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氷海神殿の《供物聖女》を追放した国へ、三十七年分の「凍結維持費」を請求いたしますね――前世は経理課の派遣社員でした

作者: uta
掲載日:2026/10/09

『聖務日誌 第三十四冊 第二百十一日目 氷厚四尺二寸。風北北西。魔力残量一割七分。異常なし。手の感覚なし』


──────────


「リースリット・ヴェルン。貴様との婚約を破棄する。聖女の座も剥奪だ」


王城の大広間に、王太子エイベルさまの声が高らかに響きました。


「――氷の上で突っ立ってるだけの女に、国庫を食わせる余裕はない」


笑い声が、さざ波のように広がります。


彼の隣には、亜麻色の巻き毛の少女。新しい『真の聖女』エルマさま、十六歳。祈り一回で封印を三日保たせたという、たいそうな触れ込みの方。


父であるヴェルン公爵は、わたくしから目を逸らしました。


わたくしは深く礼をして、たった一言。


「かしこまりました。では、引き継ぎ書類をご用意いたします」


(出ました。無能上司の『お前の仕事、簡単だろ』。前世で二十回は聞いた台詞ですね)


わたくしの中身は、前世・日本の中小企業で十二年勤めた経理課の派遣社員、篠宮梓。三十四歳。決算期の深夜残業の帰り道、雪の夜に倒れてそのまま死にました。


チート魔法はございません。


持ち越したのは三つの癖だけ。


帳簿をつける癖。

契約書を最後まで読む癖。

証憑を七年保管する癖。


「引き継ぎ書類だと?」


エイベルさまが鼻で笑いました。


「必要ない。祈るだけの仕事に書類などあるか」


(ありますよ。むしろ、それしかありません)


「リースリットさまって」


エルマさまが、小鳥のように首を傾げました。頬のそばかすが愛らしい。


「本当に毎朝、お立ちになるだけだったんですね」


大広間が、どっと沸きました。


わたくしは、顔を上げませんでした。


十七年。


朝四時起床。氷海まで徒歩四十分。氷上で封印維持に二時間十分。戻って記録。


それを、六千二百五回。


一日も、休んでおりません。


それを、


『お立ちになるだけ』。


(なるほど。こちらの職務内容は、まったく認識されていないわけですね)


わたくしは静かに姿勢を戻しました。


「承知いたしました。本日付で、わたくしの聖務はすべて終了ということでよろしいでしょうか」


「ああ、さっさと出ていけ」


「書面でいただけますか」


「――は?」


「王命による聖女解任、および婚約破棄の通知を、書面で。日付と署名入りで」


大広間が、少し静かになりました。


「そんなもの、口で言えば十分だろう」


(口約束は証拠になりませんよ。何度言わせるんですか)


「恐れ入りますが」


わたくしは、睫毛に残った今朝の霜を感じながら、ゆっくりと申し上げました。


「公文書がございませんと、こちらの処理が進みませんので」


「ちっ……おい、文官。書け。署名してやる。――ほら、くれてやる」


床に落ちた一枚を、わたくしは拾い、折り目をつけずに丁寧に封筒へ納めます。


(ありがとうございます。これが、一枚目の証憑です)


退出する際、誰も見送りはしませんでした。


ただ、厨房の脇の柱の陰から、栗色の髪を端切れで縛った小さな影が、こちらをじっと見ていたのを覚えております。


外は吹雪。


(さて。三十四冊、運び出さなければなりませんね)


わたくしの、十七年分の帳簿を。


──────────


『第三十四冊 第二百十二日目 氷上へ行かず。氷厚不明。備考――退去』


──────────


氷海の小屋は、海鳴りがよく聞こえます。


壁は板一枚。床は踏むと鳴る。暖炉には、なぜか薪が積んでありました。


「……また、ございますね」


干し果実の袋と、厚い毛布が二枚。


三年前からです。誰のものとも知れぬ贈り物が、月に二度ほど、小屋の軒下に置かれているようになったのは。


差出人の名はございません。


(いつか帳簿に『受贈品・出所不明』としか書けないのが、少々気持ち悪いのですよね)


