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誰かにとっての誠意が、別の誰かにとって悲劇的であるということがありうるだろうか?
ある、と上条美穂は知っている。
美穂と孝一の母が、父親に組み敷かれる美穂を悲鳴を上げて抱き上げたとき、美穂にはその理由がよく飲み込めてはいなかった。
幼い美穂は心のそこから父親を愛していたから、父親が自分の裸の肌に触れることは、愛情の高ぶりがそうさせる当然の行為だと思っていた。
だがその日、美穂の幸福は突然に打ち切られた。
父は罪人となり美穂から引き離され、美穂は母親と二人で暮らすようになる。
医師は、美穂があまりのショックに何も覚えていないのだと診断したが、それは完全な誤診だった。
美穂は二人の秘密の触れ合いのことを、父親から誰にも言わないようにと言われていたから覚えていないと言ったのだ。
美穂はそれから一度も父親と会わないままに成長した。
美しく清楚な外見は多くの人間を惹きつけたが、美穂が異性に愛情を示すことはなかった。
新しい父親は唾棄すべき対象とすら思えた。
だが孝一が成長し、少年の表情の中に大人の翳りを見せるようになると、美穂は自分の中で疼く感情に気付くようになる。
成長しても美穂は父親との秘密の関係のことを明瞭に覚えていた。
そして、成長した今、あの時父親が自分に向けていた欲求が親子の縁を越えた男女の営みであることもよく理解していた。
だから。
美穂が愛しい弟に性的欲求を見出したのは、実は当然の帰結であると言える。
昼は、父親の言いつけどおり、秘密の関係のことを誰にも漏らさない美穂。
夜は、孝一に愛情を向ける美穂。
美穂は分裂症気味な傾向があったので、孝一は美穂の病的部分が、二重人格の症状を引き起こしていると信じた。
だがそれはまったくの間違いであり、昼と夜の分離、つまり秘密の隠匿は、彼女の人生のかなりの部分において、基本的な習性であったのだ。
しかし悲劇的であるということは悲劇とは違う。
悲劇は、その後に起こったのだ。
闘技場に、黒髪の美少女ソフィと、艶やかな赤い武者姿の美女イオマンテが対峙する。
イオマンテの顔には薄い笑みが張り付き、ソフィはそれを硬い表情で見る。
これは決戦だった。
千五百と言われる、ソルガル世界に閉じ込められたすべての人間の解放がなるかどうかの瀬戸際の決戦である。
どれほどの時間が、人生がソルガルに費やされたのだろうか。
ソフィがここでイオマンテを討てば、すべては開放される。
反対にソフィが破れ、イオマンテが「永遠に続くソルガル」を願った時、開放の望みは永遠に断たれるかもしれない。
だがそれだけではない。
これは、上条孝一が開放される為の決戦でもあった。
「リリスから、孝一って名前のビギナーがいるって聞いたとき、まさかと思った。
孝ちゃんゲームなんてしないじゃない?だから、そんなはずないって。
でも、キョウカとモリィの二人を撃破したって聞いて、そんなの孝ちゃん以外にいるはずないって思った。
リリスに写真を撮らせて見せてもらったとき、あたし、嬉しくて死にそうだった。
孝ちゃんが来てくれたって」
「姉ちゃん」
「報復に行くって聞かないモリィを半殺しにして、あたしはずっと待った。
草原であえた時もすごく嬉しかったね。
ねぇ、孝ちゃん」
イオマンテは薄い唇を開き孝一に話しかける。
「また一緒に居られるね」
それは己の発言を微塵も疑っていないものの言い方だった。
自分が勝利することが確定事項の様に考えている、そんな言い方だった。
「そうだね」
その言葉が孝一の魂を捉えようと触手を伸ばす。
心臓に、肺に、手足に、局部に、妖艶な姉の視線が絡みつく。
それでも孝一は、浅く呼吸を整えて、そしてはっきりとイオマンテに向き直って言う。
「ただし、現実世界で、姉弟としてだ」
苦い思いと共に吐き出した言葉は、イオマンテ、いや美穂の表情を歪ませた。
「戦闘を開始してください」
そしてイオマンテはその手に光の剣を現出させ、ソフィは二刀の刃を構えた。
その立ち姿を見て、思わずと言った風にイオマンテが目を細める。
「強くなった。本当に強くなったね、孝ちゃん」
イオマンテはそう言って笑って、そして剣を正眼に構えた。
孝一は右足を前に出し、左足を半歩後ろに引く。
左手に持った七星剣を突きつけ、竜尾刀を持った右手を腰高にそっと構える。
「莉子」
頭の中に孝一が話しかける。
『うん』
「負けないから」
『………うん』
その時、裂ぱくの気合と共に、イオマンテが一歩を踏み出した。
「はぁッ!」
恐ろしい速さで繰り出される一撃!
