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5 いろんなものは突然に

 人間というのは不思議なもので、毎日起きていたことがぱったり起きなくなると、最初はどうとも思わないくせに、日を追うごとに気になりだすから不思議だ。

 ヒューバートさんの訪問は、まさにこの典型例だったらしい。


 常連さんたちも帰途につき、店内が静かになる平日の8時。

 いつもなら持ち歩かない携帯をエプロンのポケットから引っ張り出したわたしは、彼からの音信が5日も途絶えていることが、気になっているんだと認めた。

 店にも来ない、電話もない、もちろんメールも。

 鬱陶しいと思っていたくせにいざ望んだ状況になった途端これだ。しかも自分からメールしたり電話したりするのはプライドが邪魔してできないっていうんだから、子供っぽいことこの上ない。


「バカらしい…本当に、バカみたい」


 現代社会ではもはや欠かせないコミュニケーションツールとなったそれを、無造作にカウンターに放り出して、わたしは店内の清掃にかかった。

 ここのところの不景気で、1度客足が途切れると閉店まで戻ることはない。それならいつもより早めに店じまいしたところで、大した損害にはならないと判断してモップを手に磨きこまれた木の床を、端から丁寧に拭き始める。


 人のこと、引っ掻き回すだけ引っ掻き回して。お祖母ちゃんの過去まで聞き出して、それでも諦めないとかいい加減なことばっかり。

 ちょっと譲歩したら、顔も見せないじゃない。あんなに教えろと騒いでいたくせに、メールも電話もないとか、おかしいでしょ?!


 掃除はいつの間にか不満のはけ口になり、考えまいとするのに脳を侵食するヒューバートさんのせいで、モップにかかる力はいつもの倍以上だ。

 床に穴が開いたら、どうしてくれるのよ。全く、いい加減な男!

 その時、背後で入り口のドアがきしむ音がした。馴染んだそれは、お客さんが入ってきた証拠だ。途絶えたはずの客足が戻らない平日の、閉店まで1時間を切った今、現れる人物なんて決まっている。


「いらっしゃいませ~」


 何でもない風を装うと、決めていた。この5日間ずっと、もしヒューバートさんが来たのなら、来なかったことにさえ気付かなかったわって顔をして、にこやかに迎えてやるんだと。


「あの…まだいいですか?」


 けれど、入り口にひっそり立っていたのは大柄な外国人ではなく、月に2、3回寄って下さる30前後のOLさんで。


「もちろんです。珍しいですね、週末じゃないのに」


 ヒューバートさん用に作った取り澄ました笑顔ではなく、本物の笑顔で彼女をカウンターに招いたわたしは、それから閉店までの時間を彼女の愚痴に付き合って終えたのであった。

 痛む心を癒やすために訪れて下さるお客さんは大歓迎だ。もとよりここは、お祖母ちゃんがその為に開いた店なのだし、わたしも同じ志を抱いてここに立っているのだから。


 でも、わたしの愚痴は誰が聴いてくれるの?不満のはげ口になってくれるのは?


 そんな夜を過ごしてから2日。巡ってきた定休日の夜に、彼のことを考えることをやめた。

 どんな理由があるのかは知らないが、動向のわからない相手を思って日々をイライラ過ごすことほど不毛なことはないと気付いたのだ。

 もとより受け身で始めたこの関係。わざわざ苦手な相手と恋することはない。連絡がないのなら、なかったことと忘れてしまえばいい。


 録りためていたドラマをぼんやり見ながら、わたしは徐々に徐々に、自分の中からヒューバートさんの痕跡を消していく。

 紅茶の淹れ方を褒めていた姿、無駄に振りまかれていた笑顔、巧すぎる日本語、大きな体、日本人とは色素が違う髪と瞳。

 どれも浅い記憶だ。あっけないほど簡単に消えて…いかないのよ。腹が立つことに。


「消化不良だわ」


 知らぬ間に次週の予告へと変わっていた画面を睨みつけながら、クッションを殴りつけて、無責任な外国人に悪態をついた、そのタイミングで沈黙していた携帯が鳴るんだから、思わず肩が跳ね上がる。

 それでも期待はすまいと、友人の誰かからの着信だろうと覗いたディスプレイには、今更アルファベット表記の名前が浮かんでいた。


「………はい」

『お久しぶりです、都さん』


 低く沈んだ私の声と、高く弾んだ彼の声。

 なんて対照的なんだと自嘲する間もなく、堪能な日本語でヒューバートさんは捲し立て始める。


『すみません、急に母国に戻らなければならなくなってしまって、お店に行けなかったんです。お土産を渡しにこれから行ってもいいですか?』


 真実なんて、こんなもんだ。

 やきもきするのは情報が不足しているからで、蓋を開けてみれば単純極まりない理由だったりする。今回はその典型例だっていうのに。


「だめ」


 気づけば、そっけなく拒否していた。

 本当は会いたいと、顔を見たいと思っているくせに、変なプライドが邪魔して素直になれない。何より彼の中でわたしはまだ、彼を好きではないはずなのだ。

 何しろ本人だって、数日前まではヒューバートさんはお友達と知り合いの中間だと、断言できる程度の気持ちしか抱いていなかったはずなんだから。


 あれ?それじゃあ今は?今は、彼が、好き?!


