ベルンハルトの沈黙
ガボゼを抜ける風が、花の香りを運んでいた。
さっきまで穏やかだった空気は、
今は、どこか冷たく、薄く伸びている。
切られた私の髪が、足元に落ちている。
たった一房。
それだけなのに、妙に目に焼き付いて離れない。
ベルンハルトは、まだそこに立っていた。
目元から手を下ろし、
静かに瞬きをひとつ。
「……」
何も、言わない。
私は、その沈黙が怖くて、
同時に、壊れそうで――
胸が、きゅっと締めつけられた。
(……ごめんなさい)
言葉は、喉まで上がってきている。
でも、音にならない。
何を謝ればいいのか、分からなかった。
髪が絡まったこと?
転びそうになったこと?
エルンストに支えられたこと?
それとも――
彼の“整えた世界”を、
私が踏み越えたこと?
ベルンハルトは、視線を落とし、
花の揺れる足元を見ていた。
その横顔は、いつも通り整っている。
表情も、崩れていない。
けれど…。
(……痛い)
胸が、じわじわと痛む。
怒られていないのに。
責められていないのに。
何も言われないことが、
こんなにも重いなんて、知らなかった。
「……ベルンハルト」
ようやく、声を出す。
彼は、すぐに顔を上げた。
「大丈夫だ」
即答だった。
早すぎるくらい。
「事故だ。誰も悪くない」
淡々とした声。
感情の起伏が、削ぎ落とされたみたいに。
(……本当に、そう思ってる?)
私は、問いかけたい衝動を、必死に抑えた。
(……違う)
この人は、
“そう思うことにしている”。
そうしなければ、
何かが壊れてしまうから。
ベルンハルトは、深く息を吸い、
ゆっくり吐き出した。
「昼は……もう戻ろう」
「……うん」
頷くしかなかった。
ガボゼを出る。
花の香りが、遠ざかる。
歩幅は、以前と同じ。
距離も、同じ。
けれど。
(……近いのに、遠い)
隣を歩く彼の存在が、
ガラス越しみたいに感じられる。
沈黙が続く。
足音だけが、石畳に響く。
(……何か、言わなきゃ)
そう思うのに、
どんな言葉も、正しくない気がして。
ベルンハルトは、私を見ない。
前だけを、見ている。
その背中が、
少しだけ、硬く見えた。
(……閉じた)
彼は、感情を閉じた。
怒りでも、悲しみでもなく。
“沈黙”という形で。
それは、
私を傷つけないための選択で。
同時に――
自分を、守るための選択。
(……私)
胸の奥が、ずきりと痛む。
もし、怒ってくれたら。
もし、問い詰めてくれたら。
こんなに、苦しくならなかった。
でも。
何も言わない彼は、
私を責めていない。
それが、
一番、胸にくる。
学園の建物が見えてくる。
日常に戻る道。
何事もなかったように、戻れる場所。
でも、私は知ってしまった。
言葉にされなかった感情が…
胸の奥が痛くして
息をするたびに、少しだけ苦しい。