「お嬢さま。本はこれで全部だ」


神殿番のグレン爺が、杖をつきながら言いました。七十一歳。三代の聖女に仕えた男。白く濁った片目で、三十四冊の日誌を見ています。


「重うございましたでしょう」


「紙だ。紙は重い。中身がある紙は、特にな」


そのとき、戸が叩かれました。


「聖女さまっ」


息を切らせて入ってきたのは、ミナ。十歳。神殿厨房の下働き。


両腕に、硬いパンの塊と、湯気の立つ鍋を抱えています。塩漬けの魚のスープ。


「こっそり取っておいたの。怒られるかもだけど」


「……ミナ。厨房の品は、持ち出せば窃盗になりますよ」


「じゃあ、わたしの分です。わたしの分なら、あげてもいいでしょ」


(なるほど。所有権の帰属を主張してきましたね。十歳にして)


わたくしは椀を受け取りました。


指が、うまく曲がりませんでした。


「聖女さま」


ミナが、わたくしの手をじっと見ています。


「わたし、ずっと数えてたんです。聖女さまが氷から戻ってくる時刻」


「……時刻を?」


「厨房の壁に、炭で線を引いてました。遅いとスープが冷めるから。だから、何時に戻るか知りたくて」


小さな手が、わたくしの指を包みました。


熱い、と感じました。


「六千二百回くらい、線を引きました。たぶん」


(勤怠記録です。この子、たった一人で、わたくしの勤怠記録をつけていたのです)


「聖女さま、わたし、聖女さまが毎朝お戻りになるとき」


ミナは、泣いてはいませんでした。ただ、怒っているような顔をしていました。


「――いつも唇が紫でした」


ぱきん、と。


何かが、折れるのではなく、切れる音がしました。


十七年。


罵倒されても、婚約を破棄されても、笑われても、一度も動かなかったものが。


十歳の子どもの、たった一行の『備考欄』で。


わたくしは、椀を置きました。


「ミナ」


「はい」


「わたくし、決めました」


背筋を伸ばします。定規で引いたように。


「――もう、我慢しません。わたくし、明日から封印に行きません」


グレン爺の杖が、こつん、と床を打ちました。


「行かねば、氷が割れるぞ」


「割れます。七日ほどで溢れ魔素が噴き出し、十日で王都の冷気供給が止まるでしょう。穀物庫が全滅します」


「……ずいぶん正確だな」


「十七年、毎日記録しておりましたので」


わたくしは三十四冊の一番上を、そっと撫でました。


「それから、もうひとつ」


「なんだ」


「わたくし、八歳のとき、神殿の壁の古代文字を退屈しのぎに読んだのです。グレンさま、覚えておいでですか」


「読みたければ読めばいい、と言った。わしは字が読めん」


「あのとき、燭台を置いていってくださいましたね」


わたくしは、懐から薄い写しを取り出しました。


『古誓約書』第四条。


――王家は聖女に対し、封印一日につき白金貨一枚を支払うものとする。


「建国以来、一度も支払われておりません」


小屋の中が、しん、としました。


「グレンさま。これは献身ではございません。有償契約です」


(つまり、未払いです。十七年分の未払いです。――いいえ)