それはいかなる補正を持ってか、同レベルの防具をすらやすやすと切り裂く魔性の剣である。
莉子には、その攻撃が見えもしなかった。
いやより正確には、イオマンテの攻撃が莉子には一度も見えなかった。
ソフィの中で孝一の太刀筋を見て目がなれていたはずであるのに。
気合の声。
気がつけば、ソフィの剣にイオマンテの剣が合わせられている。
それは例えば、間のフィルムを紛失してしまった動画の様に、起点と結果しか存在しないかのようだった。
しかしそれでも、孝一はその猛攻を凌ぐ。
「うおッ」
剣戟の音が鳴り止まない。
二人の達人の殺陣。
その身のこなし。
判断力。
瞬発力。
そして剣速。
どれ一つ余人には認識することすら難しい。
イオマンテがソルガル世界最強を誇り、ソフィがルーキーでありながら解放軍の筆頭剣士となり得たのも、であれば当然であると言えた。
一体何合を打ち合っただろうか。
レア度5のクラウ・ソラスの攻撃に、ついに耐え切れなくなった竜尾刀が真っ二つに折れたのだ。
金属がはじける音が高く響く。
その剣から手ごたえが消え、一瞬バランスを崩すイオマンテ。
「巨門!」
七星剣の能力、不可視の壁がイオマンテの眼前に出現する。
「っく」
重心を崩され、地に片手をつくイオマンテ。
その瞬間を見逃す孝一ではない。
「はぁッ」
七星剣の一撃がクラウ・ソラスの半ばほどに叩きつけられる。
不敗の剣は折れ飛び、イオマンテは舌打ちをする。
孝一はすぐさま剣を刺突に構え、まっすぐにイオマンテの心臓を狙って急襲を掛けた。
それは必殺のタイミングで放たれた一撃であった。
イオマンテはしかし、それを見切ったようにソフィのサイドに身体を滑り込ませてその一撃を裂け、前転してその場を離れた。
「ふふ。危ない」
遊んでいるというわけではないだろう。
イオマンテの剣にそこまでの余裕は感じられない。
だが、楽しいのだろうとは思えた。
知らず、孝一の頬も笑みの形を作っている。
「昔はこうしてよく打ち合ったっけ」
「うん、道場で、日が暮れるまでね」
「ふふふ。孝ちゃんあたしに勝てないとむきになったから」
可笑しそうに笑う美穂。
それはかつてを懐かしむ笑みで、そして確認の笑みだった。
「孝ちゃん、一度もあたしに勝てなかったよね」
その右手に、新たな剣が握られる。
レア度5、天の群雲。
「今日が最初の勝ち星になるさ。そしてもう負けない」
孝一の手に、見知らぬ白い刃が握られた。
「はぁッ」
気合の声が重なり、二人の刃がぶつかり合う。
クラウ・ソラスを失ったイオマンテはスペルを防ぐ術を持たないはずだ。
それでも、莉子にはスペルの横槍を入れることが出来なかった。
殊勝にも勝負の決着を邪魔しなくないと言う思いがあったわけではない。
とてもではないが、莉子が手を出せるレベルの戦闘ではなかったのである。
「しッ」
「はッ」
孝一の二刀をただ一刀の剣でさばくイオマンテ。
ただ無骨なだけのその剣、天の群雲は強靭さこそがその真髄。
そして孝一が新たに構えた剣こそ、第一の門、そのフロアボスから入手したレア度5の剣、「吹雪刀」リング「細雪」。
一刀毎に、冷気が群雲に叩きつけられる。
それはやがてイオマンテが握る柄にまで届き、次第にその手を痺れさせる。
それは平常の戦いではあるいは問題にならないほどの痺れ。
だがこと、達人同士のぎりぎりの戦いではそうもいかない。
「ちっ」
イオマンテはそれを見るや群雲を右手一本に持ち替え、左手に新たな剣を生み出した。
「!?」
それを見てソフィが目を見開く。
イオマンテの一撃を、細雪がかろうじて受け止めた。
「レーヴァンテイン………」
アヌビスの剣だった。
前の戦いでドロップしていたのだろう。
これで細雪の冷気は無効だ。
