封じられる選択肢
夜明け前の空は、まだ群青に沈んでいた。
王都の屋根の向こうで、かすかな光が滲み始めている。
アイゼン家の執務室には、すでに灯りがあった。
分厚い書類の束。
王国紋章が刻まれた封蝋。
静かに交わされる視線。
「婚約許可証は――覆る」
低く告げたのは、オーレン・アイゼンだった。
公爵としてではなく、父としての声でもあった。
机の向かいに座るセナは、ゆっくりと頷く。
その表情には迷いがない。
「許可証は“許した”という事実に過ぎないわ。
選んだという証明ではない」
ベルンハルトは、二人の言葉を黙って聞いていた。
その背筋は真っ直ぐで、視線は一度も揺れない。
「――ならば」
オーレンは、書類の一枚を取り上げた。
王国正式文書。
婚約証明書の申請書だ。
「順序を飛ばす。
先に“証明”を押さえる」
セナが続ける。
「婚約許可証は、あくまで家と家の話。
婚約証明書は、王国と個人を結ぶものよ」
それは、逃げ道を塞ぐ一手だった。
ベルガモット家が、レオンの圧に屈して捺印した婚約許可証。
それは確かに“英断”だったのかもしれない。
国を背負う公爵家を敵に回さぬための、苦渋の選択。
だが同時に――
抵抗の、ひとつでもあった。
「ベルガモット家は、アイゼン家との婚約を望んでいる」
オーレンは断言する。
その声に、政治的な曖昧さはない。
「ならば、我々が動く理由は十分だ」
ベルンハルトは、ようやく口を開いた。
「……王国は?」
「既に根回しは済ませてある」
セナが静かに答える。
「学園、軍部、外務省。
ヴァルグ家が“強すぎる”のは事実だけれど――
それは同時に、警戒対象でもある」
力を持ちすぎた家は、いつでも均衡を崩す。
王国はそれを嫌う。
「婚約証明書が出れば、次は?」
ベルンハルトの問いに、オーレンは迷いなく答えた。
「結婚証明書だ」
空気が、ぴんと張り詰める。
「早すぎると思うか?」
「いいえ」
ベルンハルトは即答した。
「遅すぎました」
その言葉に、セナの目が細められる。
責める色はない。
ただ、覚悟を量る視線だった。
「ベルンハルト」
セナは、母として彼の名を呼ぶ。
「これは、引き返せない道よ」
「承知しています」
彼は、視線を逸らさなかった。
「俺は、彼女を手放しません」
それは誓いではなく、事実の宣言だった。
カレンの怯えた声。
震える指。
それでも、自分の名を呼んだあの瞬間。
――選ばされたのだ。
――彼女は。
「選択肢を、封じます」
ベルンハルトの声は静かだった。
だが、その奥には、確かな熱がある。
「彼女が迷わなくていいように。
奪われないように」
オーレンは、ゆっくりと立ち上がった。
「よろしい」
書類に手を伸ばし、封蝋を確かめる。
「王国へ送る。
今日中に」
セナもまた立ち上がり、ベルンハルトの前に立った。
「あなたは、彼女の傍にいなさい」
「はい」
「もう、躊躇わないこと」
ベルンハルトは、深く頷いた。
窓の外では、夜が完全に退き、朝が来ている。
新しい一日。
新しい局面。
選択肢は、ひとつずつ閉じられていく。
逃げ道は――
彼女のために、消されていく。
ベルンハルトは、胸の奥で静かに思った。
(もう、渡さない)
それは独占ではない。
保護でもない。
――確保だ。
彼女が彼女でいられる未来を、
他の誰にも触れさせないための。
アイゼン家は、動いた。