「……お嬢さま。そこを、どいてくれ。床板を剥がす」


「おじいちゃん、膝が!」


「構わん」


グレン爺が、ゆっくりと膝をつきました。悪い膝で。


床板に手をかけ、軋む音とともに、一枚を剥がします。


中から出てきたのは、黄ばんだ一枚の紙でした。


「先代さまの、覚書だ。請求しようとして、できずに死んだ。凍死に近かった」


「……五十年、お持ちだったのですか」


「渡す相手が、おらんかったからだ」


彼は、それをわたくしの手に乗せました。


「これで、二人分だ」


わたくしは、黄ばんだ紙に記された日数を読みました。


加算します。


六千二百五日。


プラス、七千三百五十日。


「――一万三千五百五十五日」


声が、自分でも驚くほど静かに出ました。


「三十七年分です」


ミナが、目を丸くして訊きました。


「聖女さま、それ、おかねにするといくらですか」


「白金貨一万三千五百五十五枚です」


「……ええと、それは、どれくらい?」


わたくしは、椀のスープを一口いただきました。


塩辛くて、あたたかくて、少し泣きそうになりました。


「この国の、年間歳入の、およそ二倍ですね」


(さあ、請求業務を開始いたしましょう。わたくし、これが本業でしたので)


──────────


『第三十四冊 第二百十五日目 氷上へ行かず。備考――商業ギルド北方支部へ』


──────────


「書面でご提出ください」


開口一番、その方はそう仰いました。


商業ギルド北方支部の公証人、セヴェリーヌ・カルタさま。四十二歳。黒髪をきつく結い上げ、銀縁の片眼鏡。渾名は『紙の処刑人』。


「提出いたしました」


わたくしは、机の上に三十四冊を積みました。


それから、古誓約書の写し。先代聖女の覚書。王太子エイベルさま署名入りの解任通知。


セヴェリーヌさまの片眼鏡が、わずかに光りました。


「……これは」


「十七年分の聖務日誌です。日付、氷厚、魔力残量、天候、封印残存率。先代の分は覚書のみですが、神殿番の証言を添付できます」


「三日いただきます」


「三日、でよろしいのですか」


「全頁、検分いたしますので」


(本当にやる人だ。この方、本当にやる人だ)


そして、この方は本当にやりました。


三日後。


セヴェリーヌさまは、一睡もしていない顔で、最後の頁を閉じました。


「――十七年分、一日も欠けておりませんね」


「はい」


「氷厚の計測値に、季節変動の整合性があります。天候記録とも矛盾しない。捏造では、ここまで揃いません」


片眼鏡を外し、彼女は初めてわたくしの顔を見ました。


「こういう方は、十年に一度お見えになるかどうかです」


ミナが、隣で必死にメモを取っています。


「しょ……『しょうひょう』『せいごうせい』……書けた!」


「ヴェルンさま。確認事項が四点」


「どうぞ」


「一、古誓約書の原本の所在」


「アルゲント聖殿の最奥、第三封印室の壁面です。壁そのものが原本ですので持ち出しは不可能ですが、各国神殿の記録庫に『建国期写本』が残っているはずです」


「二、債権の相続性」


「第七条。聖女職は神殿に帰属し、未払い債務は後任聖女が承継する、と」


「三、時効」


「第八条。神殿契約に時効の定めなし。――これは、王家側が『永久に聖女を縛るため』に入れた条文です」


セヴェリーヌさまの口の端が、ほんのわずかに動きました。


「……自分で仕掛けた罠に、首を入れましたね」


「四点目は?」


「四、あなたは、利息を請求しますか」


(ああ。この方は、わたくしが一番迷った点を、きちんと四番目に置いてくださった)


わたくしは、少し考えました。


建国以来の複利。計算すれば、おそらくこの大陸の総資産を超えます。それは請求ではなく、破壊です。


「――いえ」


「理由は」


「回収不能な債権は、請求する意味がございません。経理の基本です」


わたくしは筆を取りました。


「利息は、温情で免除いたします。元本一万三千五百五十五枚。これなら、国を割れば払えます」


「割れますね。確実に」


「はい」


(払える額にするのが、一番残酷なのです。払えない額は、ただの冗談になりますから)