そしてあの武器の攻撃力は侮れないものがある。
「これで、二刀対二刀ね」
「…………」
二人は思い思いに二刀を構える。
「はぁッ」
決着は近い。
さて、悲劇の顛末はこうだ。
孝一に拒絶された美穂は、新しい心の支えを求めた。
だが肉親以外に親愛を持てないと言う奇妙な精神疾患を抱える美穂にとって、そんな相手は一人も居なかった。
いや、一人しか居なかった。
だがその一人も消息は知れない。
憔悴する美穂の携帯に一通のメールが飛び込む。
それはソルガルの招待メールだった。
ネットゲームに興味などなかった美穂は、即座にそれを消去しようとしたが、パートナーと言う言葉を見て、その手を止めた。
「パートナーの名前を書き込み、送信ボタンを押してください」
それは何気ない行動だった。
そうなればいいな、という程度のゆるい願望。
美穂はその名を書き込み、そして送信した。
その夜、何もない白い部屋で、美穂は13年ぶりに実父と相対することになる。
美しい裸身を晒して、美穂は父親の前に立ち尽くした。
この現象と突如現れた裸の美少女に戸惑っていた父親は、その胸に泣きついてきた少女が自分の娘だとやがて気付く。
「美穂………?」
「うん………お父さん。会いたかった………」
美穂は涙を浮かべながらも満面の笑みを浮かべ、父親の胸板に恋人の口づけをする。
父親は、絶望の表情を浮かべていた。
白い空間からソルガル世界に飛ばされた雑踏の中に、二人は立ち尽くした。
機械的に服を求め、食事を摂って、宿に泊まった。
美穂は宿に入れば、父親が13年間の思いを込めて自分を求めてくるだろうと信じて疑っていなかった。
そして勿論、それを拒むつもりなど毛頭なかった。
だが、宿に入った父親がしたことは美穂の想像とはあまりにもかけ離れていた。
父親は、美穂に向かって土下座していたのである。
「許せなかった」
剣戟の合間に美穂は告白する。
孝一は剣に重みが増した様に感じた。
炎の剣をさばき、群雲を掻い潜って一方後ろに下がるソフィ。
そのソフィの目を通して、孝一の魂を射抜くように美穂がじっと見ている。
「私はっ………。ずっと父さんを愛していたのに………!
すまなかったって、そう言ったのよ?
何がすまないって言うの………。
何謝ってんのよッ!」
思いが力を得たように孝一を討つ。
それは身に覚えがある。
かつて孝一もその身に受けた、姉の烈情だった。
「私のこと、愛してないの?って聞いたら、あの男なんて言ったと思う?
娘として、愛してるって、そう言ったのよ?
散々あたしに性欲吐き出しといて、なによそれ。
なにそれッ!」
父親が、その後長いカウンセリングによって幼児嗜好を克服したことを美穂は少しも知らなかった。
その時には、かつて美穂にしたことをとても後悔していたことも。
父親が美穂に対して誠心誠意謝ったことは想像に難くない。
だが、誰かにとっての誠意が、別の誰かにとって悲劇的であるということはありうるのだ。
平身低頭の体で謝り続ける父親は気づかなかった。
美穂が、宿の室内に置かれた水が入った瓶を手に取り、思い切り振り上げたことを。
「ねぇさんが………殺したのって………」
『やつらはパートナーをぶっ殺してシングルになった奴らだ』
かつて彰が言った台詞が脳裏をよぎる。
そうだ。
イオマンテは…………。
「あたしは父さんを殺したのよ、孝ちゃん。
許してくれっていう父さんの頭に重たい瓶を何度も振り下ろして。
気がついたら父さんは動かなくなっていた。
許してくれとも言わなくなったわ」
呆然と自失するしかない孝一。
その視線はひどく虚ろだ。
「あたしはもう帰れない。
ずっとここにいるしかないの。
あたしを、父親殺しのあたしを現実世界に帰そうなんて、そんな残酷なこと孝ちゃんはしないよね?
