落ちた心。
湯殿の湯は、静かだった。
白い蒸気が天井へと昇り、石壁に沿って淡く揺れる。
ベルンハルトは肩まで湯に沈め、瞼を伏せたまま動かなかった。
温度はちょうどいいはずなのに、身体の内側は冷え切っている。
熱を失ったのではない。
熱が、別の場所に集まりすぎている。
——カレン。
名前を呼ばずとも、思考の中心にいる。
抱き締めた感触。
拒まれなかった、あの一瞬。
そして、ほんのわずかに走った、彼女の怯え。
(……恐れさせた)
それを認めた瞬間、胸の奥がざらついた。
後悔ではない。
自責でもない。
——怒りだ。
奪われかけた。
触れられ、選択を迫られ、逃げ場を塞がれた彼女を、俺は見ていた。
見ていながら、取り返すまでに時間を要した。
湯の中で、指先がゆっくりと握られる。
水面が小さく揺れ、波紋が広がる。
(二度と、同じことは起こさせない)
理性は、まだ言葉を保っている。
だが、その裏側で別の感情が確かに形を成していた。
——囲え。
——離すな。
——選択肢を与えるな。
彼女は優しすぎる。
逃げようとしても、誰かを傷つけない道を選ぼうとする。
だから付け込まれる。
だから、狙われる。
「……俺の責任だ」
低く落とした声が、湯殿に溶ける。
誰に聞かせるでもない独白。
彼女を守ると言った。
将来を誓った。
それなのに、彼女は今、ひとりで震えている。
(守るだけでは足りない)
守るとは、遮ることだ。
選ばせないことだ。
危険が届く前に、すべてを排除することだ。
湯から上がると、冷えた空気が肌を撫でた。
濡れた髪をそのままに、ベルンハルトは鏡の前に立つ。
映る瞳は、以前よりも深い色を帯びていた。
穏やかさの奥に、決定的な硬さが沈んでいる。
(彼女が怖がるほど、踏み込むな?)
違う。
怖がらせたのは、行動そのものではない。
不安定な状況だ。
不確かな立場だ。
——ならば、確定させる。
婚約許可証。
公的な後ろ盾。
家と家の結びつき。
そして、彼女自身の心を、二度と揺らがせない距離。
「……カレン」
名前を呼ぶと、胸の奥が静かに満たされた。
独占欲が、安堵へと姿を変えていく。
彼女を閉じ込めるためではない。
彼女が安心して呼吸できる場所を、俺の腕の中に固定するためだ。
闇に落ちたのではない。
覚悟を、選んだだけだ。
——ここからは、俺の番だ。




