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ぬくもりの中のまどろみほど、幸福で得がたいものはない。
莉子が目をこすりながら、小さな愛らしいあくびをすると、ごくごく近いところからよく知った声が掛けられた。
「あ、起きた?おはよ」
鼻と鼻が触れ合うほどの距離に孝一の顔があって、莉子は思わず真っ赤になってしまう。
「お、おはよ」
「よかった。なんだか昨日のことが夢みたいに思えて、じっと見てないと莉子が消えちゃいそうで怖かったんだ」
「う、うん」
誰、これ?というのが莉子の率直な思いだった。
あの厭世的でクールな孝一は、実は身内には恐ろしく甘い男であり、そこから来る極度の過保護体質であったのである。
「まだ痛い?大丈夫?朝飯俺作ったんだ。食べる?」
「だ、大丈夫………」
そういわれると昨夜のことを思い出して何も言えなくなってしまう。
それはとても幸福な夜だった。
いつだって莉子は、心のそこではそれを望んでいたのだから。
「ごめんね」
と孝一が言ったので莉子は不思議そうに小首を傾げてみせる。
その仕草を見て孝一は苦笑した。
「なんか、あれだよな。
俺の弱みに絆された莉子につけいったみたいでごめん。
元の世界に戻れたら絶対責任取るから。
親御さんにも挨拶にいく」
さすがにそれは早いんじゃないかという思いも莉子の胸中にあったが、莉子は孝一が大変な誤解をしていることに気づき、まずはそれを正すべきだと考えた。
「孝一くん、あのね」
「孝一って呼んで」
「えっ!?」
「お願い」
あの孝一が!
お願いと来たものだ。
その仕草があまりにも愛らしくて、莉子はしぶしぶ了承した。
孝一が期待に満ちた目で莉子を見ている。
「………孝一」
恥ずかしくて仕方がないが、莉子はやっとのことでそう呼んだ。
その時、孝一の顔がぱあっと明るくなる。
「うん、何?」
莉子は、その子犬のような態度に思わず苦笑してしまった。
「私、ずっと孝一く………孝一のことが好きだったんだよ?
だから謝らないで」
「でも、莉子。
吊橋効果って知ってる?
異常な状態に置かれた女性が、身近な頼りになる男に恋しちゃうっていう奴。
莉子は、それなんじゃないかって不安なんだ」
そう言って心底不安げに、上目遣いで莉子を見る孝一。
うん。本当にまったくこの可愛い生き物は一体何なんだろう、と莉子は思った。
「大丈夫。
私はそれじゃないよ、安心して」
「どうして?どうしてそう言い切れるの?」
そこで莉子は自身有り気に微笑んだ。
「だって、私小学校の頃から孝一が好きだったんだから」
それを聞いて、孝一は目を丸くしたのだった。
「孝一は覚えてるかな。
私たち同じ小学校だったけど、違うクラスだったから面識はないんだ。
あの頃ね。
通学路のある家から大きな犬が檻を破って出て行っちゃった事件があったの」
ぴくりと孝一が反応した。
莉子はそのまま続ける。
「その犬に運悪く追い回されたのが、私なんだ」
その犬はなんらかの病気を患っており、恐ろしく凶暴になっていた。
狼のように巨大な犬である。
仮に一噛みでもされれば、莉子の命はなかっただろう。
「私必死に逃げた。
でも小学4年生の必死のスピードなんて、犬にとってはなんてことないんだよね。
すぐに追いつかれそうになって、犬はまるで遊んでるみたいだった。
ついに塀のあるところに追い込まれて、どこにも行き場がなくなって、私もう死ぬんだと思ったんだ」
「莉子、それって」
「その時、頭の上からそっと手が差し伸べられたの」
それは莉子と同じ子供の手だった。
頼りなげで小さくて、でも手のひらにいっぱい豆を作っていたのが印象的で今でも思い出す。
「私夢中でその手を握った。そしたら塀の上にいた誰かが、同じくらいの年なのにね、一生懸命に私を引き上げてくれたの」
当時の孝一は、いまだ剣道の才覚をあらわしてはいなかったが、幸い厳しい祖父にしつけられて同年代の子供たちよりは筋力が出来ていた。
塀の上に引き上げられた莉子は息も絶え絶えで、ようやく息が整ってから自分を助けてくれた少年の顔を見たのである。
それは本当にまだ幼い、自分と同じ小学生だった。
「孝一だったんだ、それが」
「うん、さすがに覚えてる。でもあれ、莉子だったのか?」
「ふふ、ひどい。
そうだ、あの後お礼言おうと思ったのに、私を塀の反対側に降ろしたらさっさとどっか行っちゃったよね?」
「照れ臭かったんだよ。小学生ってそんなもんだろ?