セヴェリーヌさまは公証印を取り出しました。


「債権確定通知書、作成いたします。送付先は王家。写しは各国神殿へ――これは国際封印契約に関わる案件ですので、わたくしの判断ではなく、義務として送ります」


「義務として」


「ええ。悪意ではございません。規約です」


(規約が、国を殺しに行く音がします)


印が、どん、と押されました。


紙に残った朱の円。


十七年間、誰にも見られなかった備考欄が、たった今、法的な意味を持ちました。


「ヴェルンさま。肩書きはいかがなさいます」


わたくしは、少しだけ、背筋を伸ばしました。


「――《元・氷海聖女、並びに債権者》と」


通知書が運び出されたあと、ミナがわたくしの袖を引きました。


「聖女さま。これ、勝てますか」


「ミナ」


わたくしはしゃがんで、目線を合わせました。


「これは勝負ではありません。請求です」


「ちがうの?」


「勝負は、相手がいます。請求には、期日しかございません」


窓の外、氷海の方角で、遠く、


ぴしり、と


何かが裂ける音がしました。


三日目でした。


──────────


『第三十四冊 第二百十六日目 氷上へ行かず。備考――氷鳴あり』


──────────


●三日目


王城の祈祷室で、エルマ・ティエンは祈りました。


いつものように、手を組んで。いつものように、光が溢れるはずでした。


何も、起きませんでした。


「……どうして。どうして光らないの。わたし、いつも通り祈ったのに」


もう一度。もう一度。


神殿の予備魔力は、三百年かけて貯められたものでした。彼女の『祈り』は、それを蛇口から流していただけです。


蛇口は、空になりました。


「エルマ! 封印はどうした!」


「わ、わたし、ちゃんと祈りました! いつも通り祈ったんです!」


(いつも通り。――それが、あの方の持ち札のすべてでした)


氷海で、氷厚四尺の盤面に、黒い線が走りました。


●七日目


北の港町、ハルゲ。


溢れ魔素が海底から噴き上がり、氷を突き破って、三体の氷海魔獣が出現しました。


騎士団第二隊、七十四名。


壊滅まで、十九分。


生き残った騎士が王都へ報せを持ち帰ったとき、彼はこう言ったそうです。


「あんなものが、毎朝、あの下にいたのか」


●十日目


王都の冷気供給が停止。


アルゲント聖殿は、大陸の冷気を循環させる装置でもありました。夏の食糧庫は、その冷気で保たれていたのです。


穀物庫、全滅。

肉類、三日で腐敗。


穀物価格、四倍。


市場で老婆が叫びました。


「聖女さまはどこへ行ったんだい!」


誰も、答えられませんでした。


●十二日目


各国の神殿が、アルゲントの封印停止を感知しました。


テルマ聖国、ヴィドラ連邦、南方六神殿連合。


連名の賠償請求が、ドラクシス王城の門に叩きつけられました。添付されていたのは、商業ギルド北方支部公証人セヴェリーヌ・カルタ名義の、債権確定通知書の写し。


『――封印停止の原因は、王国による契約違反および一方的契約解除にある』


大広間で、エイベル・ヴァル・ドラクシスは、生まれて初めて書類を最後まで読みました。


読み終わるのに、二時間かかりました。


「……第四条。白金貨、一枚……一日につき……?」


「殿下」


「おい。この条文は、なんだ。誰も報告しなかったのか」


文官が震えながら言いました。


「殿下。恐れながら、この条文は、歴代の文官が毎年、王家の予算案に『継続債務』として記載し続けております」


「なんだと」


「毎年、却下されております。――『祈るだけの仕事に金は出せん』という理由で。百三十年、同じ文言で」


エイベルは、その紙を取り落としました。


十七年間。


彼は、一度も報告書を最後まで読んだことがありませんでした。


「……馬を」


「殿下?」


「馬を出せ! 北だ!」


──────────


一方そのころ、氷海の小屋では。


「ミナ。この行は『仕入』ではなく『受贈』です」


「じゅぞう」


「対価を払わずに受け取ったもの。薪と毛布と干し果実。出所不明のまま、三年分」


わたくしは筆を置きました。


(本当に、どなたなのでしょう。礼状の宛先が書けないのは、わたくしの帳簿人生で唯一の未処理案件なのですが)


