平穏が続くほど、怖くなる
その日は、本当に、何も起きなかった。
登校の馬車は揺れも少なく、
学園の正門は混雑もなく、
中庭の噴水はいつも通りの音を立てている。
授業は滞りなく進み、
先生の声も板書も、驚くほど頭に入った。
(……平和だなぁ)
思わず、そう思ってしまうくらい。
ベルンハルトは、ずっと隣にいた。
近すぎず、遠すぎず。
触れない距離を守ったまま、自然に。
移動教室では先に立って扉を開け、
人の流れが多い場所では、さりげなく外側に立つ。
(……優しい)
それは間違いない。
昼休みも、食堂は混んでいなくて、
空いている席にすんなり座れた。
誰かに声をかけられることもない。
呼び止められることも、偶然の再会も。
(……何も、起きない)
静かすぎる。
午後の授業が終わり、
放課後の時間になっても同じだった。
部活帰りの生徒たちが行き交う廊下。
いつもなら、どこかで起きる小さな出来事。
本を落とす音。
名前を呼ばれる声。
すれ違いざまの会話。
今日は、それがない。
(……おかしい)
胸の奥で、
小さな違和感が、形を持ち始める。
安心しているはずなのに。
守られているはずなのに。
(……私、今日は……)
自分で、何かを選んだだろうか。
進む道。
座る場所。
帰る時間。
思い返してみる。
「こっちから行こう」
「先に帰ろう」
「今日は、寄り道しない方がいい」
全部、ベルンハルトの言葉だった。
私は、それに頷いただけ。
(……あ)
それに気づいた瞬間、
胸の奥が、きゅっと縮む。
嫌じゃない。
拒否したいわけでもない。
でも。
(……私、考えなくなってる)
前は、少しだけ迷っていた。
今日はどうしよう。
誰に会うかな。
どこを通ろう。
それが、ない。
“何も起きない”は、
“何も選ばない”と、こんなに近い。
ベルンハルトが、こちらを見る。
「疲れたか」
「……ううん」
少しだけ、間が空いた。
「大丈夫」
そう言い直す。
彼は、安心したように目を細めた。
(……その顔)
信頼している顔。
疑っていない顔。
(……言えない)
この違和感を、
どう言葉にすればいいのか、分からない。
歩きながら、
私は無意識に周囲を見回した。
中庭。
騎士科の廊下。
掲示板の前。
(……何も、ない)
イベントが起きない。
偶然が起きない。
平穏。
――完璧な日常。
なのに。
(……平穏が、重い)
空気が、少しだけ濃い。
胸の奥に、薄い膜が張ったみたいに。
ベルンハルトは、相変わらず優しい。
視線も、距離も、言葉も。
(……守られてる)
そう思うと、
同時に、別の言葉が浮かぶ。
(……囲われてる?)
思考が止まりそうになる。
(……考えすぎ)
きっと、気のせいだ。
何も起きていないんだから。
問題も、トラブルも。
私は、彼の隣を歩く。
同じ速度で。
でも、心のどこかで――
小さな芽が、確かに育ち始めていた。
“選択肢が、減っている”
まだ不安とは呼べない。
でも、無視できない違和感。
何も起きない一日は、
静かに、私を追い詰めていた。