でも、そっか。あれが莉子だったんだ」
「どうしたの?」
「………俺な。あのくらいの頃までいじめられっ子だったんだ」
「ええっ!いじめっ子の間違いじゃなくて」
「ひどいな。違うよ。
何か内気でさ。
剣道ばっかやってたから話も合わなくて、でその剣道も上手く行ってなかったからそれが態度に出るんだろうな。
いじめっていうほど、ひどいもんじゃなかったけど、友達はいなくて、なんとなくはぶられてた」
「知らなかった………」
「忘れろよ。
その頃、たまたま塀の上を歩いてたら………」
「たまたま………?」
「バランス感覚の訓練だって、じいちゃんにやらされてたんだよ、いいだろ?
歩いてたら、女の子が犬に追い回されてるのに出くわしたんだ。
犬はすごくでかくてさ。
怖かった。
怖いから、思わず反対のほうに飛び降りちゃおうかって思ったくらい怖かった。
でも、女の子が必死に走ってるの見てさ。
助けなきゃって、そう思った。
あとは、まぁ莉子も知っての通りだけど」
「そう、だったんだ。
確かになんで塀の上にいたんだろうって、ずっと疑問だったんだ。
てっきり私を助けるために塀に登ったんだとばっかり。
なんか、ロマンチックじゃないね」
「悪かったよ」
「ううん、いいの。その方がなんだか孝一らしい」
そう言って微笑んだ莉子に、孝一は真っ赤になりながらそれでも言葉を続けた。
「その時さ。
女の子が言ってくれたんだ。
『強いんだね』って。
俺はぜんぜん強くなんかなかったから、違うって言いたかった。
でも、女の子が泣きながらそう言うもんだから、うん、て言うしかなかった。
それで、これは大変だって思ったんだ」
「大変?」
「だって、強くならなくちゃいけないだろ?
じゃないと、いつかその女の子に会った時幻滅されちゃうだろ?」
「ええ~、変なの」
「そう思ったんだよ、仕方ないだろ?
そう思うとなんだか練習にも熱が入ってさ。
気がついたら地区大会で優勝できるくらいになって、そしたら学校でも表彰されるだろ?
自然といじめみたいのはなくなった。
あとから、あのときの女の子のことを探そうとしたけど、うちの小学校大きかっただろ?
結局見つからなかった」
「私はね。それからもずっと孝一のことが好きで、憧れてて、中学に入って初めて同じクラスになったとき、あ、この人だ!って思った。
何だかすごくクールになってて、近寄りがたくて、あの時はありがとうなんていい出せない感じだったけど、この人に間違いないって思った」
「悪かったよ」
「だからね。ほら、孝一は謝らなくていいの。
あの日から、ずっと私の王子様だったんだから」
それを聞いた孝一は、がばっと莉子を抱きしめる。
孝一のたくましい胸板が莉子の豊かな胸を押し潰す。
突然のことに真っ赤になりながら、莉子はどうしたの?と問うた。
「俺を好きでいてくれてありがとう。
あの時、俺に助けられてくれてありがとう。
あのことがあったから俺は強くなれて、こうして莉子の為に戦うことが出来る。
ソルガルに来たのが莉子と一緒でよかった。
絶対に二人で帰ろう」
「うん、二人で帰ろうね」
「だから、俺は戦うよ。姉ちゃんとも、彰さんとも」
「彰さんは、どうして………」
「どんな理由があっても、俺はあの人を倒す。
文句は向こうの世界で聞こう」
「うん」
孝一には今までにない力強さがあった。
これまでの強さが張子の虎であったとしたら、それは守る者を得た狼の強さだった。
「俺は莉子と生きたい。
二人でいろんなものを見たい」
「私も、孝一と同じものをみたいな」
莉子はそっと孝一を抱き返す。
孝一はそれ以上の力で莉子を抱きしめる。
そしてごく自然な成り行きとして、二人の唇が重ね合わせられた。
「遅い」
昨夜あまりの吹雪に合流を断念したアヌビスは、とにかく現状の位置を示そうと、レア度5「火焔明王」リングのスペル「倶利伽羅剣」を用いて、空に向けて合図を打ち上げた。
あの炎であればどんな吹雪の中でも見えたはずである。
翌日、吹雪が晴れたことを確認すると、アヌビスはコテージを出た。