「聖女さま、外、馬の音がする」


「……そうですね」


吹雪の向こうから、蹄の音。


十二日目でした。計算通りです。


わたくしは、立ち上がって、鍋に手を伸ばしました。


「ミナ。お湯を沸かしましょう」


「お客さん?」


「ええ。――債務者さまが、いらっしゃいました」


──────────


『第三十四冊 第二百二十五日目 氷上へ行かず。備考――来客一名。茶葉、残り少なし』


──────────


「もういい、戻れ! 聖女に戻してやる!」


扉を蹴破る勢いで入ってきたエイベルさまは、髪も外套も雪まみれでした。


(『戻してやる』。――まだ、ご自分に与える権限があると思っていらっしゃるのですね)


「おかけください。狭くて申し訳ございません」


「そんな場合か! 港が、王都が、国が――」


「お茶をどうぞ。安いものですが、温まります」


わたくしは、欠けた椀に茶を注ぎました。


彼は座りました。手が震えていました。寒さでしょう。


ここは、わたくしが毎朝出発していた場所です。


「……リースリット。頼む。お前が戻れば、すべて元通りになる」


「エイベルさま」


わたくしは、椀の湯気越しに申し上げました。


「三点、ございます」


「は……?」


「一点目。わたくしは『追放』されました」


卓上に、一枚目の書類を置きます。彼自身が署名した、解任通知。


「これは王命です。古誓約書第九条により、王家からの一方的契約解除に該当いたします」


「そ、それは、ただの通達で――」


「ご署名がございます。日付も。ありがとうございました」


「っ……」


「第九条の規定では、王家都合の解除に際し、違約金が発生いたします。――未払い額の、三倍です」


「な……待て、そんな条文は聞いたことが……!」


「聞いたことがない、というのは、残念ながら法的な抗弁になりません」


(報告書を最後まで読まないと、こういうことが起きるんです。前世でもそうでした)


「二点目。未払い金につきまして」


二枚目を置きます。債権確定通知書。公証印入り。


「封印日数、一万三千五百五十五日。白金貨、一万三千五百五十五枚」


「いち……一万、三千……」


「わたくしの担当分、六千二百五日。先代聖女の未払い分、七千三百五十日。承継の根拠は、古誓約書第七条と、神殿番グレン・ハウルスの保管する覚書です」


「それは、それは……いったい、どれほどの……」


「王国の年間歳入の、およそ二倍にあたります」


エイベルさまの顔から、色が抜けました。


「に、二倍だと……!?」


「ご安心ください」


わたくしは、静かに微笑みました。


「利息は、温情で免除いたします」


「……お、おん、じょう」


「複利で計算いたしますと、建国から三百年分で、大陸の総資産を超えてしまいますので。回収不能な債権を立てるのは、経理として美しくありません」


(払える額にして差し上げました。どうぞ、最後まで払ってくださいませ)