孝ちゃんさえあたしを受け入れてくれたら、父さんを殺さずに済んだのに。
ねぇ。孝ちゃん。一緒にいてよ。ずっと、永遠に」
決して後悔しないと誓ったはずなのに、重たい後悔が孝一の心の底に澱のようにたまる。
あの夜。美穂を拒んだ夜。
他に言い様があったのではないかと、姉の失踪からどれだけ自問しただろうか。
それは今、当の本人から言葉の刃として送り返されている。
『孝一』
頭の中で莉子の声が静かに響いた。
『呑まれないで。見失わないで。孝一が本当にしたいことは何?
するべきことは何?
大丈夫。世界中のすべての人がもしも孝一を恨んでも、私は孝一のそばにいる』
「莉子………」
『剣を取って。前を見て。私を見て。
彼女を見ないで。そこには過去しかない。
私、彰さんが何故ピーターになったのかようやく分かった。
ピーターは過去なんだ。そこに未来がないんだよ。
彰さんはきっと未来を恐れたんだ』
「未来を………?」
『そう。ねぇ孝一。私、孝一と未来を生きたい。
買い物に行ったり、映画見たり、二人で静かに過ごしたりしたい。
孝一。
私と未来に行こう』
「未来に………」
『そう。つらいこと、あるかもしれない。
でもね。
ずっとここで、過去ばかり見てるよりはずっといいよ」
「俺でも、行けるかな」
そこで莉子が微笑んだのが孝一には分かった。
『私が、孝一と行きたいんだ』
今やソフィの目に迷いはなかった。
それはまっすぐに、射抜くようにイオマンテに向けられた。
美穂がひるむのが、孝一にも分かった。
「何でよっ。なんであんたまであたしを置いていくのよっ」
「そうじゃないよ、姉ちゃん。
姉ちゃんが、ちっとも先に進もうとしてないだけだ。
いいんだよ、姉ちゃん。
進んだっていいんだ」
「孝ちゃん」
「姉ちゃんも、未来に向かう時が来たんだ」
「やだ。嫌よ。あたしはずっとここにいるッ!」
イオマンテが二刀を振り回しながらソフィに迫る。
しかし初めて、その剣はわずかに精彩を欠いていた。
「うおおおおおおおおッ!」
炎の剣の一撃を吹雪の剣が受ける。
二つの剣は対消滅し、粉々に砕けた。
「あああああああああッ!」
美穂の放った群雲の一撃がソフィの鎧の肩口を捉える。
烈しい破砕音がして、下着のような鎧が砕け散った。
豊かな乳房がこぼれ出すのも構わずに、ソフィは七星剣の一撃を切り上げる。
赤い武者装束を下から縦に切り裂かれたイオマンテは、自身も白い肌を惜しげもなく露出しながら、手に持つただ一振りの剣に渾身の力を込める。
「うわぁぁぁあぁぁぁぁぁッ」
「おおおおおおおおおおおッ」
二つの剣が合わさり、そして砕けて散る。
裸身をさらし、丸腰になった二人の戦士。
ソフィの手元に紫の剣が、出現する。
それに対し、イオマンテの手元に白刃が出現するまで、コンマ数秒の遅れがあった。
『孝一ッ』
「うおおおッ」
刃を切り返し、突きつけるソフィ。
無防備なイオマンテの白い腹部に、刃が深々と突き立った。
「あ………あ、あぁ…………」
腹に生えた刃をうつろな視線で見るイオマンテ、いや美穂。
孝一が苦しそうな表情でそれを見る。
「終わって………しまうんだね……」
「違うよ、姉ちゃん。やっと始まるんだ」
悲しげな表情をしたまま、美穂は光の粒となって消えた。
『孝一………』
ソフィの目からあふれる涙は止まる気配を見せない。
「孝一」
気がつくと、何もない真っ白な空間で、莉子は裸の胸に孝一の頭を抱えていた。
「あ、あぁ。うあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁっぁぁあぁ」
「孝一、大丈夫。大丈夫だから」
莉子は静かに孝一を抱きしめ続けた。
