揺れる馬車と近過ぎる距離
馬車の中は、思っていたよりも静かだった。
向かい合って座るのだと、勝手に思い込んでいた。
いつもなら、そうだ。
距離があって、会話があって、視線が交わって。
――けれど。
扉が閉まった瞬間、ベルンハルトは迷いなく隣に腰を下ろした。
近い。
あまりにも。
(……え、ここ?)
広い座席は他にもあるのに。
わざわざ、肩が触れるほどの距離。
カレンは背筋を伸ばし、視線を窓の外へ逃がした。
馬車が走り出し、石畳を転がる音が規則正しく響く。
夕方の光が、街路樹の影を引き伸ばしていく。
見慣れた景色のはずなのに、今日は落ち着かなかった。
(……近い……)
隣にいるだけ。
それだけなのに、意識がそちらに引っ張られる。
(はやく……家に着かないかな……)
思わず、そんなことを考えてしまう。
帰りたい。
今すぐ帰りたい。
理由ははっきりしている。
(居た堪れない……)
ベルンハルトが嫌なわけじゃない。
むしろ逆だ。
昨日、想いを伝え合った。
結婚を前提に、付き合うと決めた。
それなのに――
前世の記憶が戻った今の私は、
その“近さ”を、うまく受け止められない。
(整理したい……頭の中……)
攻略情報。
ルート。
今の立ち位置。
それを一人で確認したかった。
なのに、隣には“現在進行形の恋人”がいる。
沈黙が、長くなる。
馬車の揺れに合わせて、
ベルンハルトの肩が、わずかに触れる。
ぴくり、と身体が反応してしまい、
それを誤魔化すように、窓の外を見つめる。
その時だった。
「今日は……」
低い声が、隣から落ちてくる。
「……何か……」
言いかけて、止まる。
「え?」
思わず、振り向いてしまう。
ベルンハルトは、こちらを見ていた。
真正面からではなく、少しだけ横顔で。
「いや……」
一拍。
「何でもない」
そう言って、視線を前に戻す。
(……なに?)
今の間。
言い切らなかった言葉。
(聞いちゃ……だめなやつ?)
空気が、わずかに張り詰める。
その沈黙を切るように、
ベルンハルトが、ぽつりと言った。
「……触れても、いいかな?」
「なんで?」
即答だった。
(……あっ)
言った瞬間に、気づく。
(しまった……!)
恋人に対して、
あまりにも冷たい反応。
ベルンハルトの指が、わずかに止まった。
けれど、彼は何も言わない。
代わりに――
静かに、手を伸ばしてきた。
細い指が、カレンの髪に触れる。
桃色の髪を、ひと房すくい上げる仕草。
(……え)
抗議も、拒否も、
間に合わなかった。
ベルンハルトは、
そのまま、カレンの方を向いた。
視線が合う。
近い。
近すぎる。
灰色の瞳が、まっすぐにこちらを覗き込む。
(……ちょ、待って……)
言葉になる前に――
ふっと、影が落ちた。
唇が、髪に触れる。
――ちゅ。
音は、ほとんどしなかった。
それなのに。
(………………っ!!)
脳内、完全パニック。
(え、え、え、なに!?)
思考が一気に散らばる。
前世の私。
今の私。
恋人。
推し。
ルート。
全部が、ごちゃまぜになる。
(なにこれ!?)
(キス!?)
(いや、髪!?)
(でも近い!!)
熱が、一気に頬に集まる。
ベルンハルトは、ゆっくりと身を離した。
その動きは、落ち着いていて、丁寧で。
何事もなかったかのように、
また前を向く。
沈黙。
カレンは、声も出せず、
ただ固まったまま。
(……なに……今の……)
説明もない。
謝罪もない。
けれど、不思議と――
嫌では、なかった。
それが、余計に混乱を招く。
(……だめだ……)
このままだと、
何か大事な判断を、
全部間違えそうな気がする。
馬車が、ゆっくりと速度を落とす。
御者の声。
停車の衝撃。
到着だ。
扉が開く前に、
ベルンハルトが、短く息を吐いた。
「……」
何か言いかけて、
結局、何も言わない。
その沈黙が、
先ほどよりも重く感じられた。