『でも、今、お店の外に入るんです。行きますね』

「えっ?え!だっ…!」


 ぐるぐる堂々巡りする思考に沈んでいる間も電話は繋がっていて、ぼんやりしていたせいで強く否定もできず、気付いたら途切れた通話と、鳴り響く呼び鈴が同時という、如何ともしがたい事態に陥ったわけで。


「え、ええ?!どうする、どうするの?!」


 ソファーの下に隠れる?それともテーブル?違うでしょう、避難訓練じゃないんだから。そうだ、居留守使う!出なきゃいいのよ、出て行かなかったら諦めて帰るしかないでしょ。そう、それがいい!

 と、部屋をうろつきながら手を打って、はたと気付いた。

 どうして、逃げなきゃいけないのよ。


「好きかも?ってだけで、好きって決まったわけじゃないでしょ。なにより相手はこっちの気持ちなんて知らないわけだから、普通にすればいいのよ。普通にすれば!」


 握り拳を固める後ろで鳴り続ける呼び鈴に、覚悟を決めて姿見で身なりを確認する。

 今日は、楽ちんな紺のスウェットの上下。ざっくり編みの白いロングカーディガンを合わせてあるから、一応部屋着にもパジャマにも見える微妙なラインで、あえて人に会う格好とは言い難いけれど気合いを入れすぎているようにも見えない、休日の夜としてはしっくりくる服装だ。

 アポなしで突撃してきたお客の相手を、玄関先でするのに支障はない、よね?

 大丈夫な事を言い聞かせて、年代物の扉の前で深呼吸したわたしは、少しだけ不機嫌を装った表情でドアを開けた。


「なっ…バラ?!」

「はい。会えない間、私が都さんをずっと思っていた気持ちを込めた、赤いバラです」


 ざっと見ただけでも30本はありそうなそれの横からひょいっと顔を覗かせたヒューバートさんが、極上の笑顔でそんなことを言うものだから、取り繕った表情は一気に驚きに塗りつぶされてしまう。

 異性から花束を、しかも赤いバラの花束を貰った事なんて、当然無い。

 ないからこそ芝居がかったこの演出に、鼻白んでいる自分と感動している自分がいて、正直どっちの顔で彼に応えるのか、すごくすごーく迷うのだ。


 まだ自覚したばかりの気持ちに戸惑うなら、無表情で。

 勢いに任せて流されるなら、喜色満面で。

 どっち?どっちにする?


「あの、好きではなかったですか?バラは、嫌いでした?」


 結局、戸惑いの表情でいたのだとわかったのは、ヒューバートさんの不安げな問いかけで、だ。

 大きな体で、結構強引だったりもするくせに、どうしてこんな時だけああいう顔、するんだろう。まるで子供が親の顔色窺うみたいな、不安そうな顔。

 年にも外見にも不釣り合いなそれに負けて、わたしは微苦笑を浮かべて花束を受け取った。


「ありがとうございます。バラは…というか、お花は好きです。でも、前も言いましたよね?急に来るなって」


 好きかも知れない。それは否定しない。

 なにしろ恋という不可解な現象は、突然現れて人を混乱させるものだと、学生時代に友人が哲学者みたいに語っていたことを思い出したから。

 でも、いけないことはいけないと教えなくてはいけないと、近所のおじさんが犬の躾について語っていたことも同時に思い出したのは幸いだ。


「電話はしました」


 言い訳なんて潔くない真似をしたヒューバートさんには、おじさんの指導方法がばっちり嵌まるはずだと確信したわたしは、こちらの出方を窺う彼に首を振ってだめ出しをしてあげた。


「電話をしてから相手に準備する時間を与えるのは、常識です。最低5分は大人しく待っていなくちゃいけません」

「でも、そうしたら都さんは逃げたかも知れないでしょう」

「正論ですが、的外れです。今、何時です?」


 必死に食い下がっていた彼は、自分の腕時計で現在時刻を確認すると、非常に小さな声で9時20分ですと告げる。決まり悪そうな表情をしているって事は、きっと自分の行動のまずさにも気付いているって事。

 明らかな作り笑いでヒューバートさんを見つめると、珍しらしく視線を外したのがいい証拠だ。


「こんな時間から逃げる先なんて、普通の若い女性にはそうそうありません。何より、日本の一般的常識では、余程親しい間柄か、火急の用件でない以上、9時過ぎに人の家を訪問するのはマナー違反だとされているんですよ。覚えておいて下さい」

「あの、火急、とはどういった意味で…」

「次に会う時までの宿題です。では、おやすみなさい。バラ、ありがとうございました」


 相手の混乱に乗じてドアを閉めたわたしは、鍵を閉めると同時にそっと溜息をつくと、暴れっぱなしだった心臓付近の布地をぎゅっと握りしめた。

 今晩は、何とか乗り切った。ヒューバートさんと顔を合わせるのがいつになるのかはわからないけれど、次回までには急転したこの感情をしっかり見極めて、自分のことを自分でわかるようにしなくっちゃ。


 なんて厄介な状況になったんだろう。

 ローズティーを飲みながらベッドに入ったわたしは、10時に着信したメールを眺めながら、長い長い吐息をついた。


『おみやげを わたすのをわすれました あすのよる いきます』


 うん、来なくていいです…。


 

多分、後1話です。

お付き合いいただければ、うれしいです。

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