「ゲームクリアおめでとうございます」
ややあって、空間そのものを響かせているような不思議な声がした。
ゆっくりとそちらを振り向く莉子。
少し遅れて顔を上げる孝一。
そこにはいつの間にか 美しい少女がいて、未来的なデザインのぴったりした制服のようなものを着ている。
戻ってきたのだ。
二人は最初の場所へ。
よく見ると、境界のない白い空間はだんだんと端から黄色い光の粒になって消え始めていた。
もうあとほんの少しの時間でそっくり消えてしまいそうだった。
「プレイヤー『ソフィ』の最終クエストクリアを確認しました。
すべてのプレイヤーはソルガル世界から解放され、ゲームは終了されます。
あなた方には、クリア特典としてなんでも一つだけ願いを叶えることが出来ます」
「ひとつ、聞いていい?」
「何か?」
莉子が色素のない女をまっすぐに見つめる。
「死んだ人はどうなるの?」
「質問の意味が分かりません」
「死んだ人は、その、もと世界には戻れるの?」
「ゲームクリア後開放されるのはすべてのプレイヤーです。
ただし、すでに死亡されている方はその限りではありません」
「そう」
「他にご質問はありますか?」
「ある」
孝一が立ち上がる。
その足取りはどこか危なげで、莉子は心配げにそれを見つめている。
「ソルガルとは、何だ?俺達を使ってお前達は何をしたかったんだ?」
孝一の言葉に、女は薄く微笑んだ。
「娯楽です」
「はぁ?」
「あなたがたが映画を見たり、漫画を読んだり、小説を読んだりするのと同じです。
あなたがたが苦しんだり、笑ったり、泣いたりするのを見て、楽しんでいるものがいる。
そういう風に認識してくださって結構です」
「それはどういう………!?」
「あながたより高次元の存在です。
あなたがたが自分達よりも低次元の二次元存在を娯楽として利用するように、三次元を娯楽として利用する存在があるのです」
「さっぱりだ」
孝一のあきれたような声に、女はまた薄く笑った。
「それで結構です。さぁ、願いを言ってください」
そこで孝一と莉子は一瞬だけ視線を交錯させた。
願いは、二人の心の中でとっくに決まっていた。
「死んだ人達を現実世界に帰してくれ」
女はほんのすこしだけ目を見開き、そしてすぐにあの貼り付けたような笑みを取り戻してから言った。
「それがあなたの願いですか?」
孝一と莉子は小さく頷いた。
いつの間にか光が二人の足元にまで迫り、世界が完全に消え去ろうとしていた。
「それではソルガルをお楽しみいただきまして有難うございました。
またのご利用をお待ちしております」
女の台詞に、莉子と孝一は顔を見合わせて、そして笑った。
「ごめんだよ」
そして光が二人を包み、長いゲームが終了した。
「孝一、起きてる?莉子ちゃん迎えに来てるわよ」
「起きてるよ、今降りる」
階段を下りながら孝一は不器用にネクタイを締める。
なんだって高校はブレザーなのだろうか。
首に紐を巻きつけるという行為に、孝一は未だになれる気配がなかった。
高校に進学してもう一月も経とうというのに。
「なんだ、お前。また莉子ちゃん待たせてるのか?」
リビングに向かう途中の洗面台で、ひげを剃る父親に呆れたように声を掛けられる。
「あいつが早いんだよ」
そう言って照れたように歩き出した息子を父親は笑顔で見送った。
「すみません。コーヒーご馳走になって」
「いいのよ、うちの子が遅いのが悪いんだから」
「はいはい」
孝一はそう言ってテーブルに着くと急いで朝食を口に収めてしまう。
一刻も早く家を出たいのだ。
莉子と二人でいるところを肉親ににやにや見られるのにこれ以上耐えられそうにない。
「行って来ます。莉子、いくぞ」
