成されていて、道行く人も街の概観にあった服装をしている。
ジーンズやジャケットといったものは期待出来そうにない。
「似合ってるし」
「あ、ありがと」
おだてておかないと話が進まない。
孝一はここまでのやり取りで、莉子の扱い方を大分心得るようになってきた。
「で、あらためて。どう思う?ここはどこだ?やはり………ゲームの中だと思うか?」
街を見て、人を見て、自分達の置かれた状況を見て、孝一はそう結論付けざるを得なかった。
莉子はじっと黙っていたが、おもむろに小さく呟いた。
「ポーチ」
空中に、透明なウィンドゥが開き、アイテムのリストが表示される。
そこには「取扱説明書」と「短刀リング」という二つの項目が表示されている。
「はは………。本当に出てくるしね」
それはすでに孝一が確認していたことだ。
資金はここから出したのだから。
「ねぇ、なにこれ。何なの………、こんなこと。こんなことが本当にあるなんて………」
ついに泣き出してしまった莉子はテーブルに突っ伏して嗚咽をあげる。
周囲のテーブルから集まる視線が痛い。
まったく、泣きたいのはこっちのほうだと孝一は心の中で呟いた。
「……帰りたい………」
(まったく、同感だ)
莉子が落ち着くまで、さらに一時間もの時間がかかった。
「この先のことを考えると、部屋を二つ借りる余裕はなかった。悪いけど、我慢しろよ」
「うん、大丈夫」
結局日が暮れてしまい、二人はあわてて宿を探すことになった。
中学生の孝一が、宿のフロントで物怖じすることなく対応しているのをみて、莉子は不思議に思った。
もっとも、誰も孝一が十四歳などと思ってはいないだろうが。
(まるで、ホテルでのフロントに慣れてるみたい………?)
頭に浮かんだその考えを莉子はすぐに打ち消した。
部屋は質素で少しかび臭かったが贅沢はいえない。
風呂もないのでお湯を貰ってきて体を拭くしかない。
「俺はちょっとふらふらしてくるから。その間に終わらせろよ」
そう言って部屋を出て行く孝一の気遣いが莉子には嬉しかった。
交代でその作業を終えて、孝一は部屋にあったソファにさっさと横になってしまった。
「色々あって頭の中ぐちゃぐちゃだと思うけど、とりあえずお金を稼げるようにならないと生活できそうにない。
ふざけたことにちゃんと腹が減るしな。
明日はモンスターだかと戦わなきゃいけなそうだから、まぁ早く寝ろよ」
「うん」
小さい声で返事をする莉子に孝一が苦笑する。
「あいつの話じゃ、戦うのは俺みたいだ。メインとサブだっけ?
俺をメインにしといてよかったな」
「ごめんねっ。上条くん。私が、あんなメール返信したばっかりに」
「そういう意味じゃない。俺が書けっていったんだしな。
だいたい、あんな自転車の運転してる奴に、キャラクターの操縦なんて任せられないって」
「ひどいっ」
そんなやりとりをして、二人は微笑んでから体を横たえた。
明かりを消すとそれは真の闇で、それは今までまったくなじみのない類の闇だということを思い知らされた。
(なんて強いひとだろう)
莉子は孝一の方をちらりと見て、そして緊張の為にすっかり疲労していた肉体が求めるままに眠った。
もっとも、孝一もそれほど余裕があったわけではない。
だが、誰か守るものがいるということは、人に活力と義務感を与えるものだ。
ゲームをクリアすれば開放される。
あの少女はそう言った。
今はそれを信じてやるしかない。
(それにしても)
孝一はベッドの上の莉子をちらりと見る。
ぐっすりと眠っているらしい。
呼吸で布団が上下に揺れているのがなんとなくわかる。
(反則だ)
自分も大概中学生と思われないことには慣れているが、あの莉子の身体は反則だ。
本当に純粋な日本人か。
その癖無防備で無邪気。
すぐ泣くくせにぱっと笑う。
お前は何か狙っているのかと問い詰めたい。
孝一も健全な男の子である。
ふっくらと抱き心地がよさそうな少女と二人きりの部屋で、思うところがないわけではない。
(まぁ、俺にはそんな資格ないけどな)
孝一は無理やり眠ることにして、きつく目蓋を閉じた。