俺だけの彼女
重なる唇と、交わる吐息だけでは、もう足りない。
そんな思いが胸の奥に根を張ったのは、いつからだったか。
朝の光が差し込むアイゼン家の回廊。
磨かれた床に、二人分の影が並んで伸びている。
カレンは、少しだけ遅れて歩く。
それが癖になっているのは、無意識だろう。
ほんの半歩。
俺の背中を見失わない距離。
「……どうした?」
振り返ると、彼女は一瞬だけ驚いたように瞬きをしてから、柔らかく笑った。
「ううん。ベルンの背中、見てただけ」
その答えに、胸の奥がじくりと疼く。
背中。
俺の背中。
彼女が見ているのは、俺だけだという事実が、静かに誇らしい。
自然と、手を取っていた。
指先が絡み、体温が伝わる。
カレンは、もう振りほどこうとはしない。
けれど、完全に委ねきることもない。
その曖昧な距離が、俺の感情を煽る。
(……俺のものだ)
何度もそう思ってきた。
何度も、胸の中で繰り返してきた。
学園でも、屋敷でも。
彼女は俺の傍にいる。
誰の視線も、誰の言葉も、割り込ませない。
それでも。
それでも、足りない。
教室で、隣に座る彼女。
ノートに視線を落としながら、時折こちらを窺う仕草。
風が吹けば、髪が揺れ、その香りがふわりと届く。
触れている。
確かに触れている。
だが、触れていない部分が、まだ多すぎる。
(……奪われる、という想像は消えない)
理屈では分かっている。
婚約は整い、障害は排された。
レオンは去った。
それでも、心は納得しない。
一度でも、彼女が俺以外の腕に収まった事実。
それが、喉元に刺さった棘のように残っている。
昼休み。
人気の少ない中庭の片隅。
木陰に置かれた石のベンチに、カレンを座らせる。
その前に立ち、見下ろす形になると、彼女は少し居心地悪そうに視線を逸らした。
「……ベルン?」
呼ばれる。
その声だけで、胸が締め付けられる。
「カレン」
名前を呼び返す。
それだけで、彼女の肩がわずかに揺れた。
「俺は」
言葉を選ぶ必要はない。
もう、回りくどいことを言う段階ではない。
「君を、手放すつもりはない」
カレンの瞳が揺れる。
怯えと、安堵と、期待が混ざった色。
「それは……」
言いかけた唇に、指を添える。
塞ぐためではない。
逃がさないためだ。
「聞いてくれ」
声を落とす。
周囲に誰もいないことを確認してから、さらに一歩近づく。
「俺は、君を守る。
だがそれ以上に――」
息を吸う。
胸の奥に溜め込んでいた本音を、ゆっくりと吐き出す。
「君が俺のものであると、確かめ続けたい」
一瞬、静寂。
カレンは何も言わない。
ただ、俺を見上げている。
拒絶はない。
だが、完全な同意もない。
それが、たまらなく愛おしい。
額に、そっと口付けを落とす。
次に、瞼。
頬。
そして、唇。
深くはしない。
だが、確かに、刻むように。
カレンの指が、俺の服を掴んだ。
ぎゅ、と力が入る。
(……ほら)
逃げていない。
「怖いか?」
問いかけると、彼女は一瞬だけ迷い、それから小さく頷いた。
「……少し」
「それでも、俺の傍にいるか?」
答えは、言葉ではなく、動きだった。
彼女は、俺の胸に額を押し当てる。
その重み。
その温度。
理性の最後の壁が、静かに崩れる音がした。
(ああ)
俺は、もう戻らない。
腕を回し、包み込む。
逃げ道を塞ぐのではない。
居場所を確定させる。
「君は、俺だけの彼女だ」
囁きは、誓いだった。