その時、すでにコテージの出口ににいたのはキースであった。
「女性は朝の支度に時間がかかるよな?」
そう言って軽口を叩いたのである。
それから程なくして元の黄金鎧を身に着けたテオが現れ二時間ほど経つが、ソフィが現れる気配がない。
「何があったのか知らないが、あれは相当参っていたからな」
「まさか、やられるってことはないだろうが」
「兎に角、時間は惜しい。あと一時間待って来なかったら、かわいそうだが先に行こう。
われわれがゲームをクリアすれば、他のすべてのプレイヤーの開放につながるのだからな」
黄金鎧のテオがそう言ったのと、雪原の丘に影が見えたのは同時だった。
「!?ソフィかっ!」
「違うんじゃね?」
突如上げられる彷徨。
それはたくましい体躯を誇る、二本の角を持った北極熊のようなモンスターの群れだった。
「アナライス」
すぐさま、アヌビスがスペルを発動させる。
「これより、敵モンスターをクロマシと呼称する。
弱点は火。特徴は俊敏な動きと攻撃力だ。
油断するなよっ!」
「オーケー」
「まかせろっ」
アヌビス、キース、テオが疾駆する。
クロマシは情報どおりの、そして見かけに似合わぬ俊敏な動きで三人を翻弄する。
その一撃があえて攻撃を受けて見せたテオの鎧の右肩部分を一撃で破壊したのを見て、ぞっとした思いが広がる。
「さすがに、手強いな」
「まったく!こういう時の為の少年でしょうが。
何やってるんだ、あいつは」
「悪かったですよ!」
「なに!?」
「遅ぇよっ!」
キースの声には心なしか喜びの色が混じる。
太陽を背にしてこちらに駆けてくる黒髪の少女に、アヌビスも知らず笑みが漏れる。
「俺が前衛に入ります。アヌビスはスペルをっ」
「分かった」
そう言うが早いか、ソフィは二本の剣をもって滑り込むようにアヌビスの前に入る。
集団の敵には本来スペルの方が有効だ。
だが、敵に翻弄されるばかりのアヌビスにはこれまでその集中の隙がなかったのである。
シングルプレイヤーであるアヌビスは身体の操作とスペルの発動をすべて自分で行わなくてはならない。
それがシングルの強みでもあり、そして弱みであるのだ。
あれほど手の出しようがなかったクロマシの攻撃を、ソフィは初見で見事に捌いて行く。
「さっき、誰か置いていくって言ってた?」
「それもやむを得ないという話だ」
「馬鹿言え」
そこでキースは苦笑した。
「あいつの抜きでどうやってクリアできるって言うんだよ?」
「倶利伽羅剣っ!」
アヌビスが熱線を放射する。
ある者はその炎の固まりに焼き尽くされ、あるのものはそれを寸でのところでかわすが、しかし。
「そこっ!」
かわしたところをソフィの二刀に狙われる。
だがその背後から、もう一頭のクロマシがソフィの頭を狙う。
『「劫火」リングバリッド!スペル「デストロイ」!』
その背から炎の翼の様な火炎が噴出し、クロマシを焼き尽くしてしまった。
「サンキュ、莉子」
『孝一、前!」
「任せとけよ」
その連携はこれまでにないものだった。
二人の呼吸がぴったりひとつになった様な無駄のない連携だった。
それを、アヌビスはどこかまぶしいものを見るように見ていた。
まさに瞬く間に。
形勢は逆転し、十数体のクロマシの群れは相当された。
習慣からドロップしたリングを回収する。
「吹っ切れたみたいじゃないか」
キースがソフィの肩に軽くこぶしをぶつけながら言った。
「おかげ様です」
そう言ってソフィが笑う。
へぇ、とキースが言った。
「そんな顔で笑えるんだな、少年」
「え?」
その時、システムウィンドゥが開いて何事かを告げる。
「第一の門 終了しました。速やかに第二の門に挑んでください」
「え?もう終わり?」
キースが不審げにつぶやくと、そう言えばとソフィが切り出した。
「ここに来る前に、やたらと強いさっきの熊の親玉みたいなでかい奴に出くわしたけど………」
「倒したのかっ?」
「一人で?」
「え、まぁ」
「どんだけだよ、お前」
まぁ頼もしいけどな、と言ってからキースは第二の門の、その扉に手を掛けた。