「あ、うん。おばさん、ご馳走様でした」
そそくさと玄関に向かう二人。
父親が声をかけてくるのに律儀に返事を返す莉子。
「あんたも変わったわよね。まさかあんたがつれてくる彼女を見れる日が来るなんて思わなかったわ」
「大きなお世話だよ」
さっさと靴を履いて、孝一は家を出た。
「莉子、早いって言ってるだろ?もうちょっとだけゆっくり来てくれよ」
「だって、早く孝一に会いたいから」
うぐ、と声を詰まらせる孝一。
頬を染めながらそう言われると、何も言えなくなってしまう。
二人が並んで登校していると、自転車通学の同級生が通り過ぎざまに声を掛けていく。
「朝からうらやましいな、孝一」
「うるさい」
「照れるな照れるな」
はぁとため息をつきながら、孝一は莉子が自分を見ているのに気づく。
「どうした?」
「なんでもないっ」
そう言って微笑む莉子を、孝一は不思議そうに見る。
「ああ、昨日姉ちゃんから電話あったよ」
「そう。元気そうだった?」
「うん。母さんが言ってた」
姉は一年の失踪から帰った後、両親の反対を押し切ってロンドンに留学した。
ちなみに姉がかえってくると、孝一の両親はすぐに元の鞘に戻り、ほどなく再婚した。
「現金なもんだよな」
そういった孝一の顔がそれでも嬉しそうだったのを莉子は思い出す。
姉は帰還してから一度も孝一と言葉を交わさなかった。
だがロンドンに発ったその日、一通の書置きが残されていた。
「ごめんね」
そう短く書いてあるだけだったが。
その後二人は同じ高校に進学し、莉子の通学路が孝一の家の前を通過することが発覚すると、毎朝孝一を迎えに来るようになってしまった。
それで冷やかされながら送り出される毎日が始まったのである。
「あ!そうだ。小百合さんが次の定例は新宿にしようって」
「どこでもいいけど、もう定例会議って言い方やめにしない?」
「じゃあ何?」
「飲み会だろ?ただの」
ソルガル帰還者は自然とネットで集まった。
孝一も莉子に誘われてしばしば顔を出す。
ピーターの面々に会うことはさすがにないが。
あれ以来、孝一は彰とも一度も会ってはいなかった。
「小百合さんは彼氏と来るって言うから、孝一も来てよ。
高山さんも来るって」
「あの人うるさいんだよな」
アヌビスこと小百合はソルガル内で死んだ恋人を取り戻すことが出来た。
美穂の父親も無事生還したらしい。
孝一は何かの話のついでに母親から聞いただけだが。
キースのメインプレイヤーだった高山という男はなんと医者だった。
それも義肢などを扱う形成外科医だ。
高山はなぜか熱心に定例に参加し、プレイヤー達の情報を集めている。
孝一は相変わらずどこか苦手としているようだ。
そんな話をしながら歩いていると、二人は踏み切りに差し掛かった。
運悪く遮断機が下りてきて、二人は足止めを食らう。
「あらら」
そう言って前をみた莉子が、それに最初に気づいた。
「孝一、あれって………」
「……………」
かんかんかんと鳴り響く踏切の音の中で、遮断機の向こう側からこちらを見ている車椅子の男がいた。
その背に寄り添い、車椅子を押している女性の姿も。
「彰さん……陽子さん………」
踏み切りの音がうるさすぎて聞こえなかったが、はにかんだ様に笑った後、その口が何がしかを囁いた。
ありがとう?あるいは、おめでとう?
電車が過ぎ去ったとき、二人の姿はもうなかった。
「孝一………」
遮断機が上がった後も孝一は呆然と立ち尽くしていた。
「莉子、彰さんが、また会おうって、そう言ってた」
「…………そっか」
莉子がそっと孝一の手を握る。
その手を孝一も握り返す。
晴れ渡る晴天の下、二人は未来へ歩き始めた。
ソルガル2.0
了




