心が壊れそう
ベルンハルトとの別れ際、カレンは最後まで平静を装っていた。
馬車の前で、名残を惜しむように強く抱き締められ、彼の腕がゆっくりと解けた瞬間まで、声を震わせずにいられたのは、たぶん意地だった。
「……また、明日」
そう言われて、頷いた。
それだけだった。
屋敷の扉が閉まり、静けさが戻った途端、張り詰めていた糸が切れたように、膝から力が抜けた。
メイドに気づかれないように、足早に自室へ向かう。
扉を閉め、鍵をかけて、ようやく深く息を吐いた。
ベッドに腰を下ろし、次いで、そのまま倒れ込む。
シーツに顔を埋め、枕を胸に引き寄せた。
――怖かった。
その感情を、ようやく言葉にできた。
ベルンハルトの腕は、確かに温かかった。
抱き締められたときの体温も、声も、香りも、すべてが懐かしくて、安心できるはずだった。
なのに、あの瞬間だけ、胸の奥がひやりと冷えた。
思い出すのは、馬車の中で見た彼の瞳。
いつもの穏やかな色ではなく、深く、濃く、何かを飲み込もうとするような光。
「奪わせない」
その囁きが、耳から離れない。
枕をぎゅっと抱き締める指先に、自然と力が入った。
指が白くなるほど握りしめても、不安は消えない。
(ベルンは……私を守ろうとしてくれている)
それは、わかっている。
レオンから逃がしてくれたことも、学園で手を引いてくれたことも、誰よりも早く私の異変に気づいてくれたことも。
それでも。
(守る、って……どこまで?)
胸の奥で、小さな疑問が膨らむ。
ベルンハルトの言葉は、優しさと同時に、強い意思を孕んでいた。
逃がさない、という響きが、ほんのわずか、檻の影を帯びていた。
カレンは、枕に顔を埋めたまま、ゆっくりと瞬きをする。
涙は出なかった。
代わりに、重たい疲労感が全身を包んでいく。
レオンの笑顔。
ベルンハルトの沈んだ瞳。
アイナの警告。
すべてが絡み合い、ほどけない糸のように心に残っている。
(どうして、こんなことに……)
誰かを選んだはずだった。
選んで、歩き出したはずだった。
なのに現実は、選択肢を与えてくれない。
家と家、国と国、立場と権力。
一個人の想いなど、簡単に押し潰されてしまう。
カレンは仰向けになり、天井を見つめた。
暗がりの中、淡い月明かりがカーテン越しに差し込んでいる。
この部屋は安全だ。
今夜、誰も踏み込んでこない。
そうわかっているのに、胸の鼓動はなかなか落ち着かなかった。
ベルンハルトの手の強さ。
唇に残った熱。
それらが、優しさと同時に、逃げ場のなさを思い出させる。
(私……どうしたいんだろう)
問いかけても、答えは出ない。
ベルンハルトが好きだ。
それは、疑いようもない事実だ。
彼の隣で笑っていた時間。
湖畔で交わした約束。
何気ない日常の中で、少しずつ積み重ねてきた信頼。
それを失いたくない。
でも、同時に、彼に飲み込まれるような未来も、怖い。
枕を抱く腕が、わずかに震えた。
(私一人じゃ……どうにもできない)
その現実が、何よりも苦しかった。
自分の選択で、誰かを守ることも、誰かを拒むこともできない。
ただ流され、決められ、奪われる。
カレンは、唇を噛みしめた。
弱音を吐けば、泣いてしまいそうだった。
(明日……どうなるの)
学園で、またレオンに会うかもしれない。
ベルンハルトの態度も、今日とは違うかもしれない。
どちらも、怖い。
枕に顔を埋めたまま、カレンは目を閉じた。
眠れる気はしなかったが、意識を手放さなければ、心が壊れそうだった。
(……少しだけでいい)
願うのは、ほんのわずかな静けさ。
誰にも引き裂かれない、ひとりで考える時間。
その夜、カレンは抱えきれない不安とともに、浅い眠りへと沈んでいった。