「待て、待ってくれ、リースリット。金は……金はいずれ、なんとかする。だから、お前が戻って封印を――」


「三点目」


わたくしは、三枚目を置きました。


古誓約書、第十二条の写し。


「そして、最も重要な点でございます」


「……なんだ」


「第十二条。――『聖女が契約解除後に封印を再開する場合、王家ではなく、債務を引き受けた第三者と新たに契約を結ぶものとする』」


小屋の中が、しん、としました。


海鳴りだけが聞こえます。


「つまり、わたくしはもう」


わたくしは、手を膝の上で重ねました。十七年、紫になり続けた手を。


「王国の聖女では、ございません」


「……第三者……?」


エイベルさまが、顔を上げました。


「誰だ。誰が引き受けた、そんな額を、誰が――!」


扉が、開きました。


吹雪が、一瞬だけ小屋の中へ流れ込みます。


六尺を超す影。銀灰色の髪。瞳孔が縦に裂けた、氷青の目。


北の氷海を統べる辺境伯、ルシオン・グラン・アルゲイト。大陸中から『冷酷な氷竜』と恐れられる男。


彼は、わたくしを見ませんでした。見られないのです。人の顔を見ると、言葉が喉で凍る方だと、後で知りました。


床の一点を睨んだまま、彼は言いました。


「俺が、全額支払った」


「な――『冷酷な氷竜』……アルゲイト辺境伯……!?」


「領の年収と、竜の宝物庫で足りた。使い道がなかった」


そして、ほんの少しだけ、言葉を探すように黙ってから。


「――十七年分、誰も彼女に『ありがとう』と言わなかったのが、許せなかった」


わたくしの手から、筆が落ちました。


(……計算が、止まりました)


「おじさん!」


ミナが飛び出していきます。


「その袋、においでわかる! 蜂蜜菓子でしょ、ひとつください!」


「……二つ、ある」


「じゃあ二つ!」


「……一つは、俺の」


『冷酷な氷竜』は、十歳の少女と、真剣に菓子の配分を交渉し始めました。


エイベルさまが、呆然と呟きます。


「薪……毛布……干し果実……あれは、お前が……」


わたくしも、ようやく気づきました。


三年分の『受贈・出所不明』。


帳簿の、唯一の未処理案件。


「……辺境伯さま」


「アルゲイトだ」


「アルゲイトさま。ひとつ、伺っても」


「ああ」


「なぜ、三年も、名乗らずに」


彼は、しばらく床を見ていました。


「……吹雪の日に、氷の上に立つ人が見えた」


「はい」


「誰も、迎えに来なかった」


耳の先が、赤くなっていました。本人は、隠せていると思っているようでした。


「寒そうだった。それだけだ」


十七年分の未払いが、たった今、帳簿の上で相殺されたような気がしました。


(――だめです。経理が、感情で数字を動かしてはいけません)


わたくしは、深く息を吸って。


「エイベルさま」


「……」


「本日分の請求書は、後ほど正式に郵送いたします。受領印を、お願いいたします」


彼は、何も言えずに、雪の中へ出ていきました。


馬に乗る力も、残っていないようでした。


──────────


『聖務日誌 第三十五冊 第一日目 氷厚三尺八寸。風弱し。勤務時間、八時より十時。担当――リースリット・ヴェルン/見習いミナ。備考――本日より、交代制。あたたかい』


──────────


結果だけ、簡潔に申し上げます。


ドラクシス王国は、各国神殿への賠償と、債務引受人アルゲイト辺境伯への償還のため、領土の三分の一を手放しました。


エイベルさまは廃嫡。


エルマさまは、前借りの反動で魔力を完全に失い、生家へ戻されました。命は奪われておりません。王都を出る馬車の中で、彼女は初めて自分の手の温かさを呪ったそうです。


ヴェルン公爵家は領地の半分を失いました。


父が一度、小屋へ参りました。


「……リースリット。家に戻れ。領地は半分になった。お前が戻れば、まだ立て直せる」


わたくしは申し上げました。


「お父さま。わたくし、現在は雇用契約が別にございますので」


「……そうか」


それだけです。


──────────


エイベルさまは、北の港ハルゲで、氷割りの日雇いに就きました。


贖罪だそうです。誰に頼まれたわけでもなく。


初日、氷上に立って一時間で膝をつき、手袋を外して、指が紫になっているのを、長いこと見つめていたと聞きました。


その日から、彼は作業記録をつけ始めました。


日付。氷厚。風向。作業時間。備考。


――その書式は、わたくしが十七年書き続けた『聖務日誌』と、一字一句同じでした。


誰が教えたわけでもありません。


彼は十七年間、わたくしの日誌を一度も読まなかったのに、同じ書式に辿り着いたのです。


(それが、あの方の唯一の、そして最も残酷な理解の仕方でした)


