彼の頬を伝って、落ちたもの
「……すまない」
ベルンハルトの声は、低く、静かだった。
「…風で……ゴミが、目に……」
そう言って、彼は片手で目元を押さえる。
けれど、私は見てしまった。
――さっき、確かに。
彼の頬を伝って、落ちたものを。
「ベルンハルト……」
一歩、近づこうとして。
「痛ッ」
思わず声が漏れる。
(あ……)
まだ、髪が絡まったままだ。
風に煽られた私の髪は、
エルンストの腕のカフスボタンに、しっかりと引っかかっている。
慌てて動こうとして、
逆に、引っ張ってしまった。
「動かないで」
エルンストの声が、近い。
彼は、慎重に距離を詰め、
指先で、私の髪に触れた。
(……っ)
触れられたのは、髪だけ。
それでも、心臓が跳ねる。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
謝るしかなかった。
誰に、何に、なのかも分からないまま。
「すまない。すぐに外すから、動かないでほしい」
エルンストの声音は、落ち着いている。
でも、その距離が、今はつらい。
(……気まずい)
非常に、気まずい。
空気が、重い。
誰も、次の言葉を選べない。
その時。
「……ふ、ぅ……」
小さく、震える息。
振り向くと、
アイナが、胸元を押さえて立っていた。
「……ごめんなさい」
顔色が、悪い。
「私……ちょっと、体調が……」
「え!?」
私の声が、間抜けに響く。
次の瞬間。
アイナは、踵を返して、走り出した。
「アイナ!」
エルンストの声が、追いかける。
彼の指が、一瞬止まった。
(……早く)
胸が、ざわざわと騒ぐ。
私は、思わず叫んでいた。
「髪を、切って!!」
自分でも、驚くほど大きな声。
エルンストが、はっと目を見開く。
「はやく、追いかけて!!」
迷いなく、そう言った。
(……私のせい)
この場に、彼を縛りつける理由なんてない。
今、追うべきは、アイナだ。
エルンストは、ほんの一瞬だけ躊躇い、
それから、素早くナイフを取り出した。
「……失礼する」
ちり、と。
絡まった部分だけを、
迷いなく切る。
髪が、軽くなる。
「ありがとう」
言葉が、震えた。
エルンストは、すぐに駆け出していった。
アイナの後を追って。
残されたのは、
私と、ベルンハルト。
花が揺れるガボゼ。
さっきまでの、穏やかな昼食の名残。
(……私が、決めたはずだった)
今日は。
私が、選ぶ日だった。
なのに。
(……どうして、こうなるの)
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
ベルンハルトは、まだ目元を押さえたまま、
何も言わない。
私は、切れた髪の感触を指で確かめながら、
深く、息を吸った。
(……私)
守られていたのに。
閉じられていた偶然を、
自分で、こじ開けてしまった。
そして――
一番、傷つけたくなかった人の前で。
自責と混乱が、
胸の中で、絡まり合ってほどけない。