──────────


アルゲイト辺境伯領、氷海沿岸。


看板が一枚、掛かっております。


《氷海封印管理事務所》


就業規則、第一条。起草はセヴェリーヌさま。


「就業規則を起草いたしました。第一条のみ、読み上げます。――『第一条、聖務は労働である』」


勤務は交代制。毎朝八時から十時までの二時間。弟子は四人。全員、記録簿をつけます。


終われば、温かいスープと、バターをたっぷり塗った白パン。


「所長! 罫線引けました!」


ミナが定規を掲げます。見習い第一号。計算が得意になってまいりました。


「……ミナ、あなた筋がいいですね」


「っ……わ、わたし、ちょっと、裏に行ってきます!」


あの日、この子は小屋の裏で一人で泣いておりました。


(知っていますが、帳簿には書いておりません)


「所長。わたし、将来は『聖女さま』じゃなくて『事務所の所長代理』になります」


「昇進には勤続年数が必要ですよ」


「じゃあ五年待ちます」


きっぱりと。


グレン爺は、新しい日誌の備考欄を覗き込んで、


「……備考欄は、異常なし、とだけ書いておけ。……いや」


「おじいちゃん、どこ行くの?」


「……外だ。目に、何か入った」


濁った目をこすりながら、外へ出ていきました。


──────────


先日、一通の手紙が届きました。


差出人、エルマ・ティエン。


『魔力はもうありません。それでも、記録簿のつけ方なら、学べますか』


わたくしは返事を書きました。


『筆記具をご持参ください。初日は帳簿の罫線の引き方からです』


それから、もう一通。


匿名の寄付金。差出人欄は空白。


金額は、白金貨七枚。


――かつて父が、わたくしの聖女就任祝いに用意し、結局渡さなかった額と、同じでした。


帳簿には『受贈・出所不明』と記載いたしました。


処理は、それで十分です。


──────────


朝十時。


封印を終えて戻ると、戸口に大きな影が立っておりました。


無表情。瞳孔は縦。身長六尺。


差し出されたのは、蜂蜜菓子。


「……今日の分」


「毎日いただいておりますが」


「……そうか」


耳だけが、真っ赤でした。


わたくしは菓子を受け取り、帳簿を開いて、ふと手を止めました。


「ところで、辺境伯さま」


「ルシオンでいい」


「――ルシオンさま。あなたがお支払いになった、白金貨一万三千五百五十五枚ですが」


「返済は不要だ」


「いいえ」


わたくしは、筆を取りました。


「債務は、消えません。わたくし、生涯をかけてお返しいたしますので」


「……生涯」


「ええ。わたくしの報酬が年間、白金貨十二枚ほど。全額返済に充てたとして」


さらさらと、余白に計算を書きます。


「千百二十九年ですね」


「……」


「ですので、だいたい、そうですね……」


顔を上げて、申し上げました。


「一生かかりますね?」


ルシオンさまは、長いこと黙っていました。


それから、わたくしの顔ではなく、床を見たまま、小さく頷きました。


「…………それでいい」


耳だけでなく、首まで赤くなっておりました。


本人は、隠せていると信じているようです。


(では、この契約も、きちんと書面にいたしましょう。――口約束は、証拠になりませんので)


海鳴りが聞こえます。


氷は、今日も静かに、封じられています。


わたくしは備考欄に、今日の一行を書きました。


『異常なし。手の感覚、あり』


──────────


(あとがき)


お読みくださりありがとうございました。


続編では、事務所に舞い込む『他国神殿からの未払い案件』と、ルシオンさまの一族が抱える三百年前の契約書を扱う予定です。


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